漱石という生き方


漱石という生き方

漱石という生き方


岩波版『漱石全集』を、二種類持っている。菊判とB6版。漱石の原稿を忠実に編集したのが、B6版『漱石全集』であり、秋山豊氏は、理系出身でありながら編集を任され、方針として自筆原稿に忠実に再現するという基本線を出した。秋山豊『漱石という生き方』は、全集編集の余滴といえるが、内容として読者をひきつける強度がある。もちろん、朝日の書評で、柄谷行人が取り上げたから秋山氏の本を読む気になつたわけで、あまりにも多い<漱石論>すべてに付き合っている暇はない。


畏怖する人間 (講談社文芸文庫)

畏怖する人間 (講談社文芸文庫)


岩波版(菊版)の『漱石全集』のあと、荒正人編集の『漱石文学全集』(集英社)が出て話題になった。別巻の『漱石文学年表』のみ買い求めているが、岩波版と細部の比較などできないし、できるほどの専門家ではない。あくまで、作品として漱石を読んできた。秋山氏が試みたのは、テキストクリティクに相当するのだろう。


決定版 夏目漱石 (新潮文庫)

決定版 夏目漱石 (新潮文庫)


漱石論を読んだのは、江藤淳桶谷秀昭柄谷行人蓮實重彦吉本隆明石原千秋など思いつくままあげても、数多い。漱石論でデビューした柄谷行人が、秋山氏の『漱石という生き方』に、新しい読解ではなく、作品に向き合う姿勢を評価している。漱石研究家でもない一人の編集者が、漱石について書くことは、当然、編集過程で出会う問題にかかわる。漱石を、表層のテクストに徹して読んだのが蓮實重彦*1だった。読み物としては、面白いが、漱石像からは乖離する。


夏目漱石を読む

夏目漱石を読む


漱石という生き方』は、『心』と『道草』を中心に、作中人物と漱石の位置関係を確認しながら、「変わる」ことに注目する。

生まれ変わるためには、健三がそれまでに経過してきた過去というものを、どうしても総括する必要があったからこそ、『道草』において執拗に過去が語られているのにちがいない。そこで語られる過去の諸相と、そこから導かれた健三の思想が、すなわち漱石自身の「私はこ斯んな風に生きてきたのです。」の内実にほかならず、その漱石自らの思想を、まるで血潮を浴びせかけるようにして、読者に投げかけているのではないか(p.253)


という仮定で、著者は漱石に寄り添いながら、テキストを読んで行く。いわゆる批評家の文体ではなく、書き手の志向性が伝わるので、一気に読めてしまう。本書を読みながら、購入したまま放置している『漱石全集』を手にとらねばと思わせる。


道草 (岩波文庫)

道草 (岩波文庫)

「世の中に片付くなんてものは殆んどありやしない。一遍起つたこ事は何時迄も続くのさ。たヾ色々な形に変わるから他には解らなくなる丈の事さ」健三の口調は吐き出す様に苦々しかった。細君は黙って赤ん坊を抱き上げた。(p.284)


あまりにも人口に膾炙した箇所だ。

このようにして健三が、自らの必ずしも芳しくない生育環境から脱出して、何者かになるための原動力としての「自然の力」とは、別の意味における「自然」によって、理性から野生へと回帰して行く未来は、ほのかに見え隠れしているといえるだろう。漱石自身に即して言えば、研究者から創作家への転身は、つまりは原稿料を予期しない著述から原稿料を目的とする著作への移行は、このようにして、理性的なあるいは原理的な思考から、野性的なあるいは個別具体的な経験というものへの依拠へと、移っていつたことにほかならない。(p.284)


秋山氏の説明がいささか迂回しているため、上記の引用では説明不足になるけれど、漱石に即するという姿勢からみると、「変化する」ことが、漱石にとっての必然であったことになる。『漱石という生き方』は、新しい解釈がなされるのもではなく、漱石の「生き方の変容」に焦点をあてており、そのような見方が新鮮に映るのである。これは、秋山氏編集『漱石全集』を読むことが要請されていると受け取った。とりあえず、『心』と『道草』を再読すること。



石原千秋の『こころ』論は、みすず書房の<理想の教室>の一冊として刊行されている。拙ブログの205年7月16日で触れた。『心』ではなく、『こころ』であることに注意。


『こころ』大人になれなかった先生 (理想の教室)

『こころ』大人になれなかった先生 (理想の教室)