回想:出版界の四半世紀

いささか旧聞に属するが「本のメルマガ vol.244」(2006.03.25.発行)から引用をしておきたい。

著者は、編集者・二宮隆洋氏。「回想:出版界の四半世紀」から

私が高校・大学生活を過ごした1960年代後半から70年代半ばには、異色の出版社が元気だった。桃源社薔薇十字社現代思潮社、牧神社といった名前がすぐ浮かぶ。既成の大手・中堅版元にもそれぞれ個性と言いうるカラーがあったように思う。とりわけ美術出版社の活躍はみごとだった。三島由紀夫の推薦文が付き、モンス・デジデリオの廃墟図をあしらったホッケ『迷宮としての世界』(矢川澄子種村季弘訳)、美術選書の一冊で、エッシャーが表紙を飾った澁澤龍彦『夢の宇宙誌』、浩瀚図像学的神話誌研究たるセズネック『神々は死なず』(高田勇訳)など、いくつもの傑作がある。内容もさることながら、装丁も魅力的だった。なお、『迷宮としての世界』の新訳が畏友中村鐵太郎の手で遠からず出ることを予告しておきたい。

桃源社薔薇十字社現代思潮社、牧神社、懐かしい名前だ。いま、このような異色の出版社があるだろうか。種村季弘訳の『迷宮としての世界』の新訳は、楽しみだ。

ホッケの発見者のひとりが大岡昇平であったこと(ウィーンの本屋で見つけたのだそうだ)、セズネックの仕掛け人、邦題の命名者が林達夫であったことなどを知ったのはずっと後の話だが、この時代には優れた目利きがおり、労を厭わない読み手・訳し手がおり、社の垣根を越えて協働する筆者・編集者の共同体(のようなもの)が確実にあったようだ。

「社の垣根を越えて協働する筆者・編集者の共同体」が現在あるのだろうか?

『思想』、『海』、『朝日ジャーナル』、『パイデイア』、『血と薔薇』、『遊』といった雑誌も盛況で、贔屓の筆者が寄稿した号は必ず買ったものだし、書評の影響も絶大だった。後年、私が手がけることになる観念史学派の記念碑Dictionary of the History of Ideas (邦題『西洋思想大事典』)の最初の紹介は『朝日ジャーナル』書評欄に載った由良君美のエッセイだった。影響力のある書評欄が消え、書き手もいなくなったのは、この10年の悲しむべき傾向である。

『思想』のみ健在だが、『海』、『朝日ジャーナル』、『パイデイア』などはもはや語り草となつてしまった。購入したい雑誌がない。

このような「見えざる学院」(アカデミズムや論壇の主流ではないが、新しい潮流を模索していた知的運動体)の領袖こそ、私にとっては林達夫その人だ。最初、岩波講座『哲学』に載ったマニフェスト的論文「精神史」の衝撃は大きかった。エラノス学派(ケレーニイ)、ヴァールブルク学派(F.イェイツ)はもちろん、バハオーフェンやシャステルらを援用しながら、「洞窟の芸術家」レオナルドと「墳墓の芸術家」ミケランジェロの対比に及ぶ絢爛たる考察。彼が長く顧問を務めた版元(平凡社)に就職し、不充分ながらその衣鉢を継げたのは幸運であった。私の仕事の方向はほぼ林が示してくれたと言ってよいが、もう一人挙げるとすれば小野二郎晶文社創業者)である。

知の優れた編集者であつた林達夫小野二郎に匹敵する知の工作者は、いま、何人いるのだろうか。

林であれ小野であれ、言葉の最良の意味での百科事典的精神(それは、同じく最良の意味でのアマチュア精神である)がその仕事を豊かなものにしていたと思うが、悠々たる博識や専門に囚われない闊達な学際的知性はその後、とりわけ人文書の世界からどんどん失われていった。林あるいは小野の弟子を自称・他称する人物は少なくないが、超えた人はいないし、かえって彼らの凋落がたとえば岩波書店のそれと軌を一にしているのは興味深い。雑誌『ヘルメス』は林の命名にかかるが、使命をまっとうできなかった。大学総長になってしまった仏文学者や社会史家は論外であるし、こともあろうに文化庁長官になった心理学者にいたってはグロテスクだ。いったい誰が神輿を担いでいるのだろうか。いわゆる「GSグループ」、ニュー・アカも同様で、私見では団塊世代猟官運動にすぎない。彼らの多くがその後ポストを得て、若年寄めいた「評論家」や大学の客寄せパンダになり果てたのは、予想されたとはいえ悲惨な事態ではある。

大学総長になってしまった仏文学者や社会史家とは、いうまでもないだろう。蓮實重彦阿部謹也。「文化庁長官になった心理学者」とは、あのユング学者・河合隼雄。この人何を考えているのだろうか?


反=日本語論 (ちくま文庫)

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ハーメルンの笛吹き男―伝説とその世界 (ちくま文庫)

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昔話の深層 ユング心理学とグリム童話 (講談社+α文庫)

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このように、尊ぶべき文人的識者が消える一方で、学者のみならず、誰もが何らか「専門家」や「プチ・カリスマ」を自任して、傲慢にも互いに馬鹿と思っているのが現代ではないか。「専門家は堕落した時代にのみ出現する」(E.フリーデル)のであるし、古来、「聖なる愚者」を装う教祖や小皇帝にあっさり降参してしまうのも、専門家と相場は決まっているというのに。

まさしく、「プチ・カリスマ」や読者を「馬鹿」よばわりする「専門家」がいる。誰とはいわないけれど、情けない時代。

トリヴィアルな話題をその寸法にみごとに見合ったプアな情報だけで読ませる本が全盛なのも理の当然である。新書がその典型で、小者が瑣末なトピックをあげつらうのみ。もとより真の教養とか薀蓄には程遠い代物ばかりだ。かつては、その道の大家(と言えぬまでも、きちんとした業績がある人)が余裕と練達の文体をもって書き下ろすのが新書だったはずだが、いまや「月刊情報誌」の一種にすぎず、出来の悪い学生やサラリーマンが電車の中で、あるいは一夜漬けで読む。ところで、「女性は新書を買わない、読まない」という業界の謎がある(という)。確かに、私も女性が新書を読んでいる風景に出くわしたことがない。本当か否か、どなたか解き明かしてくれませんか。

女性で「新書」を読む人を見かけたことはあるけれど、たしかに周囲には少ない。
岩波新書柄谷行人『世界平和共和国へ』(読書中)は、新書のなかでは例外的な本。

このような、お笑いで言う「つかみ」と「受け」だけを狙う本造りは必然的に便乗商法を招く。売れっ子がとことん消費され、本人もここを先途とばかりに稼ぎに走って自己模倣に終始するから、作物は金太郎飴にならざるをえない。かくしてなけなしの才気(あっての話だが)さえ蕩尽する。貧乏臭いポトラッチ? 逆説めくが、これが現在の出版界である。

ゴミの量産は何も大版元だけの罪ではない。自費出版助成金付の「ゴミ専門書」が、いわゆる良心的出版社から性懲りもなく出続けるところに大っぴらには言えない悩ましさがある。損さえしなければ、クオリティに関係なく本にしてしまう老舗は意外に多い。私はいわゆる「持ち込み」のすべてが悪いとは思わないが、経験上その多くが著者の過剰な自己評価の高さゆえに致命的な欠点をもっているのを知っている。まして自費出版ともなれば、地獄の沙汰も金次第。精読するのはほぼ著者一人だけ、という特殊な本造りになるし、校正なども経費とのかねあいで等閑になりがちである。しかし、著者の自己満足のみに奉仕するだけの本がはたして書物の名に値するのだろうか。この種の「饅頭本」(祝儀・不祝儀の際に配られるアレです)がブック・オフで埃をかぶっているのを見るにつけ、暗澹たる気分になる。編集者は単なる窓口や「編集技術者」であってよいのだろうか。筆者・訳者と編集者の談合体質や大学と特定版元間の利権の構造など、語るべき話題は多いが、・・・(以下略)

ほぼ、全文に近い引用になってしまったが、二宮隆洋氏の意見があまりに的を得ているが故であり、許容されたし。

「本のメルマガ」vol.247では、「固有名について」と題して、「カナ表記」について含蓄のある文章になっている。必読。


久世光彦の遺作『百輭先生月を踏む』(朝日新聞社)を入手、現在読書中。

百〓先生 月を踏む

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