ラブレーの子供たち


ラブレーの子供たち

ラブレーの子供たち


かつては月刊四方田と呼ばれたほど、新刊書の刊行頻度が多かったが、現在では落ち着いてきている四方田犬彦の新刊『ラブレーの子供たち』は、ブリア=サヴァランの顰にならって、作家たちが愛した食べ物について、それを再現して料理し、文字どおり味わい尽くした書物である。なにしろ、趣向がめっぽう面白い。


冒頭で、記号論批評で著名なロラン・バルトは『象徴の帝国』において、日本料理の素晴らしさに触れているとして、

地上には記号の表面だけがどこまでも続いていて、けっして深奥の意味などに到達できない文化というものが存在しているのだ。
・・・(中略)・・・
日本という社会は、・・・外側だけがあって、実質に満ちた中心というものがない。(p.11)


「すきやき」についてバルトは、理想的な前衛文学の姿に思えたようだ。

出されたものをその順番通りに食べなければならない西洋料理とは違って、目の前にあるさまざまなものを、自分の思いのままに箸で口に運ぶ。そこでは調理をする時間とそれを賞味する時間がぴったりと重なりあい作る者と食べる者という区分がなくなってしまう。(p.12)


バルトは、天ぷらには、いかなる揚げものも獲得できなかった、すがすがしさという特性があると言っていた。


小津安二郎は、映画の中で必ず「食べ物」を取り上げている。とりわけ庶民的な食べ物を。戦後の小津作品を観れば、「とんかつ」や「ラーメン」などが頻出していることが確認できるだろう。


四方田犬彦は、小津安二郎の「カレーすき焼き」をとりあげる。かつての庶民の豪華な食べ物だったすき焼きの凋落は甚だしい。

小津こそはつねに日本人が喪失してきたものを生涯をかけて描き続けてきたと考えられているからであり、すべてが深いノスタルジアの色調に染めあげらえたとき、その世界をめぐる現代人のフェティシズムがみごとに完結するからである。小津安二郎よ、永遠なれ。(p.137)


吉本隆明の「月島ソース料理」も読み応えがある。

吉本さんの料理話を聞いていると、食べ物といのはやはり思い出であり、思い入れであるということが、つくづく理解されてくる。誰もが絶対に他人に譲り渡すことのできない。固有の食べ物の記憶というものをもっている。それは再現できそうでいて、けっして完全には再現のかなわないものだ。食事の微妙な味付けから浮かびあがってくるのは、家族の一人ひとりが作りあげてしまう、微妙な人間関係である。(p.193)


その他には、武満徹の「松茸となめこのパスタ」、ラフカディオ・ハーンの「クレオール料理」、谷崎潤一郎の「柿の葉鮨」、澁澤龍彦の「反対日の丸パン」、マリー・アントワネットの「お菓子」等々、興味の尽きない作家や芸術家の「料理」が並べられる。読者はお好みに従って、どこから読んでも良い構成になっている。もちろん単なる食通本ではない。食から文化的装置にまで及ぶ、四方田流文化論。


四方田犬彦の著作は多い

日本映画史100年 (集英社新書)

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日本の女優 (日本の50年日本の200年)

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吉田喜重の全体像

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アジア映画の大衆的想像力

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映画監督溝口健二

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