ふしぎな図書館


村上春樹『ふしぎな図書館』は、『図書館奇譚』を改稿したものであり、佐々木マキの絵とあわせて読む仕掛けになっている。前作は1982年に書かれたもので、20数年を経て敢えて改稿することは、作者がこの小説に深い愛着を持っているからだといえよう。


ふしぎな図書館

ふしぎな図書館


ここには、羊男や美少女、図書館の地下に住む謎の老人、読書室=井戸のイメージなど、ハルキ的世界の記号が溢れている。カフカのような不条理的世界で、理不尽な眼にあう「ほく」は、羊男と美少女に助けれられ、図書館の地下から脱出するわけだが、なぜ村上春樹は、このシテュエーションにこだわるのだろうか。


『図書館奇譚』とは、微妙に異なっている。主人公は、「僕」から「ぼく」へ。例の「やれやれ」という常套頻出用語も排除されている。文体も細部にわたって洗練されている。でも、基本的な物語の枠組みは、ほぼそのまま踏襲されている。


それにしても、借りていた本を返却に行き、探す本もたまたま思いついたオスマントルコ帝国の税金の集め方に関する本という設定も奇妙だ。佐々木マキの絵には、「ぼく」の後姿しか描かれていない。「ぼく」の表情が見えないけれど、老人や羊男と少女、オスマントルコの収税史などは正面から描かれている。「ぼく」の見た夢なのだろうか。


図書館から帰ると、母親はやさしく迎えてくれるが、「むくどり」はいなくなっている。


「先週の火曜日、母がなくなった。」で始まる最後のパラグラフでは、「ぼく」はひとりになってしまう。そして、図書館の地下室のことを考えているところで、終わっている。作品全体が謎のような世界だ。


「むくどり」が少女であり、「むくどり」の失踪は少女の行方不明に相当する。では、母親の死は、何を意味するのだろうか。この作品における羊男とは何者だろうか。


ところで、旧作『図書館奇譚』について村上春樹が自作について次のように語っている。

図書館奇譚は僕にとっての永遠のヒーロー羊男に捧げられた、これもまたオマージュである。これはけっこう長い話で、雑誌では何号かに分けて連載された。羊男のドーナッツに対するオブセッションは留まるところを知らず、美少女の美しさは見るものの胸を一瞬で切り裂いてしまう(山手線の広告ポスターの少女のように)。そう、羊男は今もどこかできっとドーナッツを作りつづけているはずだ。冗談ぬきで、羊男は実在するのだ。そして図書館の奥には目の痛くなるような深い暗闇が存在しているのだ。そういう世界は僕にとって何よりも、どんな現象よりもリアルなのである。
(『村上春樹全作品1979−1989・5』付録, pVII-VIII)


どうやら、村上春樹にとって羊男も図書館の暗闇もリアルに実在するようだ。そして、村上氏にとって「美少女の美しさは見るものの胸を一瞬で切り裂いてしまう」のだ。では、図書館の老人とは、「父」のイメージの反映であろうか。「父の名」(ラカン)としての老人。


母親の死は、あまりに唐突であり、解釈を拒否している。父の不在と母の死。
『ふしぎな図書館』は、『図書館奇譚』を超えたカフカ的な謎を秘めた図書館小説なのである。



村上春樹全作品 1979?1989〈5〉 短篇集〈2〉

村上春樹全作品 1979?1989〈5〉 短篇集〈2〉