先生はえらい


先生はえらい (ちくまプリマー新書)

先生はえらい (ちくまプリマー新書)


教師とは、識見が高く、人格高潔で知識を教え、倫理や道徳の模範を示すというのが、世間的な理解であろう。本書は、この教師像を転倒させている。内田氏の『他者と死者』のなかの師と弟子の部分をわかりやすく書き直したのが本書である。


他者と死者―ラカンによるレヴィナス

他者と死者―ラカンによるレヴィナス


『他者と死者』でも触れていた「沓を落とす人」のエピソードを引用している。能楽張良』の不思議なお話。師が沓を落とし「取って、履かせよ」と命じる。張良は、黙って沓を拾い師に履かせる。別の日、再び師は、両足の沓を落とし、「取って、履かせよ」と命じる。張良は二度目にむっとするが、甘んじて師に沓を履かせる。その瞬間、師の奥義を悟る。謎のようなお話。


この話から、内田先生は、物語そのものが謎として構造化されている、この逸話が、「謎と教育の本質」に触れているという。


村上春樹の創作の秘密としての例の「うなぎ」説が引用される。また、漱石の『三四郎』『こころ』から、先生とは「何だかよくわからない人」「ある種の満たされなさに取り憑かれた人」と定義する。

師がどのような情報や技芸を蔵しているのか、弟子は弟子となる前には知りません。弟子になってはじめて(場合によっては師のもとを辞去して後にはじめて)、師が「恐るべき知と技」を蔵していたことを弟子は知るのです。学ぶ者の定義とは、「自分は何ができないのか」、「自分は何を知らないのか」を適切に言うことができないもののことです。
(p169)


また、ラカンを引用したあと、

人は知っている者の立場に立たされている間はつねに十分知っている。このラカンの断言が意味しているのは、「知る」ということがコンテンツの次元の問題ではなく、コミュニケーションの仕方の次元の問題であるということです。(p170)


そして、内田氏は「学びの主体性」として、次のように言及する。

「そうすることで、あなたは何を伝えたいのか?」という起源の問いは問うもの自身が発する以外にはありません。
・・・(中略)・・・
謎から学びを取り出すことのできる知見は学ぶ人間の数だけ存在するということこそが、学びの豊饒性を担保しているからです。私たちが「あなたはそうすることによって、何を私に伝えたいのか?」という問いを発することのできる相手がいる限り、私たちは学びに対して無限に開かれています。私たちの人間としての成熟と開花の可能性はそこにあり、そこにしかありません。
(p173−175)


文庫版『ためらいの倫理学』(角川文庫)の解説で、高橋源一郎が書いている。


ためらいの倫理学―戦争・性・物語 (角川文庫)

ためらいの倫理学―戦争・性・物語 (角川文庫)

思想や言論の専門家の人たちは、ほんとうのところ、なにかが正しいとか正しくないとかを考えるより、「自分のいっていることだけが正しい」ということを証明することを第一に考えている。そして、もっと困ったことに、そのことに気づいていないのである。(p371)


極端なこの世界に、内田氏は<救世主のように現れた非「極端」の人>であり、この『先生はえらい』は、非「極端」の「困難な場所」で書かれた、内田ワールドへの招待状なのである。


現在の教育問題を語る資格など私にはないけれど、聖職者だの聖人のイメージで教育者を捉えること自体が間違っていることがよく分かる本だ。世間の親たちに読んで貰いたいが、この本を読む人であれば、自分のこどもに対してどう接すればいいのかが分かっている人だろう。皮肉なことだ。


「ちくまプリマリー新書」は、中・高校生向けと謳われているので、文字どおり内田氏の本書が、真に理解されることを、中・高校生に期待したい。


内田樹の著書(新書版)


現代思想のパフォーマンス (光文社新書)

現代思想のパフォーマンス (光文社新書)

寝ながら学べる構造主義 ((文春新書))

寝ながら学べる構造主義 ((文春新書))