網野善彦に学ぶ


網野善彦氏について遅れてきた読者として、とりあえず次の3冊の本を読む。


僕の叔父さん 網野善彦 (集英社新書)

僕の叔父さん 網野善彦 (集英社新書)

網野善彦を継ぐ。

網野善彦を継ぐ。

日本とは何か 日本の歴史〈00〉

日本とは何か 日本の歴史〈00〉


中沢新一『僕の叔父さん 網野善彦』(講談社)は、網野善彦氏を叔母の夫つまり義理の叔父さんに持ったことによる幸福に満ちた幼少年期から青年期、そして網野氏が名声を受けて行くと同時に歴史学界からは猛烈な反発を受ける経過が、氏の意思を継ぐという形で書かれている。優れた伝記であるとともに、深い哀悼の意が読み取れる。率直にいって、『僕の叔父さん 網野善彦』は、中沢氏の最高傑作ではないかと思えてしまうほど内容が濃いのに驚いた。中沢氏渾身の書と読んだ。


網野氏の代表作『蒙古襲来』『無縁・公界・楽』『異形の王権』の三冊は網野史学理解のための必読書である。網野善彦とは、「無縁・公界・楽」に象徴される民衆の「自由」と「アジール」への注目など、戦後マルクス主義歴史学を批判的に超える史観と業績を確立した唯一の国史学者だ。


無縁・公界・楽 増補 (平凡社ライブラリー)

無縁・公界・楽 増補 (平凡社ライブラリー)


網野氏の遺言的な書物が『「日本」とは何か』(講談社)になってしまったのは残念なことだが、読む者はなによりも文体からくる著者の気迫に圧倒されるだろう。本書のなかで、「日本」とは7世紀末に成立した国家であることを証明し、歴史の「常識」とされている問題点を二つあげていることに注目したい。

「日本人は単一民族、単一国家」などというのは、まったく事実に反する神話と言っても過言ではない・・・もう一つの最大の問題は、「日本人は弥生式時代以来、主として稲作に従事しており、その主食は米で、日本文化の根本は稲、米である」とする常識である。
(p027)


第一の問題については、日本の東と西の差異を例証しながら、学問としての歴史学が、「孤立した島国」「瑞穂国」「単一民族」などの根拠のない虚像を作り出したこと、そして第二の問題は、稲作を中心とする「自給自足など、間違いなく研究者の頭の中の産物」であったことを史料をもとにして、事実からかけ離れた「妄想」であると主張しており、きわめて説得性が高い。この網野史学にこそ、日本の未来がかかっているといっても過言ではない。


『無縁・公界・楽』以後、学界から批判され続けた網野氏は、他界後その業績や著作は葬り去られるのではないかという懸念がわく。とくに中沢新一赤坂憲雄の対談『網野善彦を継ぐ。』を読むと、そう思えてくる。二人は、網野氏の志を継ぐ決意を述べている。


対談のなかで、中沢氏の次の言及は網野氏の本質をついていると思われる。

実証主義歴史学は、文字の表面を読んでいくんですね。ところが網野さんは、おそらくこういうことを考えていたんだと思います。「歴史はつねに自分が語りたかったことを語り損なう」と。・・・古文書を前にしても、「ここには何か語り損なわれている欲望が隠されている」、そして欲望を掴み出す解釈を実践した。ところが、フロイトマルクス以前に属する実証主義的な歴史学は、「そんなことはどこにも書いていない」と批判するんですね。・・・
欲望はつねに言語表現の表面からは否定されるものとしてしかあらわれてこないのですからね。ここが、網野善彦の学問の新しさだと思います。フロイト精神分析学やマルクスの経済学批判のようなかたちであらわれた方法は、唯物史観日本史学のなかにさえ、存在しなかったんですよ。それが、網野史学としてはじめて国史学に登場してきた。そしてあらわれてくるやいなや、総攻撃を受けた。これはフロイト精神分析学やマルクスの経済学批判の場合ともよく似ています。(p36−37)


網野氏には、『日本中世の非農業民と天皇』(岩波書店*1という大著もあるが、遺作ともいえる『「日本」とは何か』において、「日本」という国号の当否や天皇制の存続を視野に入れた「日本論」の今後の展望に眼を向けている。網野史学を継ぐのが、民俗学の赤坂氏や、宗教学の中沢氏というのも、歴史のアイロニーか。いや、やはり、歴史学界のなかから網野氏を継ぐ学者が出現して欲しいものだ。


蒙古襲来―転換する社会 (小学館文庫)

蒙古襲来―転換する社会 (小学館文庫)

異形の王権 (平凡社ライブラリー)

異形の王権 (平凡社ライブラリー)