五線譜のラブレター


アーウイン・ウィンクラーの『五線譜のラブレター』(De-Lovely,2004)は、コール・ポーターなる実在人物の伝記映画であり、コールを演じるケヴィン・クラインとその妻となるアシュレイ・ジャッドが、これもなりきり演技で再現している。懐かしいスタンダード・ナンバーが、映画の中で唄われる。吹き替えではなく、俳優たちによる歌声が魅力的であり、また、コール・ポーターの歌を、現役の実力歌手たちが唄うシーンは、それぞれに見ごたえ
があり充実している。


ケヴィン・クラインの死の直前、彼の過去の人生を復元させるのがジョナンサン・プライス。導き役として、メタ映画の趣向を凝らしている。第三者から観たポーター夫妻という趣向。


この二本の映画に甲乙つけがたいのは、黒人と白人、愛人関係と同性愛関係、といった家庭生活から乖離した世界において始めて、彼ら歌手たちは、自分の世界を構築して行く過程にある。


楽家は、何らかの素材を必要とする。レイの場合は、それが女性であり、コール・ポーターの場合は同性の男だった、その差異にしか、二本の映画を分ける根拠はない。ただし、同じスタンダードナンバーといっても、ソウルな曲が好きなひとは『Ray』に同化し音楽に酔う。けれども、ポピュラー音楽が好きな人にとっては、『五線譜のラブレター』に同化する。それだけのことだ。しかし、広い意味でのジャズでは、同じジャンルともいえよう。


といってしまっては、身もふたもない。それ以上に、音楽映画から受ける感銘が大きいのは、他者として、映画に距離を置いてみることはなく、主人公、あるいはその中の登場人物になりきってしまうから、映画的興奮の坩堝にハマルことができる。


女性なら、『Ray』の妻の立場からみれば、レイとは如何ともしがたい男に見えるだろうし、愛人の立場にたてば、なんと薄情な男だろうかと思うだろう。しかし、出来上がった音楽は、聴く人すべてに感動をもたらすわけだから、敢てレイの負の部分にふれなくともいいではないかという道徳家がいるかも知れない。実際、映画の中でも聖書の伝道的賛美歌であるゴスペルに快楽的要素を盛り込み変容させたとして、クリスチャンたちがレイに非難を浴びせるシーンがある。優れた芸術とは、極論すればあらゆる道徳的規範から解放されているからこそ、芸術たりえているといえるだろう。


『五線譜のラブレター』では、コール・ポーターの曲が、ナタリー・コールなど11人の現代の代表的アーティストによって唄われるとき感動が増幅される。ファッションや時代の雰囲気やブルジョワ的・退廃的な気配が濃厚な作品であり、このフィルムも一部道徳家からみれば顰蹙ものかも知れない。音楽を音楽として楽しめばいいのだ、作曲家の裏面などみたくもないと。しかし、芸術とは、コール・ポーターレイ・チャールズのように、家庭を破壊しかねないほど激しい欲望がなければ、できない類のものなのだ。芸術ができあがる秘密を露呈させることに、これらの伝記的フィルムの存在価値があるといえるだろう。



De-Lovely

De-Lovely