他者の苦痛へのまなざし

2004年12月28日、スーザン・ソンタグの死去が報じられた。朝日コムから引用すると、

米作家で批評家のスーザン・ソンタグが死去

[ニューヨーク 28日 ロイター] 米作家で批評家のスーザン・ソンタグが28日、ニューヨーク市内のがん専門病院で死去した。 71歳だった。 ニューヨークの知性の代表者として、フランスの実存主義作家からバレエ、写真、政治など幅広い分野に関心を示した。活動範囲は人権運動や映画界にも及んだ。 著書には全米図書賞を受賞した「In America」など17冊があり、30カ国語以上に翻訳されている。 近年では米誌ニューヨーカーに、同時多発テロが文明への攻撃ではなく、米国の同盟関係や行動が招いた結果であったとするエッセイを発表し、激しい論議を呼んだ。 (12/29 13:36)


いくつかのブログに眼をとおしたが、著作を通じての追悼文が少ないことが分かった。すでに過去の評論家というイメージを払拭できないことは確かだ。


スーザン・ソンタグ『他者の苦痛へのまなざし』(みすず書房、2003)を読み、写真と戦争に関する論考についてのささやかな感想を書いて、追悼としたい。


他者の苦痛へのまなざし

他者の苦痛へのまなざし


スーザン・ソンタグという名前から直ちに想起されるのは『反解釈』(竹内書店新社,1971)*1だろう。つねにラディカルな批評を展開してきたが、とくに『写真論』(晶文社 1979)*2と、その改訂版ともいえる本書は、写真と戦争にかかわる論考として、彼女の到達した地点を示している。


本書は、9章からなり戦争が写真やメディアとかかわる思考の軌跡が綴られているが、写真の持つ二面性についての『写真論』の言説について本書から引用。

第一の点は、人々の注意はメディアが取り上げるものによって、なかでも決定的に映像によって、操作されるということである。写真によって、戦争は「現実」となる。
(p103)
第二の点は、映像が充満した、否充満しすぎた世界において、われわれにとって重要であるべき映像のインパクトは弱まりがちである。過剰な映像はついにはわれわれの感じる能力を減じ、われわれの良心を刺激することが少なくなる。(p104)


この自説について「映像の拡散にたいする保守的な批判」として、次のように補足する。

現実の権威を弱めようとする動きとは無関係な現実が、依然として存在している。私の主張はむしろ現実の擁護、現実にたいして充分に反応する感度、現在危機に瀕しているその感度の擁護なのである。(p108)


本書の最後から引用する。

われわれは知らない。われわれはその体験がどのようなものであったか、本当には想像することができない。戦争がいかに恐ろしいか、どれほどの地獄であるか、その地獄がいかに平常となるか、想像できない。あなたたちには理解できない。あなたたちには想像できない。戦火のなかに身を置き、身近にいた人々を倒した死を幸運にも逃れた人々、そのような士、ジャーナリスト、救援活動者、個人の目撃者は断固としてそう感じる。そのとおりだと、言わねばならない。(p126−127)


「他者の苦痛」について「写真」をとおして感じ取ることの限界に触れて文章を終えている。ソンタグは、戦争にかかわる様々な事例に触れる。日本に関するところでは、広島の原爆写真や、原一男の『ゆきゆきて新軍』にも言及される。ソンタグは、アメリカに住みながら、アメリカが奴隷制や黒人への迫害の記録を残す博物館がアメリカにはないことを指摘する、いわばアメリカを相対化する視点を持っていた。


<キャンプ>に始まり、評論家として、文学、映画、演劇、写真等、さまざなジャンルについて、時代の空気を察知しながら、ラディカルな批評精神を持ち続けて、自らの癌についても(『隠喩としての病』*3)、その神話作用の解体を試みている。
また、作家としても『火山に恋して』*4に代表される小説がある。


スーザン・ソンタグとは、時代にたいして真摯に向き合い、批評的言説と反戦的行動において、誠実であった知識人として記憶に残るけれど、時代を担ういわゆる思想家ではなかった。書斎派的な思想家ではなく、優れて行動する知識人だった、といえるだろう。合掌。


火山に恋して―ロマンス この時代に想うテロへの眼差し