アフターダーク(3)


アフターダーク

アフターダーク


再び、村上春樹氏『アフターダーク』(講談社)について。
前回は、ゴダールの『アルファヴィル』をキーワードとして、読んだ直後の印象を書いたが、白川が登場するシーンに、

部屋全体は暗く、彼の机のある部分だけを、蛍光灯の光が天井から照らしている。「孤独」という題でエドワード・ホッパーが絵に描きそうな光景だ。しかし、彼自身はそのような状況をとくに寂しく感じているわけではない。
(p115)


とあり、都会人の「孤独」とエドワード・ホッパーという視点から作品を見ると、全体が違って見えてきた。


まず、冒頭の「デニーズ」にいる浅井マリは、エドワード・ホッパーが描いた絵「自動販売機式食堂」を想起させる。ひとりで、孤独に深夜のレストランにいる光景。また、白井と妻の関係は、ホッパーの絵でいえば、「ニューヨークの部屋」のような感じだろう。同じ部屋にいながら、夫と妻の視線は別の方向にむけられている。浅井エリは、ホッパーの絵でいえば「ブルックリンの部屋」から「午前11時」や「朝の日差し」に移ろうとする女性とみることができる。


アフターダーク』に登場する人物たちは、浅井姉妹を除き、本来なら知り合うことのない、それぞれが「孤独」な存在だ。都会のなかでそれぞれ「孤独」に生活している。本人が「孤独」と意識しているか否かにかかわらず、外見上は「孤独」である。

店はどこをとっても、交換可能な匿名的事物によって成立している。(p5)


と書いた村上氏は、おそらく宮台真司の批判を意識していたと推測される。かつて宮台真司氏が『絶望から出発しよう』(ウェイツ)*1のなかで、『海辺のカフカ』と白石一文氏の『僕のなかの壊れていない部分』(光文社)を比較して、次のように述べている。


僕のなかの壊れていない部分

僕のなかの壊れていない部分

圧倒的にだめなのが村上春樹です。絶望が足りないからです。「この社会は生きるに足らず」という感受性を多くの人間がもちます。(p147)

白石一文は、「この社会は生きるに足らず」の理由を明確にしています。・・・なぜか、それは入れ替え可能だから、と言うんです。(p147)

村上春樹は「世界の謎」から出発して、「自分の謎」に堕落するけれど、白石一文は逆に「自分の謎」から出発して「世界の謎」へと上昇していく。
(p154)


この宮台氏の批判に対する村上氏の答えが、『アフターダーク』であるというのは極論だとは思うけれど、その内容から判断すれば、高橋やマリや白川は交換可能な匿名的存在として、物語的結末を回避する点では、「世界の謎」に迫っているといえよう。


このように解釈すれば、『アフターダーク』は、村上春樹のこれまでの作品とは異質の新しい世界へ移行する分水嶺に相当する重要な小説と看做すことができそうだ。


前回、「未完の小説として提示されている。読者によって、読み手の思考によって物語は完結される仕組みになっている。読了後のカタルシスは、まったく得られない。」と私が書いたことに訂正はないが、映画『アルファヴィル』とエドワード・ホッパーの絵を重ねあわせると、実際、カタルシスは得られるはずがない小説なのだ。

アフターダーク』が、ハルキ的世界の転機を示唆しているといっても過言ではない問題作といえるだろう。