小林秀雄のオリンピック


8月21日付け朝日新聞の「天声人語」に小林秀雄の「オリンピックのテレビ」が引用されている。小林秀雄が、オリンピックのテレビ画面に釘付けになっていたということが、なぜか信じられないと思い、原文にあたってみた。


古書で購入しておいた第3次『小林秀雄全集 第九巻』(新潮社、1967)に収録されていた。小林秀雄が、東京オリンピックをテレビで見たときの感想だ。いかにも、小林秀雄的言説だった。

ホイジンガで有名になった「ホモ・ルーデンス」の姿は、生き残ってゐる。・・・油断も隙もない今日の實用主義の社會が、オリンピックの競技に課する様々な條件にもかゝわらず、こゝに見られるのものは、、やはり正銘の遊戯する人間の姿だ、と考へる方がいゝだらう。(p315)

私が親しんで来た近代文學の世界は、「自分との闘ひで心を傷つけて来た人間達」の告白で充満している世界だが、・・・文學の世界には、勝負がない。勝負の客観性或いは絶對性というものが缺けているからだ。(p314)

勝負するすべての選手達が、その肉體の動きによって、私の眼に、何も彼も、さらけ出してゐる。その表情の簡明、正確、充實には、抗し難い魅力がある。・・・彼等の内心の孤獨が私には、外部からまざまざと見えており、その魅力に抗し難いとは不思議な事である。(p315)


なるほど、小林秀雄でさえ、「その魅力に抗し難い」のだから、まして、凡庸なわれわれは「その魅力に抗し難い」のは当然だ。ただ、マスコミの喧騒振りにはいささか辟易気味である。そんな時は、TVの音を消して見ることにしている。


小林秀雄が言及しているとおり、文学の世界には、勝負はないけれど、歴史的な評価がある。一方、オリンピックは、勝負は瞬間に終わっており、その結果は変更されることはない。勝負が決まったときが、歴史になる。


むろん、文学とスポーツの比較などできないが、勝負の結果からえば、スポーツは刻々と、歴史をつくっている。文学は、その評価を同時代のみならず、100年後にも変容する。歴史
として記述されるのは、同時代の評価ではない。それを小林秀雄は「判然しない心勞」と表現した。



小林秀雄全作品〈26〉信ずることと知ること

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