パティニール画集の出版を期待したい

三つの庵 ソロー、パティニール、芭蕉

 

クリスチャン・ドゥメ著『三つの庵 ソロー、パティニール、芭蕉』(幻戯書房,2020)は、隠遁生活を求めていたものにとって、きわめて刺激が強いタイトルだ。タイトルと出版社をみて購入することはあまりないことだが、今回は衝動買いだった。

序文から著者の意図を引用する。

あらゆる庵/小屋は、現実のものであれ夢見られたものであれ、作家や画家といった世界の作り手たちが自分たちの必要とするささやかなものを彼ら自身の生き方として表現したものである。世の中から離れ、孤立し、身をひそめること。孤独な苦行を伴うそうした身ぶりはすべて、最終的にはこの世の生をいっそう深く味わうためになされるのである。・・・(中略)・・・思考は、おのれの住まいを離れるときにこそ、そこに逢着する好機に恵まれる。(9頁)

 

三つの庵: ソロー、パティニール、芭蕉

三つの庵: ソロー、パティニール、芭蕉

 

 

クリスチャン・ドゥメは記す。

パティニールは空の青さを、彼の小屋を見せてくれた。物ではなく、深く穿たれたヴィションを。万物の隠れ棲むさまを。見ることの純粋さ、それが意味するであろうものをほんの一瞬だけ感じるための唯一の条件を。無を見るのだ、ただ青だけを。(157頁)

 

 「無」を見る、ただ「青」だけを。

 

パティニール*1という中世の画家には今回初めて出会った。じつは、ルーブルやプラドやウィーン美術史美術館で出会っているはずなのだが、そのころは、別の画家を追っていたので、気が付かなかっただけのことだ。


青のパティニール 最初の風景画家


石川美子著『青のパティニール 最初の風景画家』(青土社,2017)に出会うことになった。パティニールに関して、日本で入手し得る唯一の参考文献だ。冒頭に口絵16点が掲載されている。パティニール画集としても有用である。中世画家として、聖書やキリスト教関連の主題を持ちながら、人物は小さく、背景の風景があたかもメインのように描かれている。

 

青のパティニール 最初の風景画家

青のパティニール 最初の風景画家

  • 作者:石川 美子
  • 発売日: 2014/12/23
  • メディア: 単行本
 

 

 

現在確認されているパティニールの絵は、プラド美術館「パティニール展覧会図録」に29点採録されているが、石川氏は11点をパティニール作品と認めている。

 

◆風景も人物もパティニールが描いたとされる6点

1.「聖ヒエロニムスのいる風景」(プラド美術館
2.「ステュクス川を渡るカロン」(プラド美術館
3.「荒野の聖ヒエロニムス」(ルーブル美術館
4.「エジプトへの逃避のある風景」(アントウェルペン王立美術館)
5.「聖ヒエロニムスのいる風景」(カールスルーエ美術館)
6.「聖カテリナの殉教のある風景」(ウィーン美術史美術館)

 

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《聖ヒエロニムスのいる風景》

 

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ステュクス川を渡るカロン

以上、二つの絵画は主題と風景が見事に融合している。パティニールの風景の青が美しく、見る者を引き付ける。

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《荒野の聖ヒエロニムス》

この絵が、クリスチャン・ドゥメの『三つの庵 ソロー、パティニール、芭蕉』の表紙に採用されている。

 

◆風景の完成度は高いが、共同制作者がいると思われる5点

7.「聖クリストフォロスのいる風景」(エル・エスコリアル修道院
8.「聖アントニウスの誘惑のある風景」(プラド美術館
9.「エジプトへの逃避途上の休息のある風景」(プラド美術館
10.「キリストの洗礼のある風景」(ウィーン美術史美術館)
12.「聖ヒエロニムスの悔悛、キリストの洗礼、聖アントニウスの誘惑のある三連画」(メトロポリタン美術館

 

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《エジプトへの逃避途上の休息のある風景》

 聖母子像が眼前に迫ってくるようで、風景を背後に押しやる。聖母子像と、風景画の二つが合成されているように見える。しかし、絵としては、私の好みである。

 

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《キリストの洗礼のある風景》

この絵も、キリストと洗礼者が画面の全面に浮き上がっている。

 

 パティニールについて、私が解説する資格はないが、宗教的人物画よりも背景の「風景」が、きわめて精緻で美しく、口絵をみると、青のグラデーションが名状しがたいほど美しいことに圧倒される。

石川美子は「エピローグ」で記す。

パティニールが描いたのは、ささやかな光景だった。意味のない、あるいは意味のわからない細部である。(294頁)

 

クリスチャン・ドゥメ著『三つの庵』に注目したが、思わぬところで、パティニールという画家を知りえた。「無」と「青」のパティニール、風景画家のパティニールを。

これはコロナ禍のなかでは、大きな収穫であった。

 

 

 

*1:ヨアヒム・パティニール(Joachim Patinir 、1480年頃 - 1524年10月5日)は初期フランドル派の画家。

古井由吉の作品が預言になっていることに驚く

#古井由吉

われもまた天に

 

古井由吉氏の遺作『われもまた天に』(新潮社,2020)を読む。

 

われもまた天に

われもまた天に

 

 


「雛の春」「われもまた天に」「雨あがりの出立」「遺稿」の四編から成る。

冒頭の「雛の春」は、入院の話から始まり、退院までの短い期間。病院でのやや不思議な現象について記される。
天候の話から、かつて居住した新潟での雪の話などなど、気分の赴くまま気ままに書いているよう視える。


「われもまた天に」は、中国の明の時代、李挺のことばを引用して、
 -吾のいまだ中気を受けて以って生まれざる前、すなはち心は天に在りて、五行の運用を為せり。
吾のすでに中気を受けて生まるる後、すなはち心は天は、吾の心に在りて、五事の主宰を為せり。

このことばを巡り、作者は思考をめぐらす。


「雨あがりの出立」では、作者の家族の死にまつわる話を書きながら、葬送の在り方の不思議さに言及している。
次兄の死にまつわる話から、身内の死について、自分の両親や兄二人と姉の死に際しての、それぞれの対応の差異に関して触れている。

-其雨其雨 果果出日
それ雨降れ、それ雨降れというに、果果(こうこう)として出づる日、と読みくだす。

詩経』からの引用。退院をするも、真夏日が続く。寝苦しい夜が続く。台風が来る。
2019年夏の猛暑など、日常の生活の中に自身の終戦前後の体験が回想される。

 

巻末には「遺稿」として、著者の没後に『新潮』に掲載された原稿をそのまま、『われもまた天に』に収録された。
雑誌への掲載は、著者の意思でもある。従って、最後の作品集として本書が刊行されたことも著者の意思と見做していいだろう。

災害や災禍が古井由吉の先祖が住んだ地域などにも触れて、最後の一行にたどり着く。

(未完)と記されたその直前の一行が深い。

自分が何処の何者であるかは、先祖たちに起こった災厄を我身内に負うことではないか。(139頁)

 

古井由吉論: 文学の衝撃力

古井由吉論: 文学の衝撃力

 

 


富岡浩一郎『古井由吉論』(アーツアンドクラフト,2020)には、著者と古井由吉の対談が二編収録されている。

一編は古井由吉が『仮往生伝試文』刊行時の対談であり、「フィクションらしくないところから嘘をついてみようか」と題されている。

そこで古井由吉は、「今の世のフィクションというのがどんなあんばいになっているのかなと嗅ぎ分けようとすればするほど、混乱あるのみ」と、富岡氏の「フィクションに対する違和感」の問に回答している。

 

2019年9月の対談で古井由吉

小説の恐ろしいのはね、後から見ればどこかで預言のようなことをしているところにあるんです。(207頁)

と述べている。また、災害や津波について、

先人たちは圧倒的な自然の脅威のもとで生きてきた。洪水でも干ばつでも繰り返しさらされてきた。それから、疫病がある。そのなかを先祖たちは生きてきた。・・・我々はしぶとく生き長らえた人間たちの末裔だもの。(210頁)

と、古井由吉氏没後の、新型コロナウイルスによる疫病を預言していることに驚く。

 
古井由吉氏が、平野啓一郎の「自分の死後、若い人が何か1冊本を読もうという時に、自分のどの作品を読んでほしいですか」と僕(平野氏)は作家にこの質問をしていた。古井由吉の選んだ三作とは、

『辻』(2006年)
『白暗淵(しろわだ)』(2007年)
『やすらい花』(2010年)

の三作であったという。

 

未読図書が多い古井由吉の小説。『やすらい花』から「生垣の女たち」を読む。
独居老人のもとに若者男女が下宿する。死を前に生きる老人の心境。駆け落ちと誤解された男女の同棲。

 

 書く、読む、生きる

 

 古井由吉・単行本未収録の講演・エッセイ等、没後二冊目の『書く、読む、生きる』(草思社,2020)が11月26日に刊行された。早速、入手。冒頭の講演録などを読む。

書く、読む、生きる

書く、読む、生きる

  • 作者:古井 由吉
  • 発売日: 2020/11/26
  • メディア: 単行本
 

 古井由吉が、ドイツ文学の翻訳から「ことば」を、小説として表現する作家に転身したことなど、経歴が語り口調で説明される。日本語は、漢字という表意文字を持つとして、「読むこと、書くこと」の中で、次のように語っている。

最初にあったイメージから、いわゆる言説、言論までの距離は、われわれが考えているよりももっと長くて、緊張を要する道のり、のはずなんです。/本来のわれわれは、もっと漢字の意味に抱きとられ、抱きとられながら展開していくというような、幸せな位置にあったんだけれど、漢字に対する感覚も弱っていたし、漢籍その他に対する教養も少なくなった。・・・(中略)・・・そのうちに西洋式の言語が行き詰まって、日本の、極端にいえば象形文字の要素がある、こういう文章、こういうものの考え方に興味をしめしだすかもしれない。(28頁)

言葉、日本語についての貴重な暗示となっている。

とりあえず、未読の『辻』『白暗淵』『やすらい花』を読もう。

 

辻 (新潮文庫)

辻 (新潮文庫)

  • 作者:古井 由吉
  • 発売日: 2014/05/28
  • メディア: 文庫
 

 

白暗淵 (講談社文芸文庫)

白暗淵 (講談社文芸文庫)

  • 作者:古井 由吉
  • 発売日: 2016/06/11
  • メディア: 文庫
 

 

 

やすらい花

やすらい花

  • 作者:古井 由吉
  • 発売日: 2010/03/01
  • メディア: 単行本
 

 

 

 



坪内祐三は、シブく古くさいエッセイストとして出発し、少年時代に回帰した

 #坪内祐三

玉電松原物語


坪内祐三の最後の連載もの「玉電松原物語」が2019年『小説新潮』五月号からであり、2020年1月突然の死によって中断された。
今回、遺作として『玉電松原物語』が、新潮社から発売された。現物を入手。

 

玉電松原物語

玉電松原物語

 

 いまひとつは、文春連載「文庫本を狙え!」の『文庫本宝船』(本の雑誌社,2016)出版以降の連載分をまとめた『文庫本千秋楽』は、11月に刊行予定になっている。

 

玉電松原物語』は、坪内氏の実家にちかい玉電松原駅周辺の商店街と、坪内氏の記憶に関わる物語だ。既に「世田谷線」に変更されて残る松原駅付近の地図が図版として冒頭に掲載されている。ほぼすべては、坪内氏の記憶によって紡がれている。

昭和の玉電松原にまつわる記憶、記憶、記憶。恐るべき記憶力によって復元される、坪内少年時代の記憶。果たして、この作品は何なのだろうか。

第一章から引用する。

東京で生まれ東京で育った私ではあるが、自分のことを「東京っ子」とは言い切れぬ思いがある。
具体的に言えば私は昭和三十三(一九五八)年に初台(区としては渋谷区だが一番近い繁華街は新宿)に生まれ、同三十六年に世田谷区赤堤に引っ越した。
つまり山手線の内側はおろか環状七号線の内側にも暮らしていなかったのだ。
だから「東京っ子」を自称するのはサギめいている気がする。
と言うと、山手線はともかく、初台は環七の内側にあるじゃないか、という突っ込みを入れる人もいるかもしれない。しかし環七が作られたのは昭和三十九年に開催された東京オリンピックに合わせてで、私が初台に暮らしている頃はまだ影も形もなかったのだ(私はこの原稿を環七に隣接したマンションの一室にある仕事場で書いている)。
赤堤に越して来た時に私が憶えているのは、ずいぶん辺鄙な場所だなということだ。(10頁)
《中略》
そういう辺鄙な場所にあっても、私の家から歩いて七~八分(子供の足でも十分)ぐらいの所に商店街があった。
それは電車の駅があったからだ。電車といってもいわゆるチンチン電車で東急玉川線(通称玉電)の松原駅だ。
玉電は本線が渋谷から二子玉川まで走っていて、砧緑地まで行く支線と、下高井戸、三軒茶屋間を走る支線が通っていて、昭和四十四(一九六九)年に本線と砧緑地までの支線が廃線となってのち、下高井戸、三軒茶屋間は世田谷線となった。
だから玉電松原という駅はただの松原駅となった。
だが私の中で松原は永遠に(ということは今でも)玉電松原だ。
その玉電松原界隈のことをこれから書きつづって行きたい。
小さいとは言え確かな商店街があった町のことを。(11~12頁)
《中略》
私のことを、東京っ子を鼻にかけると思っている人がいる。
だが私は東京っ子ではなく世田谷っ子だ。
しかも世間の人が思っている世田谷っ子ではない。
世田谷は高級住宅地だと思われていて、実際、今の世田谷はそうかもしれないが、私が引っ越して来た当時の世田谷、特に赤堤界隈は少しも高級でなかった。もちろん低級でもない。つまり、田舎だった。(26頁)

 

 

こんな感じで進んで行く、私小説のようなエッセイ風自伝になっている。

この内容は、坪内祐三に関心がない人、あるいは世田谷にも関心がない人には、どうでもいい話だろう。

スーパー「オオゼキ」、古本屋「遠藤書店」、切手ブーム、少年時代に食べた食堂の食べ物、広場での野球こと、レコード収集、映画の話などなど。

子どもにはよく分からない「ハマユウ」と「整美楽」の謎まで、私小説風に続く。

坪内祐三の昭和」は、つねに著者の根底にある郷愁かもしれない。

本書の中に、同じような内容の「小説」を『新潮』に応募したことがあった、と告白している。
どうしても、書きたかった自身の<核>だったのかもしれない。10回分で切れているが、これはこれで終わりと見做してもいいだろう。

 

それにしても、61年間の疾走ぶりに、敬服する。編集者・評論家としての活躍は、30年余り、人生の半分だろうか。少年時代は、本書『玉電松原物語』に記録された。高校・大学時代からは、坪内氏が書いた様々なエッセイに断片的に散りばめられている。ほぼ生涯を記録として残したことになる。このようなエッセイストは、稀有な存在である。

人は死して、書物を残すことを身をもって実践されたひとだ。

 

 

本の雑誌の坪内祐三

本の雑誌の坪内祐三

  • 作者:坪内祐三
  • 発売日: 2020/06/19
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

本の雑誌坪内祐三』の「角川春樹ロングインタビュー」を読んでいると、角川春樹坪内祐三に向かって「しかしあなたはよく知ってるねえ」だの「よくもご存じ、あなたはやっぱりすごいね」だのと誉め言葉を贈っている。坪内祐三角川書店の翻訳本の動きや、横溝正史ブームを作る前からの状況を知っていてインタビューしていることに角川氏は驚きを隠せない。角川春樹による、戦略的手法を駆使した剛腕編集者だったことが、このインタビューによって明かされたわけだ。見事なインタビューと言うほかない。

 

饗庭篁村 (明治の文学)

饗庭篁村 (明治の文学)

  • 作者:饗庭 篁村
  • 発売日: 2003/04/01
  • メディア: 単行本
 

 

坪内祐三の最大の功績は、何だろうかと考える。私的には、坪内祐三編集『明治の文学』(筑摩書房)全25巻になるだろう。画期的な文学全集となった。明治を現代に引き寄せた。

総ルビ、脚注や脚注図版を数多く掲載することで、当該作家に関する解説となっている。同時に、明治時代の文化状況を顕在化させた功績は大きい。後世に残るのは、『明治の文学』全25巻と確信する。

とりわけ、坪内祐三自身が編者となっている饗庭篁村だろう。ほとんど名前も知らない(当時)作家が、一人一冊で刊行されたことの驚き。『広津柳浪』(村松友視編)と『山田美妙』(嵐山光三郎編)を加えてもいい。実に、驚嘆すべき『明治の文学』だった。

饗庭篁村』には、創作と紀行・随筆が採録されている。読む楽しみを味わうことができるのは、随筆だ。例をあげてみよう。随筆「粋と通」から。

さて結論とでもいふのですが、其所を一番、式亭三馬の言葉拝借することにしませう。
「『粋』と『通』とは、ブウといふ屁の如し・・・・。」
罵り尽くせば、粋と通も、こんなものでせうね。

(342頁『明治の文学第13巻 饗庭篁村』)

と締めくくっている。粋だの通だのといっても、所詮はこんなものさ、という開き直りである。痛快痛快。

坪内祐三編集『明治の文学』 は、今では企画すら通らない出版状況といえよう。こ のような企画で出版が可能であった最後の時代の産物だ。坪内祐三の功績は大きい。

 

山田美妙 (明治の文学)

山田美妙 (明治の文学)

  • 作者:山田 美妙
  • 発売日: 2001/04/01
  • メディア: 単行本
 

 

 

広津柳浪 (明治の文学)

広津柳浪 (明治の文学)

  • 作者:広津 柳浪
  • 発売日: 2001/10/01
  • メディア: 単行本
 

 【余録】

現在、角川春樹最後の監督作品『みをつくし料理帖』が公開されている。先日見てきたが、角川春樹が育てた作家・高田郁への信頼ぶりが伺える内容だった。かつての角川映画の出演者(石坂浩二薬師丸ひろ子等多数)が勢ぞろいの豪華キャストだった。

坪内氏による「角川春樹ロングインタビュー」で「もう一度野生を取り戻す」と宣言した角川氏は、対談から5年が経過し、角川春樹監督映画として野生的実践がなされている。坪内氏はその映画を視ることができないのが残念ではあるが。

 

さて、遺作『玉電松原物語』が刊行されたことで、坪内祐三氏の著作による円環的構造が可視化され、視えるようになった。
あとは、次の『文庫本千秋楽』が「本の雑誌社」から11月下旬刊行を待ちたい。

 

文庫本千秋楽

文庫本千秋楽

  • 作者:坪内祐三
  • 発売日: 2020/11/20
  • メディア: 単行本
 

 

 

 

「品川猿」「品川猿の告白」は「ラガー」ではなく「黒ビール」で読み解く

 

一人称単数


村上春樹の6年ぶりの短編小説集『一人称単数』(文藝春秋,2020)を、遅ればせながら読了した。

 

一人称単数 (文春e-book)

一人称単数 (文春e-book)

 

 

 

八編の短編が収録されているが、中でも特筆すべきは「品川猿の告白」であろう。

 

東京奇譚集 (新潮文庫)

東京奇譚集 (新潮文庫)

 

 「品川猿」とは、『東京奇譚集』(新潮社,2005)に書き下ろしで収録された作品であり、加藤典洋が「傷つけず真実を伝える」方法を示した優れた「カウンセリングの本質」を示す作品と高い評価を与えた作品である。拙ブログでも2006年7月13日に触れている。「品川猿」が傑出した作品であったが故に、その続編を思わせる「品川猿の告白」は、「僕」が群馬県M*温泉の小さな旅館で出会った「品川猿」から、女性の名前を盗む話を聞くという内容になっている。

「かなり長く、東京の品川区で暮らしておりました」と猿が「僕」に告白を始めるが、「あるときから、私は好きになった女性の名前を盗むようになった」という。その方法は、「IDが最も理想的です。運転免許証とか保険証とかパスポートみたいな。それと何らかの名札のようなものでもかまいません」と告白する。「七人の女性の名前を私は盗みました」


品川猿」では、名前を盗む代わりにその人の負の側面を引き受けるというものだったが、「告白」では、それから5年後、「僕」は名前を急に思い出せなくなったという女性編集者に出会う。女性編集者は公園で休憩しているときに、ハンドバッグを盗まれ、警察に連絡すると、その日の午後、公園近くの交番にハンドバッグがあり、その中から免許証のみ消えていたという。
「僕」は「彼女に品川猿の話をすることはやはりできない」で短編は終わっている。
究極の恋情と、究極の孤独ー僕はそれ以来ブルックナーのシシンフォニーを聴くたびに品川猿の「人生」について考え込んでしまう。小さな温泉町の、みすぼらしい旅館の屋根裏部屋で、薄い布団にくるまって眠っている老いた猿の姿を思う。

 

続編的色合いが強い「品川猿の告白」は、名前を盗むことで女性の負の部分を引き受けるという「品川猿」の特質は消えている。

動物にこだわりが強い村上春樹が、敢えて続編を思わせる「品川猿の告白」を書く必要があったのだろうか。とりあえず、別の作品と思いたい。

というのが、「品川猿」を「ラガービール」として読んだ結果であり、『一人称単数』の「ヤクルト・スワローズ詩集」の中でいみじくも神宮球場のビールの売り子(男子)が「黒ビールですが」と断りを入れている。

これを要するに、村上春樹の小説は「ラガー」ではなく、「黒ビール」であると暗に示唆しているのだ。


品川猿」の読みに加藤典洋による「カウンセリング」など一切関係ないことを、「品川猿の告白」に示すことで、名前を盗む行為とは、<猿の女性への純愛の表現にほかならない>と村上春樹は書いているのだ。

 

以下記述の便宜上、『東京奇譚集』収録作品を「品川猿A」とし、『一人称単数』の「品川猿の告白」を「品川猿B」と略称したい。

 

さて、「品川猿A」は女性の名前を盗むことで、女性の負の部分を猿が引き受けるという当初の解釈を取りたい。『東京奇譚集』の「品川猿」を「品川猿A」として、『一人称単数』の「品川猿B」と差異化をはかり、「品川猿B」は、女性の負の部分を引き受けない。ただ猿Bの愛情表現が、女性の名前に関わりのあるIDカードなどを盗み、IDカードを通してその女性へに愛を一方的に捧げているのだ。

品川猿B」はそれ以上でも以下でもない、というのが私の解釈になる。村上春樹氏は、それは「ラガービール」だというかもしれない。しかし、少なくとも「品川猿B」は、「品川猿A」の続編ではない。


とここまで書いてきて、「品川猿A」と「品川猿B」の決定的な違いは、「品川猿B」収録のタイトルは『一人称単数』とあるように、「僕」の体験集になっていることだ。あたかも村上春樹自身が八編の短編の出来事を体験したかのような内容になっている。
換言すれば、「品川猿A」はその視点が明確ではなく、聞書き風に書かれているが、「品川猿B」は「僕」が、群馬県M*温泉の小さな旅館で、「品川猿B」の告白を直接聞いていることが、最大の違いである。しかし、「一人称単数」も一つの仕掛けであり、書く手法が異なるとはいえ、「品川猿」の連続性も否定できない。

 

まあしかし、いずれにせよ、解釈は「黒ビール」を飲むように、普通の小説ではないことを前提にすれば、答え(解釈)は読者の数だけ存在する、ということ良いのではないだろうか。

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さて、以下は『一人称単数』採録の残り七つの短編の内、五編の感想を記しておく。

 

 

 冒頭の「石のまくらに」は、主人公の「僕」が大学二年生の時に出会った二十代の女性の話。彼女は短歌を読む。「僕」は四ツ谷駅近くのイタリア料理店でアルバイトをしていた。年上の女性はホールのウェイトレスをしていた。彼女が店を辞めるときに送別会があり、終了後に彼女は小金井に住んでいてそこへ帰らず、「僕」のアパートで一夜を過ごすことになる。翌朝、「歌集みたいなのを一冊出しているから、もしほんとうに読みたいのなら、あとで送ってあげるよ。きみの名前と、ここの住所を教えてくれる?」といわれ、そのとおりにメモ用紙に書いて渡すと、一週間後に彼女の「歌集」が送られてきた。「歌集」のタイトルが『石のまくらに』であった。一頁に一つの短歌が四十二首収録されていた。

やまかぜに/首刎ねられて/ことばなく/あじさいの根もとに/六月の水

午後をとおし/この降りしきる/雨まぎれ/名もなき斧が/たそがれを斬首

などのような不吉な短歌が「石をまくらに」に収められていた。

最後は、

たち切るも/たち切られるも/石のまくら/うなじつければ/ほら、塵となる

という短歌の引用で終わっている。一夜の思い出と不可思議な歌集、シテュエーションがいかにも村上春樹的であり、描写の細部にも、ハルキ的言説が漂っている。

 

「クリーム」は、18歳の時に経験した奇妙な出来事を友人に語るという仕掛けになっている。十代の少女の思い出。ピアノコンサートへ招待された会場に向かうが、指定された場所は閉鎖されていた。公園の四阿で老人と出会う。老人は少年に次のように言う。

「ええか、きみは自分ひとりだけのバー力で想像せなならん。しっかりと智恵をしぼって思い浮かべるのや。中心がいくつもあり、しかも外周を持たない円を。・・・」
「この世の中、なにかしら価値あることで、手に入れるのがむずかしうないことなんかひとつもあるかい」
「時間をかけて手間を掛けて、そのむずかしいことを成し遂げたときにな、それがそのまま人生のクリームになるんや」(p42)

村上春樹自身が、この老人(七十歳くらいか)の年になっている。つまり過去の自分にむかって「人生のクリーム」において語りかけているのかもしれない。

 

「チャリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ」は、<バード>にたいする虚構的なオマージュになっている。

 

ウイズザ・ビートルズ」は、美しい少女の思い出。1960年代に少年・少女であった世代への、いや村上自身のかつて美しい少女だった時代の回顧。もはや彼女たちは夢の効力を失っている!当該年齢のかつての少女たちへの憐れみか?

 

最後に置かれた書き下ろし「一人称単数」は凡庸なカフカ的お話。普段スーツを着ない「私」、その日スーツを着て普段行ったことのない地下のバーに出かける。
そこで、ウォッカギムレットを注文し、それを飲みながら本を読んでいた。50歳前後の女性が隣にきて、「私」に言い放つ。
「洒落たかっこうをして、一人でバーのカウンターに座って、ギムレットを飲みながら、寡黙に読書に耽っていること」
「私」の友だちの友だちと称するその女性から逃れて、地上に上がると、歩道には真っ白な灰が積もっており、歩いている男女は顔を持たない。「恥を知りなさい」とその女が言った。陳腐なカフカ的状況といえようか。

村上春樹自身への自虐的作品、と解釈してみた。

他の五編は、ラガービール的読み方をしてしまったようだ。

 

とまれ、私自身は、村上春樹の短編は面白いと感じている。『村上春樹全作品 1979~1989』の3(短編集1)、5 (短篇集2)、8( 短篇集3)の三冊。

村上春樹全作品 1990~2000』の 第1巻(短編集Ⅰ)、第3巻( 短編集Ⅱ)の二冊、全作品から3冊の「短編集」があり、こちらで読んでいる。『全作品』収録の短編には、著者が手を加えているものがあり、単行本で出ている短編か、あるいは『全作品』採録の短編か、定本が定まっていない。このあたりも読者を混乱させる。ハルキ的テクストの定本を、そろそろ著者が決めておいて欲しい。

 

なお、『全作品』刊行後の短編集は、『東京奇譚集』(新潮社,2005)、『めくらやなぎと眠る女』(新潮社,2009)、『女のいない男たち』(文藝春秋,2014)がある。

 

ちなみに私の好きな村上春樹の短編は、「午後の最後の芝生」「シドニーのグリーン・ストリート」「納屋を焼く」レーダーホーゼン「図書館奇譚」「めくらやなぎと、眠る女」「沈黙」「木野」などなど。

 

 

村上春樹全作品 1979~1989〈8〉 短篇集〈3〉

村上春樹全作品 1979~1989〈8〉 短篇集〈3〉

 

 「夜のくもざる」という掌編があったことを想い出した。

夜中の二時に私が机に向かって書き物をしていると、窓をこじあけるようにしてくもざるが入ってきた。

「やや、君は誰だ?」と私は尋ねた。

「やや、君は誰だ?」とくもざるは言った。(「夜のくもざる」『村上春樹全作品1990-2000』第1巻、p171-172)

 

村上春樹全作品 1990~2000 第1巻 短篇集I

村上春樹全作品 1990~2000 第1巻 短篇集I

  • 作者:村上 春樹
  • 発売日: 2002/11/21
  • メディア: 単行本
 

 

村上春樹全作品 1990~2000 第3巻 短編集II

村上春樹全作品 1990~2000 第3巻 短編集II

 

 

村上春樹の動物名が入る「短編集」は以下のとおり指摘できる。

 

カンガルー日和 (講談社文庫)

カンガルー日和 (講談社文庫)

  • 作者:村上 春樹
  • 発売日: 1986/10/15
  • メディア: 文庫
 

 

 

「象の消滅」 短篇選集 1980-1991

「象の消滅」 短篇選集 1980-1991

  • 作者:村上 春樹
  • 発売日: 2005/03/31
  • メディア: 単行本
 

【追記 】2020年10月21日

 

村上春樹教科書掲載作品一覧を以下に記しておく。22作品が掲載されている。学校ではこれらの作品の解読もされていると思う。加藤典洋村上春樹は、むつかしい』(岩波新書,2015)もあるくらいだ。読み方の多様性を、教室で言及していただきたい。

 

①「西風号のそう難」(『西風号の遭難』クリス・ヴァン・オールズヴァーグ原作) 
②「ノルウェイの森」(『ノルウェイの森』)  
③「ジャック・ロンドンの入れ歯」(『村上春樹雑文集』)  
「鏡」(『カンガルー日和』)  
⑤「ランゲルハンス島の午後」(『ランゲルハンス島の午後』)
⑥「レイニー河で」(『本当の戦争の話をしよう』ティム・オブライエン原作)  
⑦「待ち伏せ」(『本当の戦争の話をしよう』ティム・オブライエン原作)  
⑧「夜のくもざる」(『〈村上朝日堂超短篇小説〉夜のくもざる』)  
⑨「レキシントンの幽霊」(『レキシントンの幽霊』)  
⑩「七番目の男」(『レキシントンの幽霊』)  
⑪ 「一日ですっかり変わってしまうこともある」(『村上朝日堂はいかにして鍛えられたか』)  
⑫「ささやかな時計の死」(『村上朝日堂 はいほー!』)  
⑬「ふわふわ」(『ふわふわ』)  
⑭「バースディ・ガール」(『バースディ・ストーリーズ』)  
⑮「青が消える」(『村上春樹全作品1990-2000①』)  
⑯「カンガルー日和」(『カンガルー日和』)
⑰ 鉛筆削り(『夜のくもざる』)
⑱「とんがり焼きの盛衰」(『カンガルー日和』)  
⑲「夜中の汽笛について、あるいは物語の効用について」(『夜のくもざる』)  
⑳「沈黙」(『沈黙』)  
㉑「自己とは何か(あるいはおいしい牡蠣フライの食べ方)」(『村上春樹雑文集』)
㉒「 ポテト・スープが大好きな猫」(『ポテト・スープが大好きな猫』テリー・ファリッシ ュ原作)
*典拠:原善「教科書の中の村上春樹」(『暁星論叢66,2016)』)

 

 

村上春樹 雑文集(新潮文庫)

村上春樹 雑文集(新潮文庫)

 

 

高山宏の翻訳書は歴史に残る快挙、更に『ガリヴァー旅行記』が一冊加わる。

アリスに驚け

 

高山宏『アリスに驚け アリス狩りⅥ』(青土社,2020)が、 発売予告から10年以上の時を経て刊行された。

 

アリスに驚け

アリスに驚け

  • 作者:宏, 高山
  • 発売日: 2020/09/26
  • メディア: 単行本
 

 目次の構成は次のとおり。
第1部   アリスに驚け
第2部


メルヴィルメルヴェイユ 柴田元幸
意外にして偉大な学恩 沼野充義
ボルヘスと私、と野谷先生
**
一九二六年のトランク 『ファンタスティック・ビースト』と『ハリー・ポッター
「このわたしは人間の内部に」 一九二〇年代に起きたこと
ExtraEditiorial E・A・ポーのメディア詩学
平賀張り、英訳すればSwiftly 個人完訳『ガリヴァー旅行記』解題
遊行する機械 やなぎみわのステージトレーリング計画
***
マニエリスム、または「揉め事の嵐」 橋本治 青空人生相談について
「古くさいぞ私は」で始まると、マニエリスムになる 坪内祐三氏追善
ひろしは あなをキャッツアイ 和田誠画伯追悼
キャッツアイ 美猫「海ちゃん」追善
エピローグ
ヴンダーシュランクに書店の未来
跋 高山宏を誤[護]読(misreading)する 後藤護

 

『アリス狩り』シリーズには、いつも著者自身の「あとがき」がある*1のだが、本書には「跋 高山宏を誤[護]読(misreading)する」と題して、弟子の後藤護が執筆している。

 

冒頭に置かれた「アリスに驚け」は、書き下ろしになっているが、本文中「2007年現在」の表記があり、跋文にも、後藤護が原稿を一旦預かり、出版状況が整ったので高山師匠に返却した旨が記されている。

いずれにせよ、『アリス』冒頭部分に関する著者の関心を補強する、資料一覧の趣が大きく、高山宏は翻訳者として記憶されることになりそうだ。

アリスは土手の上でお姉さんと並んですわったまま、何もすることがないので、あきあきし始めていました。一度二度、お姉さんの読んでいる本をのぞきこんだのですが、挿絵もなければ会話もないものですから、「絵も会話もない本なんて何になるの」と、アリスは思いました。(『不思議の国のアリス』冒頭)

この冒頭シーンを巡り、高山宏は膨大な参考文献や関連文献を援用しながら、『アリス』に言及して行くわけだが、いってみればいつもの博識ぶりを披瀝している。
極論すれば、高山宏の論考は、マニエリスムとピクチャレスクに収斂する。そのための参考文献の列挙であり、英語文献はほとんど高山宏訳によるものだ。

高山宏翻訳・参考文献の一覧は以下のとおり。

エリザベス・シューエル『ノンセンスの領域』
ウィリアム・ウィルフォード『道化と笏杖』
ユルギス・バルトルシャイティスアナモルフォーズ
ポール・バロウスキー 『とめどなく笑う』
リン・バーバー 『博物学の黄金時代』
バーバラ・M・スタフォード『アートフル・サイエンス』、『グッド・ルッキング』『ヴィジュアル・アナロジー』『ボディ・クリティシズム』『実体への旅』
マリオ・プラーツ『ムネモシュネ』
サイモン・シャーマ『レンブラントの目』
ロザリー・L・コリー『パラドクシア・エピデミカ』
マーティン・ガードナー『詳注アリス』

 

詳注アリス 完全決定版
 

 

翻訳書全体から見れば、その一部ではあるけれど、全て高山宏訳によるものである。

 

高山宏以外の翻訳などの一覧は以下のとおり。

松岡正剛編『情報の歴史』
M マクルーハングーテンベルクの銀河系
フィリップ・アリエス『<こども>の誕生』
グスタフ・ルネ・ホッケ『文学におけるマニエリスム』『迷宮としての世界』
M・フーコー『言葉と物』

 

言葉と物〈新装版〉: 人文科学の考古学

言葉と物〈新装版〉: 人文科学の考古学

 

上記ほかの書物が引用あるいは援用されるのは申すまでもない。

 

本書の中では、大論考や小文、エッセイ、追悼文に至るまで、どの文にも「マニエリスム」なる言葉が現れる。
橋本治への追悼文「マニエリスム、または「揉め事の嵐」-橋本治 青空人生相談」は、橋本治が人生相談をした内容から、手紙のやり取りを、民衆的歴史からみればフランス革命にたどり着く。橋本治の人生相談をとりあげて、マニエリスムに結合させる錬金術はいかにも高山ワールドに収まる。


坪内祐三氏追悼と題された「古くさいぞ、私は」で始まると、「マニエリスム」になる」はもはや、強引、牽強付会にほかなるまい。まあ、編集者からの注文ではあるが。

 

トランスレーティッド ―高山 宏の解題新書―

トランスレーティッド ―高山 宏の解題新書―

  • 作者:高山宏
  • 発売日: 2019/12/21
  • メディア: 単行本
 

 さて、その翻訳の終了宣言を『トランスレーティッド』の「訳魔しまい口上」にて、宣言している。翻訳者として、おそらく最後の仕事となるのは『ガリヴァー旅行記』(研究社,2020)出版予定になるようだ。後書きが先行して「平賀張り、英訳すればSwiftlyー個人完訳『ガリヴァー旅行記』解題」と題して、本書に収録されている。2020年内に刊行されることを期待したい。

 

新人文感覚1 風神の袋 (新人文感覚 1)

新人文感覚1 風神の袋 (新人文感覚 1)

  • 作者:高山 宏
  • 発売日: 2011/08/10
  • メディア: 単行本
 

 

 

新人文感覚2 雷神の撥 (新人文感覚 2)

新人文感覚2 雷神の撥 (新人文感覚 2)

  • 作者:高山 宏
  • 発売日: 2011/11/22
  • メディア: 単行本
 

 今年に入り、草森紳一の諸著作に接することで、博覧強記にも二種ありと思える。英文学の世界から様々な文献に言及し<マニエリスム>に結合させる高山宏は、英語・英文学を中心に関係するピクチャレスク文献の自らによる翻訳を大量に残した。『トランスレーティッド』は、その集約的文献解説になっている。高山宏の博覧強記とは、マニエリスムを中核に据えた書物博覧であった。2011年刊行の新人文感覚の二冊、『風神の袋』『雷神の撥』の巻末索引の人名項目に「草森紳一」は、ない。

 

一方草森紳一は、中国古典を基底に、「まんが」からデザイン、衣装、建築、絵画、イラスト、写真、江戸時代から幕末・維新期の武士たちへの関心、更には、「書」に至るまで守備範囲がきわめて広い。ナチス毛沢東プロパガンダに関する膨大な調査書の作成など、高山宏マニエリスムに相当する核がない。「批評文」と「雑文」の違いか。

 

高山宏の前には、澁澤龍彦種村季弘由良君美などの先達が居る。草森紳一には、「雑文」による先達の系譜というものがない。とりわけ、今は副島種臣の書への草森紳一が書き残した原稿の書籍化が望まれる。

 

高山宏に関しては、次の翻訳『ガリヴァー旅行記』(研究社)を待ちたい。膨大な著作群があるけれど、現時点では「高山宏は時代とともにあった」と感じるが、高山宏の翻訳書は不滅であり、残り続けるだろう。『トランスレーティッド』は、高山宏翻訳書の解題集大成となった。よくぞここまで膨大な量の翻訳をなしえた。その選書眼と翻訳の労苦に感謝したい。

 

高山宏を理解するために以下の書物を紹介したい。

 

 

近代文化史入門 超英文学講義 (講談社学術文庫)

近代文化史入門 超英文学講義 (講談社学術文庫)

  • 作者:高山 宏
  • 発売日: 2007/07/11
  • メディア: 文庫
 

 

 

超人高山宏のつくりかた (NTT出版ライブラリーレゾナント)
 

『アリス狩り』シリーズの第一作から第五作までを列挙する。

 

 

アリス狩り 新版

アリス狩り 新版

  • 作者:高山 宏
  • 発売日: 2008/08/21
  • メディア: 単行本
 

 

 

 

 

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メデューサの知 アリス狩りⅢ
綺想の饗宴―アリス狩り

綺想の饗宴―アリス狩り

 

 

アレハンドリア アリス狩りV

アレハンドリア アリス狩りV

  • 作者:高山宏
  • 発売日: 2016/10/25
  • メディア: 単行本
 
 

 

【補足】2020年10月9日

高山宏の翻訳書を読もう


マニエリスム」だの「ピクチャレスク」だのバイアスを一旦外して、高山宏の翻訳書を読んでみること。

購入済だが、ほとんど未読の翻訳書を時間の許す限り読んでみたい。

とりあえず以下の10冊。


〇ロザリー・L・コリー『パラドクシア・エピデミカ』(白水社,2011)

 

 〇サイモン・シャーマ『レンブラントの目』(河出書房新社,2009)

 

レンブラントの目

レンブラントの目

 

 


〇バーバラ・M・スタフォード『ヴィジュアル・アナロジー』(産業図書,2006)
〇バーバラ・M・スタフォード『ボディ・クリティシズム』(国書刊行会,2006)

 

 
〇バーバラ・M・スタフォード『実体への旅』(産業図書,2008)

 


〇バーバラ・M・スタフォード『グッド・ルッキング』(産業図書,2004)

 

 

〇マリオ・プラーツ『ムネモシュネ 』(ありな書房,1999)

 

 
〇ユルギス・バルトルシャイティスアナモルフォーズ』(国書刊行会,1992)

 

 
〇マーティン・ガードナー/ルイス・キャロル『詳注アリス 完全決定版』(亜紀書房,2019)
〇ヤン・コット 『シェイクスピアカーニヴァル』(ちくま学芸文庫,2017)   

 

シェイクスピア・カーニヴァル (ちくま学芸文庫)
 

 いずれも高山宏翻訳であり、翻訳書そのものを読むことで、「マミエリスム」や「ピクチャレスク」の呪縛から解放されて、原書が持つ新鮮な解釈が出てくるような気がすると思うのだが、如何。

*1:『アリス狩り』シリーズⅤまでは、高山自身の「「あとがき」があった。前作『アレハンドリア アリス狩りⅤ』(青土社)は、2016年刊行である。

草森紳一・副島種臣・石川九楊

蒼海 副島種臣―全心の書―展 図録

 

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蒼海副島種臣 全心の書

草森紳一が、李賀(長吉)とほぼ同じ分量の原稿を書き残している副島種臣の「書」に関する図録・佐賀県立美術館編『没後100年記念 蒼海 副島種臣―全心の書―展 図録』(佐賀新聞社,2007二刷)を入手した。

書については素人なので、あれこれ発言することは控えたい。

 

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紉蘭

草森紳一の連載原稿のタイトル「紉蘭 詩人副島種臣の生涯」(『すばる』1991年7月号〜96年12月号(65回))は、図録の21「紉蘭(じんらん)」から取られていたこと、

「薔薇香處 副島種臣の中国漫遊」(『文學界』2000年2月号〜03年5月号(40回))は、図録11「薔薇香處」から取っていること、この二点が確認できた。

 

図録の最後に、石川九楊「焦燥・挫折・逆転 副島種臣の「超書」の世界を覗く」と草森紳一「一字一珠 副島種臣における清国漫遊中の「書」の観念、そして山岡鉄舟との接点をめぐって」が掲載されている。

私的には、図67「衆人皆酔 我独醒」が、草森紳一『北狐の足跡』の冒頭に図として紹介されていたので、印象に残る。

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図26「春日其四句」の「野富 烟霞 色天 縦花 柳春」が横に、二文字づつ書かれている前衛的な書が、おもしろい。

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春日其四句

「春日其四句」について、石川九楊は、『説き語り日本書史』(講談社,2011)において次のように評価している。

佐賀藩出身の副島種臣征韓論争に敗れて下野してのち政治家としては不遇をかこつことになる。明治十六、七年頃から、副島種臣はさまざまなスタイルで驚異的な書を書き、漢字の書における近代的表現の本格的到来をしめした。二字づつ区切った構成、個々の字形といい、驚くべき独創性をしめしている。まるでクレーやミロの絵画を思わせる。」(157頁)

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帰雲飛雨

また「帰雲飛雨」についても、次のように述べている。

「「蒼海老人種臣」と号が記されている。回転運動と垂直運動を主とした強靭な筆蝕。<雨>の縦画が斜めに走っているのが見事である。」同上(157頁)

 

 

副島種臣 (人物叢書)

副島種臣 (人物叢書)

  • 作者:安岡 昭男
  • 発売日: 2012/02/01
  • メディア: 単行本
 

 

副島種臣に関する著書として、安岡昭男『副島種臣』(吉川弘文館,2012)と、
森田朋子・齊藤洋子『副島種臣(佐賀偉人伝12)』(佐賀県立佐賀城本丸歴史館,2014)の二冊を通読してみる。

 

 

外務卿としてのマリア・ルス号事件への対応ぶり、明治天皇の侍講という職で漢籍の知識を披露したことが特筆されるが、他の幕末・明治維新関係のいわゆる偉人に比べてきわめて地味である。書に圧倒される割には、公的な仕事は控え目である。やはり、「全心の書」こそが評価されるべきだろうとの見方が必然だろう。

 

さて、草森紳一から副島種臣へ、更に石川九楊に至ることになるのは、副島種臣の<超書>への石川九楊の評価に負うところが大きいだろう。

 

書 - 筆蝕の宇宙を読み解く (中公文庫)

書 - 筆蝕の宇宙を読み解く (中公文庫)

  • 作者:石川 九楊
  • 発売日: 2016/03/18
  • メディア: 文庫
 

 石川九楊『書 筆蝕の宇宙を読み解く』(中公文庫,2016)で、副島種臣の書について「紉蘭」を紹介しながら「彼の作品の基調には、時の政府に対する憤り、怒りがあるように思います」(75頁)と記している。

 

説き語り中国書史 (新潮選書)

説き語り中国書史 (新潮選書)

  • 作者:石川 九楊
  • 発売日: 2012/05/01
  • メディア: 単行本
 

 石川九楊『説き語り日本書史』(講談社,2011)では、

「副島は幕末維新期の唐様+日本型墨蹟の系譜に出発しながらも、二度にわたる渡清によって六朝書の影響を受けることになります。・・・(中略)・・・明治十六、七年の副島種臣の書は、漢字(漢詩・漢文)の書における近代的表現の本格的な到来を示すものといえます。「春日其四句」は、その代表的なものです。・・・(中略)・・・副島種臣は戦後前衛書道家でも着想できないようなスケールの、今でも驚くような書を残しています」(156~158頁)

と絶賛している。

 

 『文字の大陸 汚穢の都 明治人清国見物録』(大修館書店,2010)は、明治期に清国を訪問した尾崎行雄原敬、岡千仞、榎本武揚伊藤博文の記録を読み解いている。
「汚穢甚だしうして、臭気鼻を衝くが故、各皆、巻煙草に点火して防臭剤と為す」と尾崎幸雄は記すほど、非衛生的な当時の清国について触れる。草森紳一は、尾崎が「この汚穢の体験からジャンプして、中国人の言語感覚がなぜ美に巧みなるかということへ、深々と思いを致す」と推測している。


この点からも、副島種臣の清国漫遊についての草森紳一の言及に関心が高まるのは当然であろう。前回(2020年8月)で、『副島種臣(仮)』の出版を希望した思いは、石川九楊の書解読を受けて、ますます高まった。

それにしても、漢文・漢詩の美的あるいは稀有壮大な表現の根底に「中国の汚穢」環境があったことは、なるほど皮肉なことだ。

 

石川九楊自伝図録 わが書を語る

石川九楊自伝図録 わが書を語る

  • 作者:石川 九楊
  • 発売日: 2019/08/23
  • メディア: 単行本
 

 

草森紳一から副島種臣へ、そして石川九楊へ。石川九楊は、『石川九楊自伝図録』(左右社,2019)において、第三章で「副島種臣の発見」の項目を掲げ、

「『墨美』で副島種臣に出会った時も驚きました。特に「積翠堂」「洗心亭」と書かれた扁額の、想像することさえなかった筆蝕の振幅と奇想の展開には驚嘆した。・・・(中略)・・・副島はなぜこんな、仕掛けにあふれた一種異形の書を書くことができたのか。その秘密は、極限までゆっくり書くことにあります。」(078~079頁)

 

と述べている。 

それにしても、草森紳一副島種臣の清国漫遊に「薔薇香處 副島種臣の中国漫遊」と付したのは、「汚穢の都」における香り(糞尿等の)に「薔薇の香り」を当てたという、シニカルで見事なタイトルになっている。

 

以上は、副島種臣を介して、草森紳一石川九楊がつながることを遅ればせながら発見した経緯の覚書である。

草森紳一著『副島種臣(仮)』の出版が期待される所以でもある。

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薔薇香處

 

 副島種臣の延長上に、河東碧梧桐がある。

河東碧梧桐―表現の永続革命

河東碧梧桐―表現の永続革命

 

 石川九楊は、埴谷雄高吉本隆明ドストエフスキーを「書」として表現している。それはまたの機会に書きたい。

 

書 文字 アジア

書 文字 アジア

 

 



草森紳一の小説を超える雑文集『副島種臣(仮)』の出版を期待する

記憶のちぎれ雲

 

草森紳一というマエストロに遭遇してしまった。かつて文春新書の『随筆 本が崩れる』に拙ブログで触れたことがある。2005年10月24日に記載しているが、草森紳一氏についてほとんんど知らなかったことを、『随筆 本が崩れる』(中公文庫,2018)を読み知ることとなる。

 

記憶のちぎれ雲 我が半自伝

記憶のちぎれ雲 我が半自伝

  • 作者:草森 紳一
  • 発売日: 2011/06/23
  • メディア: 単行本
 

 

とりあえず入手可能な『記憶のちぎれ雲』(本の雑誌社,2106)を読む。

私は学生のころから小説の時代は終わったと思っていたし(すべては大江健三郎氏に任せるという感じ)、・・・(24頁『記憶のちぎれ雲』)

 

 

坪内祐三が『あやかり富士ー随筆「江戸のデザイン」』の跋文で草森紳一の言葉を引用している。引用元は、

草森紳一『旅嫌い』(マルジュ,1982)のインタビュー記事「旅の裏切り」。

僕は、小説というのは古いスタイルだと、うすうす思っていた。(313頁『旅嫌い』)

僕自身は肯定的な意味で、雑文を考えてきたんだけどね。雑文のスタイルが、一番自分の言いたいことを書けると思っているわけ。たとえば百枚のものを書いても雑文という意識があったし、小説も雑文の一体だとそこまで拡げて雑文を考えてきた。(314頁『旅嫌い』)

草森紳一は、<雑文の巨人>といわれる。そもそも草森紳一にとって小説にさほど関心がなく、大江健三郎に小説は任せたのだが、ここは私見によれば、古井由吉の死とともに小説は終わったというのが、実感だ。古井由吉とはすなわち内向の世代で小説は終わった。小説は、古井由吉の未読の作品群が控えている。

 

閑話休題。本題にもどろう。草森紳一の雑文とは『記憶のちぎれ雲』に記されている、真鍋博古山高麗雄田中小実昌中原淳一葦原邦子夫妻、そして伊丹一三(のちの十三)の記載ぶりにみることができる。草森紳一は映画監督になるのが夢であり、東映を受験するも、大川社長との最終面接時に、自説つまり『三国志』『水滸伝』など中国の古典をもとに映画を作る夢を語るが、大川社長に受け入れてもらえず、婦人画報社に入社し、編集者として上記の六名に出会ったいきさつをいかにもシンイチ的文体(雑文)によって、まとめられている。

とりわけ、伊丹一三の部分が全体の半分を占めるほど内容が膨らんでいる。伊丹の『ヨーロッパ退屈日記』のもととなる連載を依頼したのだ。当時の伊丹は戦前の大監督伊丹万作の息子というイメージがついており、俳優としての演技も草森紳一は評価していない。むしろ父万作の全集を編纂したその力量により、万作の息子一三がニコラス・レイ監督の『北京の55日』に出演するためヨーロッパに渡ることに目を付けて、原稿依頼したのだった。その頃の伊丹一三大映スクリプターであった野上照代により川喜多長政・かしこ夫妻の娘和子を紹介され、伊丹は川喜多和子と結婚した頃だったようだ。映画監督になる前、俳優・エッセイスト・デザイナーとしての伊丹一三を評価したのが草森紳一だった。このあたりのいきさつを読むには、きわめて面白い読み物となっている。

 

 ここまで書いてきて、注文しておいた古書店から草森紳一本が数冊届いた。
まず、一番に『北狐の足跡 「書」という宇宙の大活劇』(ゲイン,1994)の内容を確認する。土方歳三副島種臣、一休、白隠、澤庵、樋口一葉池大雅、徐文長、蘇東坡、李賀など、著者の関心の範囲がよく分かる人物たちの残した書をみるところから始まる。卒論に書いた<李賀>についての大著を『李賀 垂翅の客』(芸術新聞社,2013)として没後刊行されている。

 

李賀 垂翅の客

李賀 垂翅の客

  • 作者:草森 紳一
  • 発売日: 2013/04/04
  • メディア: 単行本
 

 

『北狐の足跡』の中でも気になるのは、副島種臣である。副島種臣に関する連載は、以下のとおり。
(1)「紉蘭 詩人副島種臣の生涯」『すばる』(集英社)1991年7月号〜96年12月号(65回)
(2)「薔薇香處 副島種臣の中国漫遊」『文學界』(文藝春秋)2000年2月号〜2003年5月号(40回)
(3)「捕鼠 明治十一年の文人政治家副島種臣の行方」『表現』(京都精華大学表現研究機構)創刊号(2007年7月)〜2(2008年5月)(2回・未完)

 

■「CiNii Articles」を検索していたら、草森紳一の「副島種臣」論文3点を発見したので、追加しておく。(2020-08-18)

 

(4)「明治10年--西南戦争副島種臣」『文字』(京都精華大学文字文明研究所)4号 2004年7月
(5)「巻頭対談 副島種臣の書・漢詩・思想」対談;石川九楊 『文字』7号 (京都精華大学文字文明研究所)2006年3月
(6)「咄嗟のカマイタチ--副島種臣の「書」をめぐって。勅使河原蒼風棟方志功」『文字』7号(京都精華大学文字文明研究所)2006年3月

 

 


連載3点に、単発論文3点を加えて計6点、連載分量(100回以上)等から一書(あるいは2冊以上か)にまとめることができるだろう。草森紳一著『詩人副島種臣(仮)』として、是非発行を期待したい。副島種臣の評伝などからでは、よく分からない部分に光を当てている可能性が大いにある。
もちろん、残された雑文集も一~二冊以上の単行本未収録原稿や未発表原稿も残されているはずだ。まずは『詩人副島種臣(仮)』の刊行を期待したい。

 

とりあえず入手できた草森紳一

 

随筆-本が崩れる (中公文庫)

随筆-本が崩れる (中公文庫)

  • 作者:草森 紳一
  • 発売日: 2018/11/21
  • メディア: 文庫
 

 

 

勝海舟の真実---剣、誠、書

勝海舟の真実---剣、誠、書

  • 作者:草森 紳一
  • 発売日: 2011/06/11
  • メディア: 単行本
 

 

 

荷風の永代橋

荷風の永代橋

  • 作者:草森 紳一
  • 発売日: 2004/12/01
  • メディア: 単行本
 

 

 

その先は永代橋

その先は永代橋

  • 作者:草森紳一
  • 発売日: 2014/04/26
  • メディア: 単行本
 

 

 

 

 

写真のど真ん中

写真のど真ん中

 

 

 ナチスプロパガンダ(『絶対の宣伝』4冊)や毛沢東の大宣伝(『中国文化大革命の大宣伝』二冊)は、草森紳一の一大関心事であった。

 

中国文化大革命の大宣伝 上

中国文化大革命の大宣伝 上

  • 作者:草森 紳一
  • 発売日: 2009/05/26
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)