草森紳一・副島種臣・石川九楊
蒼海 副島種臣―全心の書―展 図録
草森紳一が、李賀(長吉)とほぼ同じ分量の原稿を書き残している副島種臣の「書」に関する図録・佐賀県立美術館編『没後100年記念 蒼海 副島種臣―全心の書―展 図録』(佐賀新聞社,2007二刷)を入手した。
書については素人なので、あれこれ発言することは控えたい。
草森紳一の連載原稿のタイトル「紉蘭 詩人副島種臣の生涯」(『すばる』1991年7月号〜96年12月号(65回))は、図録の21「紉蘭(じんらん)」から取られていたこと、
「薔薇香處 副島種臣の中国漫遊」(『文學界』2000年2月号〜03年5月号(40回))は、図録11「薔薇香處」から取っていること、この二点が確認できた。
図録の最後に、石川九楊「焦燥・挫折・逆転 副島種臣の「超書」の世界を覗く」と草森紳一「一字一珠 副島種臣における清国漫遊中の「書」の観念、そして山岡鉄舟との接点をめぐって」が掲載されている。
私的には、図67「衆人皆酔 我独醒」が、草森紳一『北狐の足跡』の冒頭に図として紹介されていたので、印象に残る。
図26「春日其四句」の「野富 烟霞 色天 縦花 柳春」が横に、二文字づつ書かれている前衛的な書が、おもしろい。
「春日其四句」について、石川九楊は、『説き語り日本書史』(講談社,2011)において次のように評価している。
「佐賀藩出身の副島種臣は征韓論争に敗れて下野してのち政治家としては不遇をかこつことになる。明治十六、七年頃から、副島種臣はさまざまなスタイルで驚異的な書を書き、漢字の書における近代的表現の本格的到来をしめした。二字づつ区切った構成、個々の字形といい、驚くべき独創性をしめしている。まるでクレーやミロの絵画を思わせる。」(157頁)
また「帰雲飛雨」についても、次のように述べている。
「「蒼海老人種臣」と号が記されている。回転運動と垂直運動を主とした強靭な筆蝕。<雨>の縦画が斜めに走っているのが見事である。」同上(157頁)
副島種臣に関する著書として、安岡昭男『副島種臣』(吉川弘文館,2012)と、
森田朋子・齊藤洋子『副島種臣(佐賀偉人伝12)』(佐賀県立佐賀城本丸歴史館,2014)の二冊を通読してみる。
外務卿としてのマリア・ルス号事件への対応ぶり、明治天皇の侍講という職で漢籍の知識を披露したことが特筆されるが、他の幕末・明治維新関係のいわゆる偉人に比べてきわめて地味である。書に圧倒される割には、公的な仕事は控え目である。やはり、「全心の書」こそが評価されるべきだろうとの見方が必然だろう。
さて、草森紳一から副島種臣へ、更に石川九楊に至ることになるのは、副島種臣の<超書>への石川九楊の評価に負うところが大きいだろう。
石川九楊『書 筆蝕の宇宙を読み解く』(中公文庫,2016)で、副島種臣の書について「紉蘭」を紹介しながら「彼の作品の基調には、時の政府に対する憤り、怒りがあるように思います」(75頁)と記している。
「副島は幕末維新期の唐様+日本型墨蹟の系譜に出発しながらも、二度にわたる渡清によって六朝書の影響を受けることになります。・・・(中略)・・・明治十六、七年の副島種臣の書は、漢字(漢詩・漢文)の書における近代的表現の本格的な到来を示すものといえます。「春日其四句」は、その代表的なものです。・・・(中略)・・・副島種臣は戦後前衛書道家でも着想できないようなスケールの、今でも驚くような書を残しています」(156~158頁)
と絶賛している。
『文字の大陸 汚穢の都 明治人清国見物録』(大修館書店,2010)は、明治期に清国を訪問した尾崎行雄、原敬、岡千仞、榎本武揚、伊藤博文の記録を読み解いている。
「汚穢甚だしうして、臭気鼻を衝くが故、各皆、巻煙草に点火して防臭剤と為す」と尾崎幸雄は記すほど、非衛生的な当時の清国について触れる。草森紳一は、尾崎が「この汚穢の体験からジャンプして、中国人の言語感覚がなぜ美に巧みなるかということへ、深々と思いを致す」と推測している。
この点からも、副島種臣の清国漫遊についての草森紳一の言及に関心が高まるのは当然であろう。前回(2020年8月)で、『副島種臣(仮)』の出版を希望した思いは、石川九楊の書解読を受けて、ますます高まった。
それにしても、漢文・漢詩の美的あるいは稀有壮大な表現の根底に「中国の汚穢」環境があったことは、なるほど皮肉なことだ。
草森紳一から副島種臣へ、そして石川九楊へ。石川九楊は、『石川九楊自伝図録』(左右社,2019)において、第三章で「副島種臣の発見」の項目を掲げ、
「『墨美』で副島種臣に出会った時も驚きました。特に「積翠堂」「洗心亭」と書かれた扁額の、想像することさえなかった筆蝕の振幅と奇想の展開には驚嘆した。・・・(中略)・・・副島はなぜこんな、仕掛けにあふれた一種異形の書を書くことができたのか。その秘密は、極限までゆっくり書くことにあります。」(078~079頁)
と述べている。
それにしても、草森紳一が副島種臣の清国漫遊に「薔薇香處 副島種臣の中国漫遊」と付したのは、「汚穢の都」における香り(糞尿等の)に「薔薇の香り」を当てたという、シニカルで見事なタイトルになっている。
以上は、副島種臣を介して、草森紳一と石川九楊がつながることを遅ればせながら発見した経緯の覚書である。
草森紳一著『副島種臣(仮)』の出版が期待される所以でもある。
石川九楊は、埴谷雄高、吉本隆明やドストエフスキーを「書」として表現している。それはまたの機会に書きたい。
草森紳一の小説を超える雑文集『副島種臣(仮)』の出版を期待する
記憶のちぎれ雲
草森紳一というマエストロに遭遇してしまった。かつて文春新書の『随筆 本が崩れる』に拙ブログで触れたことがある。2005年10月24日に記載しているが、草森紳一氏についてほとんんど知らなかったことを、『随筆 本が崩れる』(中公文庫,2018)を読み知ることとなる。
とりあえず入手可能な『記憶のちぎれ雲』(本の雑誌社,2106)を読む。
私は学生のころから小説の時代は終わったと思っていたし(すべては大江健三郎氏に任せるという感じ)、・・・(24頁『記憶のちぎれ雲』)
坪内祐三が『あやかり富士ー随筆「江戸のデザイン」』の跋文で草森紳一の言葉を引用している。引用元は、
草森紳一『旅嫌い』(マルジュ,1982)のインタビュー記事「旅の裏切り」。
僕は、小説というのは古いスタイルだと、うすうす思っていた。(313頁『旅嫌い』)
僕自身は肯定的な意味で、雑文を考えてきたんだけどね。雑文のスタイルが、一番自分の言いたいことを書けると思っているわけ。たとえば百枚のものを書いても雑文という意識があったし、小説も雑文の一体だとそこまで拡げて雑文を考えてきた。(314頁『旅嫌い』)
草森紳一は、<雑文の巨人>といわれる。そもそも草森紳一にとって小説にさほど関心がなく、大江健三郎に小説は任せたのだが、ここは私見によれば、古井由吉の死とともに小説は終わったというのが、実感だ。古井由吉とはすなわち内向の世代で小説は終わった。小説は、古井由吉の未読の作品群が控えている。
閑話休題。本題にもどろう。草森紳一の雑文とは『記憶のちぎれ雲』に記されている、真鍋博、古山高麗雄、田中小実昌、中原淳一・葦原邦子夫妻、そして伊丹一三(のちの十三)の記載ぶりにみることができる。草森紳一は映画監督になるのが夢であり、東映を受験するも、大川社長との最終面接時に、自説つまり『三国志』『水滸伝』など中国の古典をもとに映画を作る夢を語るが、大川社長に受け入れてもらえず、婦人画報社に入社し、編集者として上記の六名に出会ったいきさつをいかにもシンイチ的文体(雑文)によって、まとめられている。
とりわけ、伊丹一三の部分が全体の半分を占めるほど内容が膨らんでいる。伊丹の『ヨーロッパ退屈日記』のもととなる連載を依頼したのだ。当時の伊丹は戦前の大監督伊丹万作の息子というイメージがついており、俳優としての演技も草森紳一は評価していない。むしろ父万作の全集を編纂したその力量により、万作の息子一三がニコラス・レイ監督の『北京の55日』に出演するためヨーロッパに渡ることに目を付けて、原稿依頼したのだった。その頃の伊丹一三は大映のスクリプターであった野上照代により川喜多長政・かしこ夫妻の娘和子を紹介され、伊丹は川喜多和子と結婚した頃だったようだ。映画監督になる前、俳優・エッセイスト・デザイナーとしての伊丹一三を評価したのが草森紳一だった。このあたりのいきさつを読むには、きわめて面白い読み物となっている。
ここまで書いてきて、注文しておいた古書店から草森紳一本が数冊届いた。
まず、一番に『北狐の足跡 「書」という宇宙の大活劇』(ゲイン,1994)の内容を確認する。土方歳三、副島種臣、一休、白隠、澤庵、樋口一葉、池大雅、徐文長、蘇東坡、李賀など、著者の関心の範囲がよく分かる人物たちの残した書をみるところから始まる。卒論に書いた<李賀>についての大著を『李賀 垂翅の客』(芸術新聞社,2013)として没後刊行されている。
『北狐の足跡』の中でも気になるのは、副島種臣である。副島種臣に関する連載は、以下のとおり。
(1)「紉蘭 詩人副島種臣の生涯」『すばる』(集英社)1991年7月号〜96年12月号(65回)
(2)「薔薇香處 副島種臣の中国漫遊」『文學界』(文藝春秋)2000年2月号〜2003年5月号(40回)
(3)「捕鼠 明治十一年の文人政治家副島種臣の行方」『表現』(京都精華大学表現研究機構)創刊号(2007年7月)〜2(2008年5月)(2回・未完)
■「CiNii Articles」を検索していたら、草森紳一の「副島種臣」論文3点を発見したので、追加しておく。(2020-08-18)
(4)「明治10年--西南戦争と副島種臣」『文字』(京都精華大学文字文明研究所)4号 2004年7月
(5)「巻頭対談 副島種臣の書・漢詩・思想」対談;石川九楊 『文字』7号 (京都精華大学文字文明研究所)2006年3月
(6)「咄嗟のカマイタチ--副島種臣の「書」をめぐって。勅使河原蒼風と棟方志功」『文字』7号(京都精華大学文字文明研究所)2006年3月
連載3点に、単発論文3点を加えて計6点、連載分量(100回以上)等から一書(あるいは2冊以上か)にまとめることができるだろう。草森紳一著『詩人副島種臣(仮)』として、是非発行を期待したい。副島種臣の評伝などからでは、よく分からない部分に光を当てている可能性が大いにある。
もちろん、残された雑文集も一~二冊以上の単行本未収録原稿や未発表原稿も残されているはずだ。まずは『詩人副島種臣(仮)』の刊行を期待したい。
とりあえず入手できた草森紳一本
ナチスのプロパガンダ(『絶対の宣伝』4冊)や毛沢東の大宣伝(『中国文化大革命の大宣伝』二冊)は、草森紳一の一大関心事であった。
文壇「坪内組」ならこう言うぜ、『坪内祐三文学年表』出版もあるでよ
東京タワーならこう言うぜ
坪内祐三いうところのヴァラエティ・ブック『東京タワーならこう言うぜ』(幻戯書房,2012)を入手した。この種の本は『古くさいぞ私は』(晶文社,2000)以来のことである。この間12年間に、坪内氏の姿勢は文学や書店・古書店などについて、前者にみえる積極性に較べて、後者はきわめて悲観的であり対照的な内容になっている。
坪内祐三『東京タワーならこう言うぜ』(幻戯書房,2012)を読んでいたら、久保覚について以下のような記述があった。
久保覚は現代の基準で呼べば夭折と言ってもいい年、六十一歳で1998年に亡くなったが、その遺稿集『収集の弁証法』(影書房,2000)巻末の「久保覚略年譜」によって編集者久保覚の像が明らかになった。(90頁『東京タワーならこう言うぜ』)
「現代の基準で呼べば夭折と言ってもいい年、六十一歳」というのは、坪内祐三その人の61歳と同じであり、夭折という表現が、1998年と2020年でダブルことになった。符合するとは恐ろしい。坪内氏の文章は、2011年7月に雑誌掲載されている。
ヴァラエティ・ブックとしての『古くさいぞ私は』と『東京タワーならこう言うぜ』の間に流れた12年間は、いわば喪失の歴史でもあったことを知らされた。
さて坪内本で未入手の書籍を集めて読む。
『文藝綺譚』(扶桑社,2012)は、ツボウチ流<文芸エッセイ>の面白さを味わった。
『昭和の子供だ君たちも』(新潮社,2014)からは、世代論から昭和の戦争を含む細部へのこだわりをひとつの精神史として描き、見事な出来栄えになっている。読み応え十分だった。『されど、われらが日々ー』、共産党、六全恊、『われらの時代』、60年安保、全共闘、1972年浅間山荘(『一九七二』で語られた)、1980年の意味、「シラケ世代」「新人類」「おたく」、団塊・全共闘・安中派、そして最後の「昭和の子供たち」に触れながら、ひとつの精神史として昭和を論じるスタイル。驚くべき切り口に、<昭和本>の代表作たり得る傑作だ。
これは坪内氏のベスト3に入ると確信した次第。一気に読んだ。
坪内祐三の著作は多い。そのうち読書関係の日記出版は、『三茶日記』(本の雑誌社,2001)、『本日記』(本の雑誌社,2006)『書中日記』(本の雑誌社,2011)『昼夜日記』(本の雑誌社,2018)がある。
『三茶日記』は、1997年1月,10月~2001年6月まで、『本日記』は2001年7月~2005年10月まで、『書中日記』は2005年11月~2010年12月まで、そして『昼夜日記』では、2011年1月~2016年7月まを採録している。
「読書日記」の2016年8月から2020年3月号までの連載分の刊行が待たれる。
これらの「読書日記」と『ダカーポ』連載の『酒日誌』(2002年11月~2006年7月)と『小説現代』連載の『酒中日記』『続・酒中日記』(2006年11月~2014年4月)を、年表を追記すれば、『坪内祐三文学年表』が出来上がる。
ちなみに小生は、『酒日誌』のみ購入しており、『酒中日記』『続・酒中日記』は古書価が高く購入していない(読者には「酒」関係の日記が読まれているようだ)。
これは当然であるが『坪内祐三文学年表』は、荒正人が編集・執筆した『漱石文学年表』に匹敵するものとなることを期待したい。
ちなみに、坪内氏は「年表が文学になる時」(『文学を探せ』)というエッセイがある。とはいうものの坪内祐三氏から数多くの未知の作家・小説家・編集者等を教えられた。何より坪内氏の文体(文脈)は面白い。読みやすく下手な気取りがない。素直なのだ。どれほど多くのことを教えられたか、今改めて思い知る。
没後の刊行となった『みんなみんな逝ってしまった、けれど文学は死なない。』(幻戯書房,2020)の巻末に索引が付されている。
「人名索引」145名、「タイトル索引」71タイトル、「事項索引」は芥川賞、イエナ書店、泉鏡花文学賞、オウム事件、川端康成文学賞、関東大震災、共産党、キリン堂書店、近藤書店、サントリー学芸賞、自民党、人力車、全共闘運動、第三の新人、ダイヤモンド社、谷崎潤一郎賞、中央公論新人賞、テニス山口組、東京オリンピック、東京ディズニーランド、内向の世代、直木賞、野間文芸賞、バブル、日比谷高校、満州事変、無条件降伏論争、靖国神社、リトルマガジン、レイクヨシカワ書店、連合赤軍、六〇年安保まで33項目。この多彩な項目も坪内氏の一部であることは申すまでもない。
人名で多いのは、7回以上が、植草甚一、江藤淳、遠藤周作、大江健三郎、粕谷一希、小林信彦、小林秀雄、庄司薫、福田章二、十返肇、常盤新平、永井荷風、中川六平、野坂昭如、深沢七郎、丸谷才一、三島由紀夫、安岡章太郎、山口昌男、山本健吉、吉本隆明、吉行淳之介である。この人名に福田恆存、野口富士男、川崎長太郎、滝田樗陰、池島信平、木佐木勝等、数多くの人名が付加されるだろう。
坪内氏のかつて編集者<坪内組>による『坪内祐三文学年表』の編集・刊行を期待する。巻末には、「人名索引」「タイトル索引」「事項索引」が付せられることを希望したい。これは一読者としての「夢」に過ぎない。
『坪内祐三文学年表』は、坪内氏の追悼企画として如何であろうか。
坪内祐三にサヨウナラ、はまだ早い
みんなみんな逝ってしまった、けれど文学は死なない。
坪内祐三追悼特集雑誌が二冊刊行された。『本の雑誌2020年4月「さようなら、坪内祐三」』(本の雑誌社,2020)と『ユリイカ総特集坪内祐三』(青土社,2020)だ。
坪内祐三の新著作(と言っても編集は出版社)が、この6月下旬に二冊刊行された。
『本の雑誌の坪内祐三』(本の雑誌社、2020.)と『みんなみんな逝ってしまった、けれど文学は死なない。』(幻戯書房、2020)である。
まず『本の雑誌』2020年4月「さようなら、坪内祐三」に多くの関係者が、追悼文を寄稿している。その中で気になったのが四方田犬彦「緑雨になれたはずなのに」の最後の文章から引用する。
わたしは彼が同業者を何人か集めて、タクシー会社の宣伝のような雑誌を拵えたとき、これはダメだと思った。群れなどなしていては、いい批評など書けるわけがないからだ。ちょっと可哀想なことを書くようだが、新宿の狭い「文壇」とやらに入り浸って、英語の本を読む習慣を忘れてしまったのは、彼の凋落の始まりだったような気がしている。(68頁『本の雑誌2020年4月』)
その前には以下の期待が記されている。
わたしは、・・・(中略)・・・今の世の斎藤緑雨になれるかもしれない。そう期待してみた。(68頁『本の雑誌2020年4月』)
多くの友人、知人が追悼の意を表している文章のなかで異色の文だ。斎藤緑雨になって欲しいと思うかどうかは、見解が分かれるところだが、雑文量産よりもしっかりと評論を書き残して欲しかったと、小生も思う。生前最後の著作が『テレビもあるでよ』( 河出書房新社,2018)では少しさみしい。
『ユリイカ総特集坪内祐三』(青土社,2020)はかなり厚く、より多くの知人・友人たちが寄稿している。
『本の雑誌』で、平山周吉(小津映画で笠智衆が演じた役名と同じ)が、「坪内祐三の10冊」を取り上げている。
『ストリートワイズ』(晶文社,1997)
『慶応三年生れ七人の旋毛曲り』(マガジンハウス,2001)
『古くさいぞ私は』 (晶文社,2000)
『文庫本宝船』 (晶文社,2016)
『昼夜日記』 (本の雑誌社,2018)
『私の体を通り過ぎていった雑誌たち』(新潮社,2005)
『東京』 (太田出版,2008)
『昭和の子供だ君たちも』 (新潮社,2014)
『後ろ向きで前へ進む』 (晶文社,2002)
『右であれ左であれ、思想はネットでは伝わらない』(幻戯書房,2018)
私は重複を避けて五冊にしたい。発売順に、
『「別れる理由」が気になって』(講談社,2005)
『極私的東京名所案内』 (彷徨舎,2005)
『考える人』(新潮社,2006)
『探訪記者 松崎天民』(筑摩書房,2011)
『父系図 近代日本の異色の父子像』(扶桑社,2012)
編集者としての坪内氏は、
『明治の文学』(筑摩書房)全25巻を評価したい。
坪内氏の作品は、東京に関するものが多い。『東京』 (太田出版)などは、東京の地名に絡めた、著者自身の一種自叙伝になっている。
『風景十二』( 扶桑社)は場所(図書館など)に絡め、著者の記憶が係わる。その点では、『極私的東京名所案内』の<極私的>タイトルが、内容的には<歴史的文学史・東京>に関する記述であり、貴重な書物だ。
『「別れる理由」が気になって』は、私的にはベスト著作であり、理由は拙ブログで既に言及している。
『考える人』は、著者好みの作家批評家が取り上げらていて、好著だと感じる。
『探訪記者 松崎天民』はあまり知られていない明治のジャーナリストの生涯を辿る稀書だといえよう。
『父系図 近代日本の異色の父子像』は、淡島椿岳・寒月親子に始まり、内田魯庵・内田巌、・・・・九鬼隆一・周造など12組の親子像を示す貴重な仕事だった。
さて新刊の、本の雑誌社刊行『本の雑誌の坪内祐三』は、巻末の「坪内祐三年譜」(川口則弘作成)が、氏の様々なエピソードを引用しながら、月別あるいは日別に構成されていて、優れて面白い読み物になっている。
『みんなみんな逝ってしまった、けれど文学は死なない。』は、跋文を書いている平山周吉(またまた小津)が、紹介しているように幻戯書房の名嘉真春紀氏の企画により実現した没後の出版物である。内容は、「文壇おくりびと」「追悼の文学史」「福田章二と庄司薫」「雑誌好き」・・・「平成の終わり」によって構成されている。いかにも坪内祐三の文章が並べられている。
一種、追悼のために編纂された書物のようだ。
『文庫本宝船』の「あとがき」で次のように出版状況について触れている。7年前の『文庫本玉手箱』でも同じように記していたが、「出版不況」は変わらない。
この七年間で出版をめぐる情況は、まったく好転していません。・・・(中略)・・・かつて私の本は増刷が当たり前、三刷、四刷になることもありました。しかし、ここ十年ぐらい私の本は常に初版どまりです。・・・この連載を千回続けたい。(714~715頁『文庫本宝船』)
『週刊文春』の「文庫本を狙え!」の連載が1000回を超えている。最後の回まで収録した『文庫本〇〇』を連載元の文藝春秋か、あるいは本の雑誌社で発行されるこを期待したい。『文庫本〇〇』の発行や、単行本未収録の原稿を書籍化して欲しい。坪内氏にサヨウナラするのは、それからでも遅くはない。
【追記】(2020年6月28日)
『みんなみんな逝ってしまった、けれど文学は死なない。』の中で、「福田章二と庄司薫」に新鮮な味わいを持った。
福田章二は大学生の時に「喪失」で中央公論新人賞を受章した。江藤淳は「新人福田章二を認めない」で全否定した。福田章二は、『駒場文学』に「喪失」の初出原稿を掲載している。その初稿を書き改めて『中央公論』に応募したわけだ。初稿はのちに芥川賞を受賞する『赤頭巾ちゃん気をつけて』を彷彿させる口語的文体であった。福田章二は文学を<らせん状>に考え、改稿した「喪失」を提出したのだった。
歴史的に回顧すれば、庄司薫は青春文学の古典を書いたと評価されよう。「喪失」とその初稿、そして10年後の「赤頭巾」に至る背景を、坪内氏は明快に解説している。
もうひとつ「厄年にサイボーグになってしまった私」では、坪内氏は自分の死生観に「殆ど関心がない」と記し、
二十一世紀に入ろうとする時頃、二〇〇〇年暮、私は新宿で事故に遭い、死にかけた。・・・(中略)・・・三度の手術(その内一度は顔の手術)を経て復活した私はまるでサイボーグのようになってしまった。・・・(中略)・・・私は既にあの時、死んでしまったのかもしれない。(365~367頁)
と書いていた。この箇所は坪内氏が、自分の<死>を予感していたような記述だ。
レスコフは義人の物語作家であるとベンヤミンは評価した
左利き 髪結いの芸術家
群像社のHPを見ていたら、ブーニン作品集4『アルセーニエフの人生』(2019)に刊行されていたことを知り、更に、レスコフの短編集新訳二冊『左利き』『髪結いの芸術家』が、「レスコフ作品集1,2」として2020年2月に発行済であることを知り、早速、これらの三冊を取り寄せ入手した。
また、東海晃久訳『魅せられた旅人』(河出書房新社,2019)も昨年末に新訳として出版されていたことを遅れて知った。
レスコフは、ベンヤミンによる「物語作者ニコライ・レスコフの作品について」*1の結末で「物語作者ーそれは、自分の生の灯芯をみずからの物語の穏やかな炎で完全に燃焼し尽くすことのできる人間のことだ」と捉え、スティーブンソン、ポーと並びレスコフを評価し、「物語作者とは、義人が自分自身に出会うときの姿なのである」と結んでいる。「義人」とは、「レスコフの被造物たちの列を率いる人間たちもメールヒェン的に抜け出ている。それはすなわち義人たちである」と17章で規定している。
さて『左利き』を、「左利き」「老いたる天才」「ニヒリストとの旅」「じゃこう牛」の順で読む。たしかに語りの文学だ。「じゃこう牛」とあだ名が付せられた男は、ギリシア正教派への反発者だったことが彼の自死により明らかにされる。友人が物語る話だが、「じゃこう牛」ことワシーリイ・ペトロ―ヴィチは<義人>と捉えられる。
「左利き」は「ぎっちょ」として東海晃久訳『魅せられた旅人』にも採録されている。左利きの鉄砲鍛冶職人が見事な腕前で蚤の模型に蹄鉄が撃ち込まれている作品を作る。そのおかげでイギリスに外遊を許され、イギリスの鉄砲改良を発見し、帰国後ツァーリに報告しようするが、阻まれ病死する。<義人>伝説の典型的物語。
『髪結いの芸術家』は、「アレクサンドライト」「哨兵」「自然の声」「ジャンリス夫人の霊魂」「小さな過ち」と「髪結いの芸術家」が収録されている。
「髪結いの芸術家」は、作者が子供のころ、弟の乳母だった老女からの聞き書きの形で語られる、若き日の駆け落ち未遂の顛末だった。ほぼ全ての作品が、私あるいは誰かが、聞き書きのように語りを記録している。その語り口が見事な物語になっていて、読む者は引きずり込まれる。まさしく、ベンヤミンが、早々に読み取っていたことである。老女が若き日に駆け落ちしようとした相手の髪結いの若者は、自己を犠牲にして女性を助ける。老女はその忘れられない思い出を著者に語る。髪結いの若者こそ<義人>にほかならない。また、「哨兵」は他者の命を救うことで自分を破滅させた<義人>を描いている。
そういえば「ムチェンスク郡のマクベス夫人」(『真珠の首飾り』に採録)も語りで始まっていたことを想起した。ただし、セルゲイと商人の妻カテリーナ(マクベス夫人)の行路は<義人>の定義から逸脱しているが、物語の深さに圧倒される異色の作品であった。
ベンヤミンの<義人>説を確認するためには、レスコフ作品の翻訳が少ない。今回、群像社から二冊、計10編の短編が翻訳出版されたが、19世紀ロシア文学の系譜から距離を置くレスコフの全貌が見えるような環境が整う必要があるだろう。
群像社へのお願いとして、未刊の『ブーニン作品集・第二巻』と、「レスコフ作品集」の続編の刊行を期待したい。
彼岸と此岸をつなぐ古井由吉の<ことば>
神秘の人びと
古井由吉の『神秘の人びと』(岩波書店,1996)は、『仮往生伝試文』の西洋版であり、私は、中世西洋の修道院の人びとによる神秘体験を興味深く読んだ。マルティン・ブーバー編纂の説教集や、マイスター・エックハルトの説教集のドイツ語訳を、引用しながら自在に、古井由吉の言葉に変換しているところなどいかにも、古井由吉版『西洋往生集』になっている。
古井由吉に関して、文芸雑誌を三冊すなわち『群像』『新潮』『文學界』5月号を購入した。文芸雑誌を三冊まとめて買い求めること自体かつてないことだ。もちろん、「古井由吉追悼特集」を読むためである。
安藤礼二「境界を生き抜いた人 古井由吉試論」(『文學界』)と、富岡幸一郎「古井由吉と現代世界ー文学の衝撃力」(『群像』)、二つの古井由吉論が参考になった。安藤氏は、古井由吉が<死の臨界>に迫ったことを文学的達成と評価し、富岡氏は古井由吉の『楽天記』が、<文学の黙示録>であると賞賛している。
雑誌三冊に寄稿しているのは、蓮實重彦のみだ。東大教養学部の同級生であり、立教大学教員時代の同僚という立場からである。蓮實重彦が評価するのは、『水』『白髪の唄』『辻』の三作であることを明言している。
蓮實重彦は、『仮往生伝試文』には、「文中に「ブイヤベース」の一語がまぎれこんでいることが、耐えられなかった」と記す。
「十二月五日、土曜日、曇り」の断章には、「なぜだか、昨夜の宿の食卓でとても食べきれなかった、ふんだんの量のブイヤベースのにおいが鼻の奥にひろがった」という文章でまともな古井由吉ならこの南仏料理をしかるべき単語に置き換えていたはず」と確信し、「この作品は正当化されがたい長さにおさまるしかなかった」と批判している。
本文を確認すると、「物に立たれて」と題する章で、文庫版では266頁に該当箇所がある。
そもそも『仮往生伝試文』は、古典の引用と、作者自身の日記と思しき記録の絶妙の組み合わせによって成立している。しかも「物に立たれて」は、「十二月二日 水曜日 晴。」から始まる、例外的な手法になっている。「物に立たれて」は、男が突然不在となること、一家の主人がある日忽然といない、そんな雰囲気の様子を、日記の日付けから始まる書き方をしている。
蓮實重彦が指摘しているのは、南仏の記憶を記した日のことで、「ブイヤベース」という言葉への自らの嫌悪感を述べているに過ぎない。元来この小説の趣向は、古典と現代の交錯の中に、人びとの「往生」を描いていることに注目すべきで、一つの単語への執拗なこだわりから、人の往生の在り方を描く作品の大いなる意図を読み込んでいるのだろうかと疑問を禁じ得ないところだ。
話を『神秘の人びと』に戻そう。エックハルト説教集などからの翻訳・引用に、古井由吉独自の視点から抉り出す修道僧たちの神秘体験は、中世という時代にもかかわらず、きわめて緊迫した神との合一に至る苦痛にも恍惚たる法悦を受容しているような告白は、驚くべき内容だった。古井由吉氏の関心が、何処にあるかがよく分かる書物になっている。もうひとつの『仮往生伝試文』と言えるだろう。
小説は難解だが、エッセイは読みやすい。小説の<ことば>は生と死をつなぐものになっている。いわば、此岸と彼岸の往還である。『神秘の人びと』は、彼岸へと向かう修道士たちの神への合一の段階的変容の経過を記している。
とりわけ語り口調の『人生の色気』には、古井由吉氏の考えが披歴されている。またエッセイ集『楽天の日々』は、充実した作品群でもある。
古井由吉氏の訃報は、近現代文学の終わりを告げる
古井由吉氏の訃報
新型コロナウイルスのパンデミック的感染拡大により、報道はこの武漢発生のウイルス一色となっている。この間、日常的な外出を控え、読書に集中していた。
古井由吉の訃報が小さく扱われていた。2月18日他界されたとのこと。
近現代文学の最高峰とも称される文学者・古井由吉氏の死は、現代文学の終焉を象徴している。
『杳子』で芥川賞受賞する。その前に、大学教員を辞職し、筆一本に専念している覚悟が凄い。処女作「木曜日に」を書き、その美文的な文体は、既に後の作品群を予感させるものであった。
鈍色にけぶる西の中空から、ひとすじの山稜が遠い入り江のように浮かび上がり、御越山の頂を雷が越しきったと山麓の人々が眺めあう時、まだ雨雲の濃くわだかまる山ぶところの奥深く、幾重もの山ひだに包まれて眠るあの渓間でも、夕立ち上がりはそれと知られた。(7頁「木曜日に」『古井由吉集』)
「木曜日に」の冒頭を引用したが、『新鋭作家叢書 古井由吉集』の解説で、川村二郎は「古井由吉は美文家である」と規定している。しかもその美文は、「その古風さを、ぼく(川村)は現代作家古井由吉の美徳に数えたい」と称え、「外と内が分かちがたくなっている」と評価する。この川村氏の指摘は、その後の作品に一貫した手法として続いていることに驚嘆しないわけにはいかない。
古井氏の作品は、明晰な文体が難解さを誘う。小説のストーリーを紹介するなど野暮となる。
古井氏の作品について、全てを読んできたわけではない。初期の『円陣を組む女たち』『杳子・妻隠』から『行隠れ』あたりまで、刊行と同時に入手し、伴走していた。しかしながら、その後しばらくは刊行を横目でみながら、購入も読むことも控えていた。
突然の驚きは、『仮往生伝試文』(河出書房新社,1989)の出現だった。
古典類の「往生伝」から引用し、それを作者=古井由吉が解釈する、続いて日付入りの記録。これが小説なのだろうかと思うような構成になっている。
往生を巡り、時間・空間を超越し、言葉が行き来する。おそるべき試み。すなわち「往生伝」に関する仮の「試文」となっているのだ。
この作品を分水嶺として、『野川』あたりから私小説風の言葉に、随想が混入して一種独得の世界を表現してきた。
古井由吉の言葉を借用すれば古井氏は、「聖譚」を書いてきたことになる。大江健三郎との対談において次のように語っている。
作家の意思の問題ではなくて、小説を書くことに常に内在している。小説というのは、どんなに暗澹とした解決不能なことを書いても、おのずから形が聖譚に寄っていく(27頁『文学の淵を渡る』)
現在、著者生前最後に刊行された『この道』を読んでいるが、老いてきた作家が、小説の中に戦中の体験や、若くまだ作家になる前の話や、著者の住むマンションの外装の工事あるいは、著者が入院した時のことなどが、混然と描かれる。文章は、「文体の作家」の栄誉にふさわしく、何処を切り取っても明晰な文体になっている。
ところが、全体のストーリーをたどれない。いや梗概を書くことなど意味がないような作品になっている。換言すれば、読むことでしか、古井由吉の世界に参入できない、そのような世界なのだ。
古井由吉の文体は、小説一般が過去形で書かれているのに対して、つねに現在進行形の文体が試みられている。もはや、古井氏のような作家は出現しないだろう。古井由吉の死とは、近現代文学の終焉を意味する。
とまれ、『新潮』掲載の「雛の春」に始まる「われもまた天に」「雨あがりの出立」の連作短編と未刊の「短編」やエッセイなどの刊行が待たれる。
初期作品から、『仮往生伝試文』『野川』にとび、『この道』を読むところまできたが、以下の未読作品が待ち受けている。とりあえずの、記録である。
古井由吉の待機作品