牡蠣工場


2016年上半期に観た映画の中から、日本映画は『牡蠣工場』を、外国映画は『さざなみ』をとりあげる。


想田和弘監督、観察映画第6弾『牡蠣工場』(2016)を観る。岡山県牛窓地区にある牡蠣工場を、例のごとく観察した映画である。想田氏は、ドキュメンタリー映画とは言わない。膨大なフィルムを編集して出来上がった作品であることは、普通の映画と同じだが、プロの役者は出ていない。



映画にナレーションがなく、あくまで観察映画である。この監督の撮る内容が日本のいまを切りとっている。キャメラを持った監督と思われる人物と、被写体である牡蠣工場の人達のやりとりが面白い。

冒頭は横たわる猫を捉えた光景から始まる。シーンの切れ目に「猫」を挿入して画をつないでいる。

想田氏は、公式HPで以下のように記している。

本作は「変化」についての映画だと僕は解釈している。社会が、時代が、少しずつ変化していく。変化の歯車の動きは、その変化が本質的であればあるほど、突発的な大事件の渦中ではなく、日常生活の中でゆっくりと起きるものだ。


漁師といっても、近くの牡蠣養殖場から、牡蠣を引き上げて船に乗せて帰港する。牡蠣は、工場に移され、女性や老人たちが黙々と牡蠣むき作業をしている。

牡蠣工場の経営者は、震災のあと、牛窓へ転居してきた漁師であった。


キャメラを回す途中で、中国人研修生を季節的に受け入れていることがわかる。たしかに日本では、3Kの職場であり、若者たちは都会へ出る。中国人たち研修生を受け入れるために、プレハブの家を建て準備する。牡蠣むきの労働に、日本の若者は関心がない。地味な仕事、ローカルな仕事のもつ重要性を知らせる映画にもなっている。


映画にメッセージを求めてはならない。メーセージにはならない生活者の現状を捉えることも間接的なメッセージかも知れないと、想田作品を観て思う。