完全な人間を目指さなくてもよい理由


マイケル・サンデル著『完全な人間を目指さなくてもよい理由』(ナカニシヤ出版,2010)は、現在「ハーバド白熱教室」や東大安田講堂での講義であまりにも著名な政治哲学の教授が、生命倫理、とりわけ「エンハンスメント」*1について言及した小冊子を翻訳したものである。


完全な人間を目指さなくてもよい理由?遺伝子操作とエンハンスメントの倫理?

完全な人間を目指さなくてもよい理由?遺伝子操作とエンハンスメントの倫理?


様々な道徳的ジレンマの実例を出しながら、受講生と討議を重ねるスタイルとは異なって、ここにはサンデル氏の遺伝子操作とエンハンスメントのアメリカにおける現状と、サイボーグ選手=筋肉(スポーツ選手のドーピングから一般人の運動能力向上まで)、子どもの設計=記憶(ADHDの治療薬の適用によって、普通の子どもたちを優秀な人間へ)、身長(優生学による遺伝子増強の自由市場化問題)、性選択(最近の生殖技術による性選択の行き着く果て)などについて、サンデル氏は、「謙虚、責任、連帯」をキーワードにして、エンハンスメントへの批判を試みている。
 
 

われわれが現在保有するエンハンスメントの力は、生物医学の進歩に伴う偶然の副産物として発生した―つまり、遺伝学革命は当初は疾病の治療のために到来した―のだが、それが今や、パフォーマンスの向上や、子どもの設計や、人間本性の完全化等の見通しへとわれわれを誘い続けている、という風にしばしば考えられている。だが、それは実はあべこべの話なのかも知れない。また、われわれは世界を股にかけた存在であり人間本性の支配者であるべしという決意の行き着く先にあるのが、遺伝子操作とも考えられる。だが、そうした自由の見方は誤っている。そのような見方は、贈られものとしての生という洞察を損ね、自らの意志の他に肯定したり見守ったりすべきものは何も残らないという結果を招きかねないのである。(p105)

サンデル氏の基本的な考えは、人間の被贈与性におく。人間は「贈られもの」であり、子育てにおいて謙虚さを学び、親は子どもが望みどおりの性質を備えるとは限らない。親は招かれざるものへの寛大さを教えられると著者は言う。
 
 

もし遺伝学革命によって、人間の能力や偉業の被贈与的性格に対するわれわれの謝意が蝕まれていくならば、われわれの道徳の輪郭を形作っている三つの主要な特徴、すなわち、謙虚、責任、連帯に、変容がもたらされる(p90)


遺伝子学革命は、人類に完璧な人間を志向させるし、全能感を付与するというきわめて大きなリスクを負い始めていることに気づかねばなるまい。サンデル氏の見解によって、現在、進行しつつある遺伝子操作等のエンハンスメントが道徳的・哲学的解決を導くかどうか、断言できるとは思えない。


しかし、治療目的から自由市場的な適用がなされるならば、ここでも、所得格差による差別化がより拡大されるだろう。

胚細胞に関しては、サンデル氏の次の指摘が有効であろう。

人間の生命の胎動が持つ神秘にふさわしい道徳的制約を具体化するような規制を課しつつ、研究推進を許容すべきなのである。(p134)


遺伝子操作や「エンハンスメント」に係わる研究と応用は、きわめて難しい問題であることに変わりはない。「エンハンスメント」の動向は、人類を危機にさらす大きなリスクがあると考えておくべきだろう。


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*1:「エンハンスメント」は、一般的には「健康の維持や回復に必要とされる以上に、人間の形態や機能を改善することを目指した介入」と説明されている。