嗚呼 満蒙開拓団


羽田澄子『嗚呼 満蒙開拓団』(2008)に衝撃を受ける。旧日本政府による満州開拓団の積極的なプロパガンダは何だったのか。敗戦時の引き上げは、関東軍や満鉄関係者とその家族中心であり、開拓民家族は見棄てられた。「中国残留孤児」とは、日本の植民地政策の犠牲となった象徴であった。この映画については、羽田澄子氏の言葉を引用することが一番分かりやすいと思う。

これは昨年(2008)仕上げた映画ですが、この映画を作ることが出来て、私は大きな重い宿題をひとつ果したような気持です。/私は旧満州、大連生まれ。父は女学校の教師でした。父の転勤で一時に日本に帰りましたが、転勤で再び満州に戻り、旅順と大連で暮し、日本に引揚げてきたのは戦後3年経った1948年です。国際港のある大連は満州で最も繁栄していた都会で、日本人の支配する社会がつくられていました。敗戦によって状況は一変しましたが、それでも大連は他と比べれば平穏でした。当時、音信は途絶え、日本の様子も満州奥地の様子も解りませんでした。私は殆どの日本人が引揚げた第1次の引揚げでは帰国せず、1年後の第2次引揚げで帰国しましたが、引揚船に乗る桟橋を渡りながら、「これで本当にみんな日本に帰れるのだろうか」と思いました。しかしその後、日本での生活に追われ、満州の奥地で起きていたことも、引揚げの実態も知ることもなく何十年も過ぎてしまいました。/改めて関心を持つことになったのは、残留孤児の来日調査がはじまり、新聞に報道されるのを見るようになってからです。2002年に中国「残留孤児」国家賠償請求訴訟が始まってからは、裁判の成り行きに大きな関心をもつことになりました。その頃のことです。「星火方正」(せいかほうまさ)という不思議な冊子が届きました。「方正(ほうまさ)友好交流の会」の会報です。見て驚きました。中国東北部ハルピンに近い方正県に、亡くなった日本開拓村の難民のために中国人が建立してくれたお墓「方正地区日本人公墓」があるというのです。/関東軍に侵略され、開拓団に土地を奪われ、日本人に恨みをもって当然な中国の人が「何故日本人のお墓を」と思いました。/ソ連満州侵攻、日本敗戦のとき、関東軍兵站基地のあった方正地区には奥地の開拓村から多くの避難民が集まって来たのでした。しかし極寒のこの地で越冬できず、数千人の人が亡くなっているのです。戦後、年月を経て、散乱した遺骨の山を見た残留婦人・松田ちゑさんの「この遺骨をお墓に」という願いが実現したのは、「日本人民も開拓民も日本軍国主義の被害者だ。」とした周恩来総理の判断でした。「方正地区日本人公墓」へのツアーのあることを知って、私は早速参加。映画の製作を決心したのでした。「お国のため」と送り込まれた満州移民は敗戦後、遺棄されたも同然になったのです。体験者の多くは既になくなっていますが、多くの方にインタビューしました。映画が日本の近現代史を考え、日中関係の大切さを考える役に立てればと願います。