沖で待つ


『文学界』2005年9月号掲載の、絲山秋子沖で待つ」を図書館にて読む。女性総合職として働いていた体験から書かれたもので、この種の「会社もの」小説は数少ない。絲山秋子さんの場合、一作ごとに作風というか題材を変えている。大学卒業後、自筆プロフィールによれば「メーカーに入社、営業として福岡、名古屋、高崎、大宮に赴任」とあり、福岡に赴任したときの体験を、同期入社の牧原太、「太っちゃん」との恋愛でもなく友情ともいえない微妙な雰囲気の関係を、いわば日常的な「ことば」で過不足なく、記録=記述している。


沖で待つ」は、実に短い作品であり、芥川賞受賞作でなければ、おそらく見逃しそうな作品。もっとも、絲山秋子さんの小説自体、力が入ったというより、力を抜いた作風で一貫している。といってもいま流行りの「脱力系」ではない。描くべきことがはっきりしていて、その文体は軽快であり、一見さりげない文体だが、あえて従来の文学的観念から一線を画しているところが新鮮な印象を受ける。


「イッツ・オンリー・トーク」(第129回芥川賞候補)、「海の仙人」(第130回芥川賞候補)「勤労感謝の日」(第131回芥川賞候補)、『逃亡くそたわけ』(第133回直木賞候補)と4回候補になり、今回が5回目であり、本人は、今回の受賞と「小説」を書くことについて次のように記している。

芥川賞は受賞してもしなくとも、今回で最後にすると決めていた。直木賞を含めて五回目ということでいい区切りだと思っていた。次回もし候補になると連絡があったら その時点で辞退しようと思っていた。理由は、他の賞と比べて特別にプレッシャーが大きいこともあるけれど、それ以上に選考前後の予定を食われてしまうからである。普段の仕事に支障をきたすのである。
・・・(中略)・・・
今回賞をいただいた「沖で待つ」という小説は、会社のこと、友情とは少しだけ違う同期社員の気持ちを書いたもので、当たり前のことを当たり前に書くことには苦心したけれど、結果としてできあがったものが特別にすごいという気がしていなかった。そもそも、半年も前に書いた小説なので、書いていたときの気持ちはあまり覚えていない。私にとって大事なのは、今抱えている小説、これから書きたいテーマのことだけだ。
・・・(中略)・・・
小説を書くという仕事は、特別なものでもなんでもない。会社員や調理師や美容師や職人の仕事と基本的に変わらない。(共同通信ブロック紙、2006年1月21日掲載)


女性総合職として、メーカーに5年間勤務し、「躁鬱病(内因性)発症、4ヶ月休職、半年復職(途中転勤)、5ヶ月入院、2年休職。入院中に小説を書き始める。 」(自筆プロフィール)という経歴を持つ。絲山秋子さんの経歴に関心を惹かれ作品を読むと、そこには独特の雰囲気があり、しかも描写が的確で自然なのだ。


沖で待つ」で気になるのは、次のような箇所だ。

福岡に慣れてくると、だんだん学生時代の友達とは話が会わなくなって来ました。電話で話を聞いていても、東京しか知らないくせに、とか、現場を知らないくせに、とかそんなことに自分がこだわってしまうのです。学生のときに一緒に感じていたものって、なんだったんだろう。考えてもあまり思い出せなくなりました。世界が狭いようですが心置きなく話せるのは、やっぱり会社の人でした。(p.51『文学界』2005年9月)


この感覚は、会社という組織に所属した人が味わう共通のものだろうが、一方で、男性の場合は、利害関係がない、大学の同窓生というのは、会えば学生時代に戻ることができることで別の感覚を持つのが一般だと思う。このあたり、人によって異なるであろうけれど、男女間の差異と一般化しえないところか。


いずれにせよ、絲山秋子さんの作品には、私を刺激するものがある。芥川賞は素直に「おめでとう」と祝いたいし、マスコミや文壇に左右されず、自分のペースで作品を書き続けることを期待している数少ない女性作家だ。常に次回作が楽しみというのは、今の時代、貴重なこと。


現時点では、『袋小路の男』がベスト。

袋小路の男

袋小路の男

ユニークさでは、『逃亡くそたわけ』

逃亡くそたわけ

逃亡くそたわけ

会社もので、これらの作品を超える小説を待っている。