真夜中の弥次さん喜多さん


「てやんでぃ!」
お馴染み弥次喜多道中記を、現代の視点から「自分探し」と「リアル」を求めて、江戸からお伊勢参りを目指す。時代劇であって時代劇ではない。原作まんが(しりあがり寿)の翻案ものであって、そうでもない。喜劇であるが、悲劇でもある。過激な両義性。過剰な映像とせりふ。すべてが既存の枠をはみ出すような範囲をはるかに先まで逸脱している。これぞ、脱=映画。


合本 真夜中の弥次さん喜多さん

合本 真夜中の弥次さん喜多さん


宮藤官九郎脚本・初監督作品『真夜中の弥次さん喜多さん』は、予想どおり面白かった。


冒頭、弥次さんが川辺で釣りをしていると、戸板が流れてくる。裏返ると喜多さんが死体となって・・・「夢」だった。モノクロで始まるのは、女が米を研ぐシーン。これは伏線になっていて、あとで分かる。弥次さん喜多さんが、ホモ恋人同士という設定は、数ある弥次喜多道中記でも異色の部類になる。


画面がカラーに変わり、二人が江戸を出発するシーンは、群集とともにミュージカル、歌って踊って威勢良く、さあ、出発だ。待ち受けているのが「笑いの宿」「喜びの宿」「歌の宿」「王の宿」そして「魂の宿」、果たして二人は伊勢へたどりつくことができるのか?


江戸時代、伊勢まいりといえば、「おかげ参り」があったことで有名。全国の人々は一斉に伊勢神宮へお参りに行く。「伊勢まいり」という口実のもと、江戸時代の庶民は、どうやら旅を楽しんでいたようだ。


長瀬智也の弥次郎兵衛は、「てやんでぃ!」と威勢がよく、いなせな江戸っ子。歌舞伎界のプリンス中村七之助は、線が細く、ヤクに溺れる依存する男。この二人が絶妙のコンビになっている。


ナンセンス・ギャグの連発と意表をつく設定。愉快で楽しいモダン時代劇、軽快なテンポで話はどんどん進む。多くのユニークな出演者たちが、思いもよらない役で出演している。清水次郎長古田新太)と喜び組の女子高生たち。円卓の騎士アーサー王中村勘九郎)は、DNAを断ち切るというエクスカリバーを、岩から引き抜くことを誘い、とろろ汁をふるまう。とろろで体が痒くなった喜多さんは、誤って弥次さんを・・・おっとそこまで。


「魂の宿」では、三途の川で研ナオコが待っている。あの世とこの世の分かれ目。森の中のバーテンARATAは、死んでいるのだが、生き残った妻の思いが強いので、リアルに存在する。そのバーで喜多さんは弥次さんを強く想いピンク色のカクテルを飲む。


弥次さん喜多さんは、「お伊勢まいり」の旅を通して、生と死を分かつ「魂の宿」に至り、果たしてリアルを体験できたのだろうか。バイクや、都会の歩行者天国を歩く旅姿の弥次さん喜多さん。富士山は自然の美しさをあらわしているかと思えば、書割になって突然破れる。ひげの花魁等など。数え上げればキリがないシュールな光景とせりふ。クドカンワールド満開の映画だ。



真夜中の弥次さん喜多さん』は、ロードムービーだって?とんでもない。伊勢神宮の「リアルは当地にあり」というメッセージにひかれる弥次・喜多の「魂探し」を、道中記スタイルとして借りているだけ。


あらゆる「いわゆる常識」を突き抜けた場所に、クドカンの世界は展開される。けれども、その心象風景は、意外と古風なのだ。生と死のあわい。死と再生。恋の思いのすれ違い。


で、妻夫木聡は、どこに出ていたっかって?「てやんでぃ!」。それは映画を観てく確認してください。「なんでえ!こりゃなんでえ!」


『真夜中の弥次さん喜多さん』公式サイト

くど監日記 真夜中の弥次さん喜多さん

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