失踪日記


失踪日記

失踪日記


吾妻ひでお失踪日記』には、ぶっとんだ。人気漫画家の失踪、ホームレス、肉体労働の日々、そしてアルコール中毒、うーむ。ゲージュツ家は大変だ。全部が実話というから凄い。


日曜日の夜とか、連休の最終日には、誰もが翌日の仕事や出勤について重い気分になる。まさしく、今日(5月8日)のような日だ。「しごと」が趣味と一致する人は別。でも、漫画家というのは、いわば、趣味が高じて漫画家という職業を選んでいるはず。そう考えると、著名な漫画家にして、「失踪」したくなる気分はよく理解できる。


しかし、失踪後のホームレス生活の過酷さを読めば、とても体験できるものではない。理解するのと、家出だの失踪だのという行動に出ることには、超えがたい大きな深淵がある。その溝を超えるためには、余程、気合が入っていないと無理だ。野宿する著者が、屋根があることのありがたさをしみじみと書く。漫画として、一定の距離を置いて、他者のように書けているから、優れものなのだ。現在進行形では、とても「書く」ことなどできないだろう。とりわけ、アル中で自我が崩壊してゆくときの、「幻想」や「妄想」のリアルさには、背筋が寒くなる。


考えてみればすぐ解ることだが、「私小説」とは自分のことを「ありのままに書く」わけだが、すべてが事実どおりではない。そこには、当然自己に都合の悪いところは排除され、一旦、虚構として対象化して書く。自分が書く対象だから、いくらか粉飾しても読者には分からない。


画家や漫画家は、「絵」という文体を持つ。小説も文体というものがあり、作者によって異なる。「ことば」が他者のものであることは自明のことだから、自己表現は文脈や文体にしかない。とすれば、「私小説」か否かは関係ない。作者固有の文体を持つかどうかで、内容まで規定されることになる。


漫画は、「絵」があることで、著者の強い刻印を帯びる。吾妻ひでおの作風は、一種のロリコン風のものだが、『不条理日記*1など一部ガロ系の側面が強い。


失踪日記』でもっもと怖いのは、徐々にアル中になって行くところと、更正施設である精神病院内の描写である。ここは、実際に体験しなければ、絶対に描けないシーンである。自分の症状のみならず、入院している他者の捉え方が、さすが芸術家だけのことはある、実にさまざまな人達を克明に観察している。


体験すべてが作品になるとは限らない。できれば、読者にマイナスのイメージになることは誰も書きたくないはずだ。にもかかわらず、その過激なまでの体験を客体化できる才能の凄さは、十分評価に値する。


「入院後半のエピソード」を早く読みたいと、読者は期待してしまうものだ。読者とは残酷な存在である。しかし、読者がいなければ、作品は成立しない。商品として流通して、はじめて読者を得るという逆説がある。皮肉なことだ。


失踪日記』からは、つげ義春の作品群を想起してしまうが、一見同様のように見えながら、その世界は180度、つまり逆立ちするほど異なる。決して、つげ義春を否定するものではなく、むしろ、つげ義春的世界を、吾妻ひでおのように戯画化して描くという方法があることが提示されている。蛇足だが、つげ義春も私の好きな作家の一人である。


吾妻ひでお童話集 (ちくま文庫)

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ねじ式 (小学館文庫)

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つげ義春全集 (8)

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