袋小路の男


袋小路の男

袋小路の男


このところ気になる名前の作家がいる。絲山秋子さん。
『袋小路の男』(講談社)を読了。短編三作が収められているが、表題作と一対になっている『小田切孝の言い分』と併せると、本の帯のコピー「指一本触れないまま、『あなた』を想い続けた12年間」の表裏が見える仕掛けになっている。


ただ、小説作品としてみれば、『袋小路の男』を独立させておくことが、いわば男女の愛の形の極限として際だっていることは確かだ。一方通行的な恋愛とは、女性が一人の男性を徹底的に愛すること、しかも、精神的な想いのみを貫くことでより一層純化される。男と会うときの緊張感や、自身のせつなさを静かに話す語り口。男は小説を書いているが、いつ成功するとも思えない状態。女は、転勤もあるキャリアウーマン。女は愛人とのセックスはするけれど、肝心の男に対しては、「指一本触れない。」

問題は結婚なんかじゃない、この中途半端な関係をどうするかということだった。片思いが蛇の生殺しのように続いていくのがとても苦しかった。
(p41)


この状態を、男の視点を含めて書いているのが『小田切孝の言い分』だが、二人の関係の裏面の生々しさが綴られる。男女の愛のかたちはいかようにもあり得る。裏面とはいえ、本質的に二人の関係が変わるわけではない。中途半端なまま続くことが余韻として残される。ぶっきらぼうに交わされる言葉は、それぞれの思いが込められていても、言葉は言葉として宙吊りにされている。二人とも孤独だ。


この二編に較べると、『アーリオ オーリオ』は、四十近い独身男性と、兄の娘、15歳の姪とのふわふわした関係を描いている。生々しくないのが絲山秋子さんのスタイルであり、ここでも、それぞれの男と女の「孤独感」が浮かび上がってくる。携帯メールではなく、古風な手紙の交換が、この先ほとんど変化しないだろう中年男と、日々変容し成長する少女を対照的に捉えている。


絲山秋子さんの作品の持つ「孤独感」は、女と男のおかれている現在の状況を写す鏡になっているように思える。時代の最先端を走るわけでもなく、淡々と平凡な男女が生きている光景を紡いでおり、その孤独感の捉え方が秀逸である。凡庸な孤独にもそれぞれの深みがあることを。


なお、『袋小路の男』は、第30回川端康成賞を受賞している。
第29回が、堀江敏幸の『スタン・ドット』(『雪沼とその周辺』所収)であった。


雪沼とその周辺

雪沼とその周辺