映画狂人最後に笑う


映画狂人 最後に笑う

映画狂人 最後に笑う



蓮實重彦氏の『映画狂人最後に笑う』(河出書房新社)で、ついに「映画狂人シリーズ」全10巻が完結(?)した。


『映画狂人最後に笑う』の収穫は、最後に収められた「廃業宣言以後」であろう。総長就任後は、「大学行政と映画館通いは両立しがたい」として、「映画評論家」を廃業していたのだが、総長という職柄、世界を又にかけて、映画祭にかかわっていたことが、告白されている。まあ、そうは言っても、この人のことだから、ほとんどが、一種自慢話に落ち着く。


日本映画、それも、ロカルノにおける成瀬巳喜男加藤泰のレトロスペクティヴや、ロッテルダム映画祭では、森一生川島雄三鈴木清順のカタログ作成など、映画マフィア的に世界を飛び回っていたことが記されている。

映画のために費やした時間とエネルギーに関しては、国内外を問わず、同時代の誰にも負けないという自信といいましょうか、そんなものが批評家としての私を支えていました。
(『映画狂人最後に笑う』p235)

実際、環境としての映画に日夜浸っていない者がたまたま映画について書いたってそれはいささかも映画評論ではない。
(『映画狂人万事快調』p320)


確かに、映画を同時代的に浴びるように観ていないことには、批評など書けない。年に数回しか観ない人に、まともな映画批評が書けるとも思えない。それは、本も同じだ。本を浴びるように読むことで、書物に対する価値判断が自分なりにできるわけで、読まない、観ない人間の批評など信用できないのは当然のことだ。


映画狂人シリーズは、2000年の『映画狂人日記』から、落穂拾いのように、単行本未収録の文章を集めて、一冊づつ本の形にして行くという編集者の意図によって成立した書物たちだ。本のカヴァーがすべて、映画のスチールから取られているという趣向もよろしい。


映画狂人日記

映画狂人日記


ちなみに、映画狂人シリーズの表紙カヴァーの映画を並べてみよう。


『映画狂人日記』・・・バスティヤル・フドイナザーロフ『コシュ・バ・コシュー恋はロープウェイに乗って』
『映画狂人、神出鬼没』・・・黒沢清『カリスマ』

映画狂人、神出鬼没

映画狂人、神出鬼没

『帰ってきた映画狂人』・・・セミョ−ン・D・アラノヴィッチ『アイランズ/島々』

帰ってきた映画狂人

帰ってきた映画狂人

『映画狂人,語る。』・・・J=L・ゴダール『映画史』

映画狂人、語る。

映画狂人、語る。

『映画狂人、小津の余白に』・・・小津安二郎東京物語

映画狂人、小津の余白に

映画狂人、小津の余白に

『映画狂人シネマ事典』・・・ラオール・ウォルシュ『遠い喇叭』

映画狂人シネマ事典

映画狂人シネマ事典

『映画狂人シネマの煽動装置』・・・ロバート・オルドリッチカリフォルニア・ドールズ

映画狂人 シネマの煽動装置

映画狂人 シネマの煽動装置

『映画狂人のあの人に会いたい』・・・万田邦敏UNLOVED

映画狂人のあの人に会いたい

映画狂人のあの人に会いたい

『映画狂人万事快調』*1・・・アンソニー・マン『最前線』
『映画狂人最後に笑う』・・・エルンスト・ルビッチ『生活の設計』


いずれも、映画狂人ならではの選択だ。また、書物の随所に映画のスチールや、ワン・シーンの写真が挿入されている。映画への熱い思いが伝わる書物だ。とりわけ、『映画狂人シネマ事典』には、エッソ石油発行の非売品『映画小事典』と、蓮實氏自身による自筆年譜が収録されていて、資料的にも貴重な本になっている。なにより、蓮實節が健在であることを証明する10冊でもある。


ところで、世に蓮實エピゴーネンなるものがあまた存在するらしい。文章を読めばすぐに解ることだが、文体を模倣しても映画批評にはならないし、また、文芸批評にもならないのは自明のこと。蓮實的言説は、蓮實重彦ひとりで十分だ。自分の眼で映画を観ること、蓮實的呪縛から解放されないことには、新たな批評は生まれない。