充たされざる者

2017年ノーベル文学賞受賞者、カズオ・イシグロ。彼の作品は、映画化された『日の名残り』と『私を離さないで』二本を観ただけであった。ノーベル文学賞受賞という栄誉に輝いている作家は読みたくない。しばらくの猶予を置いて、『日の名残り』から読み始める。休暇を取った老執事の旅を通しての回想録。読み進めるとその世界に引きずり込まれる。淡々と語られる語り口は、厳格なイギリス執事そのもの。しかしながらその語り手は信頼できるのか?



続いて映画化された『わたしを離さないで』は、ディストピア小説だ。「残酷なビルドゥングスロマン」(豊崎由美)という批判もある。読ませる内容は、全貌が視えないままに終える。


最初の長編『遠い山なみの光』は、戦後の長崎と主人公が渡英した後のイギリスが舞台。語り手のエツコは、長崎時代の回顧と、イギリスの現在を交錯させながら、自殺した長女ケイコ、大学から帰省した次女ニキとの会話から、長崎時代の隣人、サチコとマリコの母娘を回想する。最初の結婚相手の父オガタの儒教的価値観が、戦争協力者として教え子から糾弾される。


第二作『浮世の画家』は、戦前戦争協力画を描いたオノが語り手。戦後にオノが置かれた状況。節子、紀子など小津安二郎作品に頻用される名前。

日本の小説を翻訳したかのような初期の二作品。

三作目が『日の名残り』で、本作でブッカー賞受賞。名声を得る。



名声を得たイシグロは、『充たされざる者』で著名ピアニストであるライダーが語り手となる。賛否両論のある本作。町の住民たちが親しげにライダーに話かける。彼らすべてに対応し行くことに、読者は苛立ちを感じるだろう。実際、途中で読むのを止めようかと何度も思った。しかし、木曜の夕べに開催される演奏会に向けライダーは、準備できなまま、迷路にさまよう姿は、カフカの『城』を想起させる。
宿泊するホテルの老ポーター・グスタフ、娘のゾフィー、孫のボリスがあたかも、ライダーの家族、すなわち妻、子どもに対するようにふるまう。現代音楽を演奏しようとするステファン、ミス・コリンズとの関係を修復するために指揮者として復帰を試みるブロツキーは、ライダーの青年期、老年期の暗喩とも読み取れる。



わたしたちが孤児だったころ』は、上海で育ったクリストファー・バンクスが、父母の失踪により、英国に戻る。父母を探索するために探偵になる。前半部をリアリズム、後半をバンクスの感情に沿った夢幻的な世界を描き出した。ビルドゥングスドラマと探偵小説のずれとも読める。



短篇集『夜想曲集: 音楽と夕暮れをめぐる五つの物語』は、いずれも音楽好きを自認するカズオ・イシグロの作品らしく、音楽に関する嗜好の蘊蓄がそれとなく散りばめられる。と同時に老年期の夫婦関係の在り方が模索される。文章も魅力的だし、絶品揃い。

以上が、「ノーベル文学賞」の対象作品である。受賞前に『忘れられた巨人』が刊行されたが、これはノーベル賞対象外らしい。


忘れられた巨人』は、アーサー王以後のブリテン島を舞台に、アクセルとベアトリス老夫婦の冒険の旅物語としてはじまる。ブリトン人とサクソン人の闘争と虐殺の歴史は、雌竜によって記憶を忘却させられた状態。老夫婦は息子を探す旅に出る。途中で、サクソン人戦士ウィスタン、青年エドウィンに出会う。アーサー王は魔術師マーリンに命じて雌竜クリエグの息を国全体を覆う霧とし、人々の記憶を奪ったのだった。アーサー王の甥ガウェイン卿は、雌竜をそのままの状態に保つべく、戦士ウィスタンと闘う。記憶を巡る、あるいは記憶の回復を巡る神話的物語だ。語り手も、老夫婦から、ガウェインや船頭が語り手となる。
ファンタジー小説という趣向をどう受け止めるか、民族対立の寓意でもある『忘れられた巨人』では、アクセルが姫と呼ぶベアトリスの老夫婦が交わす会話の温かさに心なごむが、一方、以前の作品とは異なる文明批評が加わる。

さて、カズオ・イシグロのベスト作品は、通常ブッカー賞受賞作『日の名残り』か、臓器提供者として生まれた少年少女を描いたディストピア小説『わたしを離さないで』が挙げられる。しかし、私は、充たされざる者を現在のベストとしたい。読み手をてこずらせる前半と、カフカ的様相を呈する後半の融合と不条理感が突出する。予測不能な展開に魅せられる。

カズオ・イシグロについて、「信頼できない語り手」という表現が用いられる。とりわけ『日の名残り』の老執事は、つかえた貴族がナチスに協力していたにも係わらず、尊敬の念を失っていない。貴族を賛美する言葉が綴られている。もちろん、イシグロ氏に限らず、どの作家にとっても「私」が語る作品は、捏造あるいは欺瞞に満ちている可能性がある。語り手の信頼性という点では、たしかにカズオ・イシグロ作品に顕著であることは確かだろう。

まあしかし、読ませる作品を書いているということでは、ベストセラー作家であると言えよう。

カズオ・イシグロは読み始めると止められない。

映画化作品

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犬ヶ島

ウェス・アンダーソン監督、パペットアニメーション犬ヶ島』(Isle of Dogs,2018)には、映画作りの巧さが随処に見られ、感動アニメの部類に入る。ベルリン銀熊賞受賞作品。



コンピュータグラフィックのアニメが多い中で、手作り人形によるコマ撮り映画は、貴重な挑戦でもある。一コマづつ撮影のため、制作に4年を費やしている。本編には、情報量が多く単純なストーリに複雑なメッセージやオマージュが混入されている。まず、黒澤明の50〜60年代の映画による日本をイメージした舞台設定。今から20年後の未来を描くというスタイル。

メガ崎市では、小林市長が独裁制権力を有し、「ドッグ病」という奇病のためイヌを隔離する。その犬ヶ島へ、少年アタリが愛犬「スポッツ」を探しにやってくる。5匹のイヌが少年に協力することになる。
一方、「ドッグ病」の治療薬を開発していた渡辺教授が軟禁される。
メガ崎高等学校の交換留学生トレイシー・ウォーカーの小林市長排斥運動を起こし、治療薬ワクチンを所有するオノ・ヨーコからワクチンを受取り、犬ヶ島のアタリ少年やイヌ達を応援する。

何よりアニメーションの原型とも形容される懐かしさと、黒澤明的正義が貫徹していることだろう。

ウェス・アンダーソンは、『ザ・ロイヤル・テンネンバウムズ』(2001)、『ライフ・アクアティック』(2004)、『ダージリン急行』(2007)、『ファンタスティックMr.FOX』(2009)、『ムーンライズ・キングダム』(2012)、『グランド・ブダペスト・ホテル』(2014)と、傑作、佳作を作り続けている。



『ザ・ロイヤル・テンネンバウムズ』は、ジーン・ハックマンを家長とする家族の物語。

ライフ・アクアティック』は、ビル・マーレイの海洋冒険家チームによる水中撮影。

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ダージリン急行』、舞台はインド北西部を走るダージリン急行オーウェンウイルソンエイドリアン・ブロディジェイソン・シュワルツマンの三兄弟によるファンタジー的快作。3人乗りバイクシーンがユーモアを誘う。


ファンタスティックMr.FOX』は、ロアルド・ダール原作を、ストップモーションアニメ。

ムーンライズ・キングダム』は、群像恋愛コメディ。少年・少女の逃避行物語。

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グランド・ブダペスト・ホテル』は、3つの過去と現在が入れ子状態になっているスタイリシュな映像。レイフ・ファインズを伝説のコンシェルジェとし、多彩な人物が交錯する、ウェス・アンダーソンの最高傑作。


ウェス・アンダーソン作品には、「アンダーソン・ファミリー」とも言うべきキャスティングが配されている。

オーウェンウイルソンエイドリアン・ブロディエドワード・ノートンボブ・バラバンビル・マーレイジェフ・ゴールドブラムフランシス・マクドーマンド、 F・マーリー・エイブラハム、ティルダ・スウィントンアンジェリカ・ヒューストンハーヴェイ・カイテル、カーラ・ヘイワードなど。

今回の『犬ヶ島』には、「アンダーソン・ファミリー」がほぼ総出演しており、他にもスカーレット・ヨハンソンオノ・ヨーコグレタ・ガーウィグ渡辺謙夏木マリなど豪華俳優が協力している。ちなみに、常連のオーウェンウイルソンは制作に回っている。


参考のために、『犬ヶ島』公式HPより,「ストーリー」を以下に引用する。

今から20年後の日本。メガ崎市ではドッグ病が蔓延し、人間への感染を恐れた小林市長が、すべての犬を“犬ヶ島
に追放すると宣言する。数か月後、犬ヶ島では、怒りと悲しみと空腹を抱えた犬たちがさまよっていた。その中に、
ひときわ大きな5匹のグループがいる。かつては快適な家の中で飼われていたレックス、22本のドッグフードのCMに
出演したキング、高校野球で最強チームのマスコットだったボス、健康管理に気を使ってくれる飼い主の愛犬だった
デュークだ。そんな元ペットの4匹に、強く生きろと喝を入れるのが、ノラ犬だったチーフだ。ある時、一人の少年が小型飛行機で島に降り立つ。彼の名はアタリ、護衛犬だったスポッツを捜しに来た小林市長の養子だ。事故で両親を亡くしてひとりぼっちになり、遠縁の小林市長に引き取られた12歳のアタリにとって、スポッツだけが心を許せる親友だった。スポッツは鍵のかかったオリから出られずに死んでしまったと思われたが、それは“犬”違いだった。何としてもスポッツを救い出すと決意するアタリに感動したレックスは、伝説の予言犬ジュピターとオラクルを訪ねて、教えを請おうと提案する。一方、メガ崎市では、小林政権を批判し、ドッグ病の治療薬を研究していた渡辺教授が軟禁される。メガ崎高校新聞部のヒロシ編集員と留学生のウォーカーは、背後に潜む陰謀をかぎつけ調査を始める。アタリと5匹は、予言犬の「旅を続けよ」という言葉に従うが、思わぬアクシデントから、アタリとチーフが仲間からはぐれてしまう。少しずつ心を通い合わせ始める一人と一匹に、さらなる冒険が待っていた─。


ウェス・アンダーソンは、雑誌『ユリイカ』で特集されるのは、2014年6月に次いで、『犬ヶ島』が2度目となることを付言しておきたい。


■追加(2018-06−24)
 黒澤明へのオマージュというのは、小林市長が『天国と地獄』の三船敏郎役をイメージしてること、犬たちが揃って並ぶシーンには、『七人の侍』のテーマ音楽を使用していることなどから。
また、アンダーソン監督は、「今作を手掛ける上で、宮崎駿監督作品の静寂と自然の描写に影響を受けた」と告白してる。必見!『犬ヶ島


ウェス・アンダーソン作品関係

ゴーゴリ作品

後藤明生作品からゴーゴリに関心が移る。著名な作品は一度は読んでいるが、『ゴーゴリ全集04戯曲』で「検察官」や「結婚」「芝居のはね」などを、岩波文庫講談社文芸文庫、光文社新訳古典文庫で「外套」「鼻」「ネフスキー大通り」「狂人日記」「肖像画」などを読む。


外套・鼻 (講談社文芸文庫)

外套・鼻 (講談社文芸文庫)


ドストエフスキーは「私たちはみんなゴーゴリの『外套』の中から出てきた」と『作家の日記』に書いている。


狂人日記 他二篇 (岩波文庫 赤 605-1)

狂人日記 他二篇 (岩波文庫 赤 605-1)


『外套』『鼻』『狂人日記』『肖像画』などの中篇、『検察官』『結婚』などの戯曲、岩波文庫で『死せる魂』の長編小説を読み、改めてゴーゴリの偉大さを認識した。



復刊された『イワン・イワノヴィッチとイワン・ニキーフォロウィッチとが喧嘩した話』は、全集版02に収録された『ミールゴロド』の中の一編である。田舎貴族のイワンとイワン、隣同士が裁判にまで発展する諍い。笑いを誘うような文章の運びに、いかにも「外套」「鼻」の作家であることを知らされる。岩波復刊本で読んだが、昭和3年刊行以後、改訳などを経ていないので読みにくいが、ゴーゴリ的世界の味わいは変わらない。アカーキイ・アカーキエウィッチやイワン・イワノヴィッチなど名前が、奇妙な符合を感じさせ、命名が絶妙と言えるだろう。


ゴーゴリについて語ることは難しい。通説を反復することか、あるいは新しい読みなど出来ない。とすれば何故いまゴーゴリなのか。19世紀初めのロシアを、リアリズムというより、デフォルメした形で表現していることか。


鼻/外套/査察官 (光文社古典新訳文庫)

鼻/外套/査察官 (光文社古典新訳文庫)


アカーキイ・アカーキエウィッチが外套を新調し、その外套が盗難に会うことでの経緯を、ユーモア溢れる文体で読者を巻き込む手法は、秀逸であるし、『検察官』に間違えられたフレスタコーフは、その「権力」を駆使して、有力者たちから金を巻き上げる。喜劇であると同時に、悲劇でもあり得る。


死せる魂 上 (岩波文庫 赤 605-4)

死せる魂 上 (岩波文庫 赤 605-4)

死せる魂 中 (岩波文庫 赤 605-5)

死せる魂 中 (岩波文庫 赤 605-5)

死せる魂 下 (岩波文庫 赤 605-6)

死せる魂 下 (岩波文庫 赤 605-6)


『死せる魂』のチチコフは、死亡した農奴の名簿を購入することで、蓄財できるとの法律の裏側で稼ぐために、田舎貴族達のもとを廻ることになる。名簿をもとにした詐欺は、いわば近代的な犯罪の始めであろう。滑稽な登場人物たちは、19世紀初期ロシアの農村に居たであろう人物を描写している。


ニコライ・ゴーゴリ (平凡社ライブラリー)

ニコライ・ゴーゴリ (平凡社ライブラリー)


ウラジーミル ナボコフによる評伝『ニコライ・ゴーゴリ』 (平凡社ライブラリー,1996)では、『検察官』および『死せる魂第一部』『外套』を対象にとりあげている。実際、『死せる魂』第二部は、ゴーゴリの手によって焼却されたが、辛うじて残された原稿が活字化されたもので、作品対象から除外すべきという意図には賛同する。第一部だけで十分に、ロシアの田舎風景が視えてくる。


ナボコフは、『検察官』を「ロシア語で書かれたもっとも偉大な戯曲である」と評価し、『外套』については、翻訳の問題や幽霊に言及し、「最も貴重な情報の一片、この物語の骨組みをなす主要観念が、ここでゴーゴリによって慎重に仮面をかぶせられている(なぜならあらゆる現実は仮面であるから)」と記述する。『死せる魂』における翻訳の問題とは、ロシア語から英語に移すことの困難さを自らの翻訳を示すことで、poshlostなる言葉を象徴的にとりあている。


ナボコフは、『ニコライ・ゴーゴリ』の中で、『検察官』『死せる魂』『外套』のあらすじについて触れていない。編集者は、梗概が必要であることを申し出たことに対して、巻末に「年譜」を付し対応している。


検察官―五幕の喜劇 (ロシア名作ライブラリー)

検察官―五幕の喜劇 (ロシア名作ライブラリー)


ゴーゴリ作品を読んで来たが、『検察官』が抜群に面白い。権力への追従や、金品を渡しておもねること、へつらいなど、近代貨幣社会の権力構造を視るための格好の題材を提供している。どこかで視た光景。この戯曲が現時点での<私的ベスト>になる。


モラン神父


ジャン=ピエール・メルヴィル監督特集上映で、7本の映画を観た。短篇『ある道化師の24時間』のみ未見であった。二人の道化師の24時間を追うドキュメンタリー。年老いた道化師の生活ぶりには、哀愁がただようものだが、一種のユーモアを織り込み凝縮された短篇。


モラン神父 《IVC 25th ベストバリューコレクション》 [DVD]

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『海の沈黙』は、ナチ占領下ドイツ将校が、田舎の一軒家に居住することになる。その家には、叔父(ジャン=マリ・バロン)と姪(ニコル・ステファーヌ)の二人だが、ドイツ将校(ハワード・ヴェルノン)に対して一言のことばも発せず対応する。将校が家を出るとき、姪ははじめて「さよなら」のひとことを言う。語りがそれぞれの立場から一方通行に終始するという映画として希有な作品である。



『賭博師ボブ』は、夜の世界で賭博に明け暮れるボブ(ロジェ・デュシェーヌ)がカジノの金庫を狙う仲間を誘うが、肝心の賭場でボブは思いつきで始めた賭けごとがツキについて、金庫にある金額に匹敵する儲けを出してしまい、すっかり、金庫破りを忘却してしまう。このあたりのアイロニカルな進め方は、いかにもメルヴィル・タッチ。



影の軍隊』は、凱旋門前にナチ占領軍が行進するシーンから始まる。レジスタンスのリノ・ヴァンチェラの逃亡シーンが2回あるが、特にシモーヌ・シニョレによる手引きによって、死刑寸前に助かるシーンが圧巻であった。セリフが極端に少なく、淡々とレジスタンスの行為が描かれて行く、きわめて禁欲的な、ある意味恐るべきフィルムである。この作品をメルヴィルのベストに推す人が多い。



『仁義』は、フィルムノワールもの、アラン・ドロン主演という商業主義的要素が加味され、娯楽映画として公開されたが、今みるときわめてスタイリッシュなフィルムとなっている。説明を排除し、科白を少なくし、淡々と行動のみ捉えた、フィルムノワールの傑作。冒頭から夜行列車で犯人(ジャン・マリア・ボロンテ)を移送する刑事(ブールヴィル)二人の駆け引きがある。一方で刑務所から出所するアラン・ドロン。元刑事で射撃の名手イヴ・モンタンの存在が際立っている。


仁義 [Blu-ray]

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『モラン神父』は、カソリック神父(ジャン=ポール・ベルモンド)と未亡人(エマニュエル・リヴァ)の愛と宗教の葛藤を描き、荘厳とも言える見事なロマンスに仕上がっている。今回の特集で7本を観た内、『影の軍隊』と同じ時代、ナチス占領下のフランスという舞台が同じ。代表作2本が、レジスタンスにかかわるお話。



『いぬ』は、何度みても良く判らない。その判らなさが、ジャン=ポール・ベルモンドがイヌであるかのような行動により視る者は誤解する。ラストで、ベルモンドを救うために郊外の別邸にセルジュ・レニアニが車で雨のなか疾走し、給油しているベルモンドを追いぬくあたりで、結末が判ってくる。判りにくさが、メルヴィル版フィルムノワールの第一作となる。



以後、『ギャング』『影の軍隊』『サムライ』『仁義』『リスボン特急』と、メルヴィルタッチのノワールが続くことになる。
『ギャング』は今もDVD化されていない。早急にDVD発売を期待したい。

今回見た7本を踏まえて、私的ベストは『モラン神父』となり、『影の軍隊』『サムライ』『仁義』と未見の『ギャング』を含めてベスト5となる。


ジャン=ピエール・メルヴィルとは映画史上、突出した監督であることを確認できた特集上映であった。


■フィルモグラフィ14本

  • 1946『ある道化師の二十四時間』 24 heures de la vie d'un clown
  • 1947『海の沈黙』 Le Silence de la mer
  • 1949『恐るべき子供たち』 Les Enfants terribles
  • 1953『この手紙を読むときは』Quand tu liras cette lettre
  • 1955『賭博師ボブ』 Bob le Flambeur
  • 1958『マンハッタンの二人の男』 Deux hommes dans Manhattan
  • 1961『モラン神父』 Leon Morin, pretre
  • 1962『いぬ』 Le Doulos
  • 1962『フェルショー家の長男』 L'Aine des Ferchaux
  • 1966『ギャング』 Le Deuxieme Souffle
  • 1967『サムライ』 Le Samourai
  • 1969『影の軍隊』 L'Armee des ombres
  • 1970『仁義』 Le Cercle rouge
  • 1972『リスボン特急』 Un flic

恐るべき子供たち《IVC BEST SELECTION》 [DVD]

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壁の中


後藤明生著『壁の中』(つかだま書房,2017.12)が、新装普及版として2017年末に刊行された。2018年最初の購入本。読むことができなかったポストモダンの傑作を、楽しみながら読む。国書刊行会の『後藤明生コレクション』にも、収録されていなかった幻の小説である。


壁の中【新装普及版】

壁の中【新装普及版】


雑誌連載の大長編という意味で、小島信夫の『別れる理由』に比肩する。1月中旬から読み始めたが、600頁余りの大長編を一気に読むことは困難を伴った。2月下旬にやっと読み終えた。後藤明生は、『挟み撃ち』に衝撃を受けた。他に『吉野太夫』も読んでいる。未刊小説『この人を見よ』(幻戯書房,2012)は未読。


挾み撃ち (講談社文芸文庫)

挾み撃ち (講談社文芸文庫)


後藤明生は、内向の世代。日本近代文学の戦後史を確認すれば、第一次戦後派(野間宏梅崎春生椎名麟三武田泰淳埴谷雄高など)、第二次戦後派(大岡昇平三島由紀夫安部公房島尾敏雄堀田善衛井上光晴長谷川四郎など)、第三の新人吉行淳之介安岡章太郎阿川弘之庄野潤三遠藤周作小島信夫など)、続いて内向の世代古井由吉後藤明生日野啓三黒井千次、小川国夫、坂上弘高井有一阿部昭、柏原兵三など)ということになる。これら戦後派作家以降で現在も執筆が続いているのは、古井由吉黒井千次の二人だろう。


吉野大夫 (中公文庫)

吉野大夫 (中公文庫)


小生の読書経験から、第一次戦後派では、埴谷雄高武田泰淳、第二次戦後派は、大岡昇平堀田善衛安部公房島尾敏雄を、内向の世代は、小川国夫、古井由吉後藤明生を読んできた。もちろん全作品を読むことはできないが、気になる作品は、読んでいる。急いで付け加えておけば、三島由紀夫梅崎春生椎名麟三吉行淳之介安岡章太郎庄野潤三も少しづつ読んで来た。


この人を見よ

この人を見よ


内向の世代以降は、作家をグループで分けることはなくなった。作家個人一人ひとりが独立している。中上健次村上春樹村上龍島田雅彦高橋源一郎佐藤正午等々。周知のとおり、村上春樹島田雅彦高橋源一郎の三人は芥川賞を受賞していない。


閑話休題後藤明生の『壁の中』に戻ろう。

第一部は、Mへの書簡形式をとっている。

大学の非常勤講師らしき人物の語りで話が進められるが、ゴーリキやドストエフスキイなどの作品への言及だの引用が頻出し、ある程度ロシア文学の造詣が求められる。

9/9(地下室)、9/15(主人公の自宅)、9/12(愛人のマンション)による場所表示をしながら、形式としては、Mへの手紙の形をとっている。書簡の中で語られて行く話は、アミダくじ式に移動し、ポリフォニィ表現というに相応しい。

聖書やギリシア神話に絡ませて、話が進む。とりわけ『聖書』がギリシア語で書かれたことにこだわる。

第一部は、小説という概念の枠内にとどまらず、逸脱に脱線を重ね、メタ小説になっており、読む行為が批評をも読むという重層的構造になっている。小説の解体!

第一部の最後に、永井荷風『墨東綺譚』が出てきて第二部に繋がる仕掛けになっている。

第二部冒頭の引用。

                                              • -

「われは明治の児なりけり。
 -------------(中略)-------------
江戸文化の名残煙となりぬ。
明治の文化また灰となりぬ。
今の世のわかき人々
我にな語りそ今の世と
また来む時代の芸術を。
くもりし眼鏡をふくとても
われ今何をか見得べき。
われは明治の児ならずや。
去りし明治の児ならずや。」(永井荷風「震災」)


濹東(ぼくとう)綺譚 (岩波文庫)

濹東(ぼくとう)綺譚 (岩波文庫)


第二部は、永井荷風との対談という形を取りながら、冒頭の引用される「震災」という詩を根底に、『墨東綺譚』の「作後贅言」に触れながら「断腸亭日乗」を適宜引用し、対話を進めて行く。会話は軽妙を極め、あたかも荷風が現前しているかのようなフィクションたり得ている。

ポストモダン小説と命名される『壁の中』は、第二部に至り、荷風との対話を装いながら、荷風の従兄弟に当たる高見順との関係を『日乗』の中からたぐり寄せ、交渉の有無を迫る。鮎川信夫磯田光一の「荷風論」などを引用しながら、対話が続く。


永井荷風 (講談社文芸文庫)

永井荷風 (講談社文芸文庫)


戦後の、伊藤整三島由紀夫武田泰淳の鼎談などの引用は、小説に批評を包摂している。ラスト近く、正宗白鳥荷風の対話を仕立てるなど、まさしくポリフォニィ的テクストとなっている。


自然主義文学盛衰史 (講談社文芸文庫)

自然主義文学盛衰史 (講談社文芸文庫)


中でも、浄閑寺の「新吉原総霊塔」に、詩碑と筆塚に関して執拗に迫るが、「ふっふっふ・・・」と荷風がかわしている。

終わりが唐突に訪れる。荷風が「キミはいったいナニモノかね?」の答えが秀逸。トイレにゴキブリが現れて終わる。


内向の世代」は古井由吉が筆頭だが、後藤明生は特別な存在だ。


後藤明生コレクション

みすず読書アンケート2018


みすず書房から毎年発行されている、『みすず』2018年1・2月号は、読書アンケート特集である。毎年楽しみにしているが、今年も早速、確認してみたい。「みすず読書アンケート」の読み方として、誰がどんな本を選出しているかと、自身が読んだ本が取り上げられているかどうかになるだろう。



國分功一郎『中動態の世界』(医学書院,2017)が五人の評者によって選出されている。突出して5名であり、他はいかに数多くの書物が刊行され、関心を抱く分野が異なると収穫図書が多様化することが証明されている。


バテレンの世紀

バテレンの世紀


小生が読み拙ブログで取り上げた図書は、渡辺京二バテレンの世紀』(新潮社,2017)が平尾隆弘氏により選出されていた。



アンケートで回答され選出されている本は、あまりにも膨大な書物なので、自分の関心ある領域で気になった本を見てみたい。
回答者別に見てみたい。


子規の音

子規の音


下士朗は、森まゆみ『子規の音』(新潮社,2017)と多和田葉子編『カフカ』(集英社文庫,2015)を選出・言及している。


負債論 貨幣と暴力の5000年

負債論 貨幣と暴力の5000年


宇野邦一は、グレーバー『負債論』(以文社,2017)、ロベルト・ボラーニョ『チリ夜想曲』(白水社,2017)をあげている。



鈴木一誌は、三中信宏『思考の体系学』(春秋社,2017)をあげており、これは小生も購入した。<分類がイデオロギーでもある事情を教えてくれる>と記している。


チリ夜想曲 (ボラーニョ・コレクション)

チリ夜想曲 (ボラーニョ・コレクション)


ロベルト・ボラーニョ『チリ夜想曲』(白水社,2017)は、岡田秀則氏も言及している。



ブレイディみかこ『子どもたちの階級闘争』(みすず書房,2017)(第16回新潮ドキュメント賞受賞)も見逃すもことのできないレポートだ。



それにしても、ブレイディみかこ『子どもたちの階級闘争』と『労働者階級の反乱』(光文社新書,2017)、『花の命はノー・フューチャー』(ちくま文庫,2017)の三冊が気になった。専門知が機能しなくなった時代、イギリスの保育現場からの実践的リポートが説得力を持つということだろうか。


文学問題(F+f)+

文学問題(F+f)+


読書アンケートに選出されていない、気になる本がある。山本貴光『文学問題(F+f)+』(幻虚書房,2017)である。*1

漱石『文学論』を本格的に読み解き、更に、先に進もうとする試みであり、文学理論上見逃すことができない書籍である。


文学論〈上〉 (岩波文庫)

文学論〈上〉 (岩波文庫)

文学論〈下〉 (岩波文庫)

文学論〈下〉 (岩波文庫)

*1:三中信宏氏は、

<※山本貴光さんの『文学問題(F+f)+』は評者の誰かが挙げていたと思ったけど……>

と言及されていますが、漠然と「誰かが」ではなく、『みすず』該当頁を指摘して戴きたいものです。

右であれ左であれ、思想はネットでは伝わらない。

坪内祐三『右であれ左であれ、思想はネットでは伝わらない。』(幻戯書房 (2017.12)は、著者にとって三冊目の評論集と言う。『ストリートワイズ』(晶文社,1997)、『後ろ向きで前へ進む』(晶文社,2002)に続く三冊目ということだが、小生にとって『慶應三年生まれ七人の旋毛曲がり』(マガジンハウス,2001)や『「別れる理由」が気になって』(講談社,2005)も評論に入ると思う。また、坪内祐三単独編集の『明治の文学』全25巻も、一種の評論と理解できる。


後ろ向きで前へ進む

後ろ向きで前へ進む


本書の内容に言及してみたい。第一章「戦後論壇の巨人たち」には、福田恆存から丸山眞男まで24名の知識人が取り上げられている。
著者がいうように、

この国には知識人がもう殆んど残っていない。/しかも、まったく補填されていない。/その情況を考えると恐ろしくなってしまう。かつての左翼と右翼という対立に変わって今、サヨとウヨという言葉がある。サヨであれウヨであれ、そんなことはもはやどうでもよい。事態はもっと深刻なことになっているのだ。(p13)

全く、同感である。いま知識人がいないことを深刻な事態だと捉えなければなるまい。

以下は、雑誌と編集者がいた時代を検証している。

第二章「文藝春秋をつくった人々」菊池寛佐佐木茂索池島信平に触れている。

第三章「滝田樗陰のいた時代」木佐木勝、滝田樗陰

第四章「ラディカル・マイノリティの系譜」エリア・カザンスーザン・ソンタグ鶴見俊輔との対話

第五章「「戦後」の終わり」

  • 文春的なものと朝日的なもの
  • 「戦後八十年」はないだろう
  • 歴史の物差しのひとつとして


巻末の「関連年表」が面白い。1986年〜2017年に亘り、主に雑誌の創刊や廃刊、本書で取り上げている人物の没年など該当する年度に記載されている。

坪内氏は、戦後80年はないだろうと記している。

あとがきに、

本や雑誌に載せる文章には文脈が必要です。いや、文脈こそが命であると言っても過言ではないでしょう。そういう媒体(雑誌)が次々と消えて行く。これは言葉の危機です。(p389)


ツイッターの言葉には文脈がないという。知識人の消滅、雑誌の廃刊。まさしく、<言葉の危機>的情況である。

インターネットは、著名人以外の一般人が自由に発信できる時代となった。誰もが自由に情報を発信できる時代とは、情報の価値を見分ける仕組みが必要であるが、もはや情報の真偽を見分けることは至難の技となった。

坪内氏が、本書で取り上げている知識人や編集者には信頼できる<文脈>があった。ところが、現状は物故者となった知識人を補填する人物が現われていない。それが良いのか、悪いのか、すくなくとも今私たちは、そのような情況の中に生きている。


知識人というメルクマールがない時代になっている。論壇の巨人は昭和から平成に変わる移行期に物故している。論壇自体の崩壊、文壇などはるか昔になくなっている。戦後70年とは、戦後の終わりだったのだろうか。


ちなみに、21世紀に入り他界された知識人は、本書の巻末年表から引用し若干補足すると、以下のとおり。

2003年
エドワード・サイード没(9月25日)、エリア・カザン没(9月28日)
2004年
林健太郎没(8月10日)、スーザン・ソンタグ没(10月28日)
2006年
小島信夫没(10月28日)
2007年
小田実没(7月30日)
2008年
アレクサンドル・ソルジェニーチェン没(8月3日)
加藤周一没(12月5日)
2010年
井上ひさし没(4月9日)、梅棹忠夫没(7月3日)
2011年
谷沢永一没(3月8日)
2012年
吉本隆明没(3月16日)、吉田秀和没(5月22日)、丸谷才一没(10月13日)
2013年
山口昌男没(3月10日)
2014年
大西巨人没(3月12日)
2015年
鶴見俊輔没(7月20日)、阿川弘之没(8月3日)、原節子没(9月5日)、野坂昭如没(12月9日)
2019年
西部邁没(1月21日)


以上、知識人たちの没年を示すと、もはや戦後知識人や巨人と呼ばれた人達は、昭和の終わりから平成始め、1990年代までに多くの巨人が他界されている。21世紀初頭に、小島信夫加藤周一井上ひさし吉田秀和吉本隆明山口昌男鶴見俊輔が他界された。残る知の巨人巨人は?


私たちは、参照すべき巨人がいない時代に生きている。参照すべきは古典しかない、ということだろうか。


坪内祐三代表作

古くさいぞ私は

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「別れる理由」が気になって

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