魔の王が見る


高山宏は、「博物学の想像力」(『魔の王が見る』)で、バルトルシャイティスの魅力を次のように記している。


魔の王が見る―バロック的想像力

魔の王が見る―バロック的想像力

あるものから別のものを連想する人々の能力自体の歴史にバルトルシャイティスが興味をもっていること、それは『アベラシオン』を見るだけでもわかっていただけよう。そういう主題に見合うかのように、バルトルシャイティスの方法もまた怖ろしく「連想」的であるわけだ。・・・その翔び方を跡づけるための証拠文献がこれまた古今東西、およそ境界や区分を知らなぬ体におびただしく引用される。柳田國男、いやむしろ南方熊楠にも似、ロジェ・カイヨワやロミにも澁澤龍彦にも似ている。・・・要するに博物学の世界だ。/その博物学のスタイルをついには駆逐してしまった近代というものを考え直さざるをえなくなるのが、バルトルシャイティスの仕事だろう。(『魔の王が見る』p.60-61)

活字優先の「近代」が敵視してきた本の中の図版が強烈な威力を発揮して、読者の視線をも「連想」の沃野へ解き放とうとしているかのようだ。図版とは製本技術化された「想像力」の謂(いい)なのである。(『魔の王が見る』p.63)


バルトルシャイティス著作集を読む楽しみは、何よりも図版・図像の多さにある。


「近代」を18世紀に遡及し広くみていくとき、近代の構造が浮上する。中世的世界の否定が必ずしも近代につながるという単純な図式ではない。それが、西欧の近代社会が成立し成熟した1920年代のアバンギャルド運動に、別の次元から1950年代に更に広い視野から近代を相対化するものとして中世の世界観が近代を超える普遍性をもつことを、様々な資料や図像から証明されはじめた。1950年代のユルギス・バルトルシャイティスはその一人なのである。

「個体の輪郭化、範疇の明確化が近代の正体である」(高山宏)。

学問の近代化は想像力の貧困化の歴史でもあった。範疇化は学問の世界でも急進行し、文系・理系の「二つの文化」(C.P.スノウ)は互いに超えられない壁を築いてしまい、同じ系統内部の学問間でも細分化の徹底のため、全体的な現象について大きくとらえることのできる人が皆無となった。(『魔の王が見る』p.61)


このような近代そのものを検証するために博引傍証したのが、バルトルシャイティスにほかならない。漠然と感じていた「近代の不安」を解消するためにもバルトルシャイティスは読まれるべきだろう。