特定秘密保護法案


現在国会で審議中の「特定秘密保護法案」について、まず内田樹氏のブログ「石破氏の発言について」より引用する。

彼(石破茂)の党が今採択しようとしている法案には「特定有害行為」の項で「テロリズム」をこう規定しているからだ。「テロリズム(政治上その他の主義主張に基づき、国家若しくは他人にこれを強要し、又は社会に不安若しくは恐怖を与える目的で人を殺傷し、又は重要な施設その他の物を破壊するための活動をいう)」(第12条) 森担当相は国会答弁でこの条文の解釈について、最初の「又は」は「かつ」という意味であり、「政治上」から「殺傷し」までを一つ続きで読むという珍妙な答弁を行った。しかし、この条文の日本語は、誰が読んでも、「強要」と「殺傷」と「破壊」という三つの行為が「テロリズム」に認定されているという以外に解釈のしようがない。そして、現に幹事長自身、担当相の解釈を退けて、「政治上の主義主張に基づき、国家もしくは他人にこれを強要」しようとしている国会周辺デモは「テロ行為とその本質においてあまり変わらない」と断言しているのである。幹事長の解釈に従えば、すべての反政府的な言論活動や街頭行動は「政治上その他の主義主張に基づき、国家若しくは他人にこれを強要」しようとするものである以上、「テロリズム」と「その本質においてあまり変わらないもの」とされる。「テロリズム」は処罰されるが、「テロリズムとその本質においてあまり変わらないもの」は「テロリズム」ではないので原理的に処罰の対象にならないと信じるほどナイーブな人は今の日本には(読売新聞の論説委員以外には)たぶんいないはずである。このブログでの幹事長発言は公人が不特定多数の読者を想定して発信したものである以上、安倍政権が考える「テロリズム」の定義をこれまでになく明瞭にしたものと私は「評価」したい。石破幹事長によれば、私が今書いているこのような文章も、政府要人のある発言についての解釈を「政治上の主義主張に基づき他人にこれを強要」しようとして書かれているので「テロリズム」であるいう解釈に開かれているということになる。私自身はこれらの言葉は「強要」ではなく「説得」のつもりでいるが、「強要」か「説得」かを判断するのは私ではなく、「国家若しくは他人」である。特定秘密保護法案では、秘密の漏洩と開示について議論が集中しているが、このように法案文言に滑り込まされた「普通名詞」の定義のうちにこそこの法案の本質が露呈している。


特定秘密保護法案に反対する学者の会」では、賛同者数 3090名(12月6日0時現在)いる。また、芸術関係、映画関係者、ジャーナリスト、宗教団体等々、これほど多数の法案反対声明が出る法案は、戦後政治史上なかった。


安倍自民党は、第一次内閣時に、「教育基本法」の改正はじめ、多くの法案を多数で強引に採決してきた。その手法への国民の反発が、参議院選敗退による「ねじれ国会」の始まりであった。


今回は、アベノミクスの経済優先を掲げて、衆参両議員選挙に勝利し、国民は多くの議席を与えた。しかし、「特定秘密保護法」は選挙公約にはなかったものだ。暴走安倍自民党を制御できるとすれば公明党しかない。


創価学会 (新潮新書)

創価学会 (新潮新書)


そこで、島田裕巳創価学会』(新潮新書、2004)に基づき、創価学会公明党の位置を確認しておきたい。


都市下層民が創価学会の主体であり、公明党の選挙活動が一体感を醸成するのは、選挙では都市部に強い公明党の存在意義が理解できる。会員の相互扶助的な絆が強い組織である。


かつては「折伏」という方法によって会員数を増加させてたが、現状は親の世代から受け継いだ子供つまり、二世の世代になってるという。島田氏は、「公明党」の選挙運動について次のように記している。

創価学会の選挙に関しては、「血の小便を流す」という言い方がある。これは、投票日前の一週間、特に選挙運動に熱を入れることをさしている。血の小便を流すか流さないかで、票はかなり変わってくるという。/おもしろいのは、選挙活動が一種のイベントとしての性格を持っている点である。(p189)


創価学会員が「血の小便」を流すことで成立する「公明党」は、政治の世界に入り込み、ここ10年間以上自民党と与党を構成して、主として福祉厚生関係での学会員への還元を果たしてきた。


さてしかし、本来、地方から都会へ出てきた下層階級による中間団体であるならば、自民党の理念とは相容れないのではないだろうか、という疑問が生じる。


特に、選挙で学会員が自民党を支援する構図は、理解に苦しむところである。公明党は政権与党を目指すべきではない。むしろ、健全な野党として都市中間層や都市下層民の要望に応えるべき立場ではないのか。


創価学会が都市下層民の「絆」を中心としたものであるならば、大政党ではなく、少数政党として健全野党にとどまることこそ公明党にふさわしい。この10年間以上は自民党に寄り沿う政策であったが、宗教団体を背景とする政党の存在そのものを根底的に問わねばなるまい。


公明党」は、所詮「創価学会」の利益代表にほかならないことは自明であろう。仮に政党として存続するのであれば、保守党である「自民党」から距離をおくべきである。


島田氏の『創価学会』を読みながら、以上のようなことを個人的に考えたのだった。


学会員個々人は、自民党が提案している「特定秘密保護法」に賛成なのだろうか。宗教団体を背景とする公明党なら、今こそ安倍自民党と距離を置くべき時だろう。実際、他の宗教団体は、この法案に反対を表明している。


公明党批判をしているのではなく、創価学会的良識から言えば、安倍自民党のような暴挙を制御する健全な政党の立場にいなければならないと言っているのだ。


いまや、国民主体の日本ではなく、国家が国民の前に暗く立ち塞がってきている。自公の今後の行方は、国民が正しく、正義の鉄槌を下すであろうことを、知るべきだろう。


公明党にしか、現状の安倍自民党への牽制が期待ができないとすれば、現行憲法下における危機を回避するためには、公明党の立ち位置を見守るしかない。結果次第では、国民から見放されないために政権から離脱すべきだろう。「特定秘密保護法」の次は、「憲法改正」の大きな問題を控えている。公明党は、この点で、自民党とは一銭を劃していたのではないのか。


宗教団体がファシズム下にあって、どのように弾圧されたか、賢明な創価学会員なら承知のはずだ。公明党が、政党設立の根底に立ち返ることを期待したい。