バートルビーと仲間たち


それは朝のラジオ番組、「森本毅郎スタンバイ!日本全国8時です」3月25日、火曜日のゲスト・荒川洋治氏による本の紹介によって始まった。ハーマン・メルヴィルに『バートルビー』という作品を知る。書記バートルビーの導きにより、書かないあるいは書けなくなった作家について書いている作品、エンリーケ・ビラ=マタスバートルビーと仲間たち』(新潮社、2008.2)の紹介からであった。


バートルビーと仲間たち

バートルビーと仲間たち


3月26日『朝日新聞』の加藤典洋文芸時評」の最後の日の末尾に、『バートルビーと仲間たち』をとりあげ、さりげなく「素晴らしい。自分は何者でもないと信じる、心ある世の少数の人々は、好きだろう」と結んでいる。同感である。


白鯨 上 (岩波文庫)

白鯨 上 (岩波文庫)


まずハーマン・メルヴィル、あの『白鯨』の著者だ。そのメルヴィルの作品『バートルビー』を読むことから始める。岩波文庫版『幽霊船ほか一篇』(1979)に、ほか一篇として収録されているのが『バートルビー』であり、短編のことだから一気に読む。


書記として雇用されたバートルビーは、書写をやめ「ぼく、そうしない方がいいのですが」と、どのような問いに対しても同じ答えを反復する。やがてバートルビーは全てを拒否し続けた果て浮浪者となり牢獄にて死す。


ライ麦畑でつかまえて (白水Uブックス)

ライ麦畑でつかまえて (白水Uブックス)

キャッチャー・イン・ザ・ライ

キャッチャー・イン・ザ・ライ


一世を風靡し世評を高めた作家が、その後沈黙を守るあるいは書けなくなる。『ライ麦畑でつかまえて』=『キャッチャー・イン・ザ・ライ』のサリンジャー。日本では『赤頭巾ちゃん気をつけて』の連作のあと、ひたすら沈黙している庄司薫がいる。


赤頭巾ちゃん気をつけて (中公文庫)

赤頭巾ちゃん気をつけて (中公文庫)



バートルビーとその仲間たち』の著者は、「バートルビー症候群」と名づけているメルヴィルバートルビー』の書記の症候を、ランボーサリンジャーにみる。多くスペイン文学者の例をあげているが、書かない作家の書かない理由、あるいは書けない理由とはを86篇の短文により示す。


トリエステ生まれのボブ・バズレンは、あらゆる言語で書かれたすべての本を読んでいた。

今は本を書くような時代ではないと思う。だから、わたしはこれ以上本を書かないことにした。たいていの本は、ペ−ジの下に書くメモ程度のことを何冊もの本に膨らましているにすぎない。だから、わたしはページの下にメモを書くだけにとどめた。(p.28−29『バートルビーと仲間たち』)


ノートに書かれたメモは『テキストのないメモ』として、彼の死後5年経過後、出版されたという。


ホーフマンスタール『チャンドス卿の手紙』のなかにつぎのような言葉がある。

それは目立たぬかたちをして、だれの眼をひきこともなく横たえられ、あるいは立てかけられてあり、なにひとつ語ることなく存在しているのですが、しかもそのように存在していることによって、あの謎めいた、言葉にならない無限の恍惚感をよびおこしうるなにかです。(p.118『チャンドス卿の手紙』)


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文学活動を放擲することの自己弁明の書と前書きされたホーフマンスタールは、このとき「バートルビー症候群」にあったといえるだろう。


著者ビラ=マタスが、ニューヨークのバスの中で、サリンジャーに会ったくだりは、いかにも沈黙の老作家を想起させる好短編となっている。


ムージル以後評価に値する作品はないと友人が語ると述べながら、実は著者エンリーケ・ビラ=マタスの文学に対する姿勢が伺える。


ロベルト・ムージル

ロベルト・ムージル


書くことへの根底的疑問。書くに値するなにほどのものがあるのか。ボブ・バズレンの言葉の前には、無言たらざるを得ない。「ページの下にメモを書く」こと。まさしく、私自身が「バートルビー症候群」にほかならないからだ。