悲しみは空の彼方に


ダグラス・サーク悲しみは空の彼方に』(1958)をついに観ることができた。事実上の最後の作品。ドイツからアメリカに亡命したデトレフ・ジーレクは、ハリウッドのメロドラマ監督として多くのフィルムを提供した。ハリウッドの最後の作品となった『悲しみは空の彼方に』は、原題「immitation of Life」文字どおり『模倣の人生』のリメイクである。


ダグラス・サーク コレクション 2 (初回限定生産) [DVD]

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ダグラス・サークの映画はスクリーンの表面で展開されるドラマの内側に、もうひとつの隠された本当のテーマがある。女優として成功するラナ・ターナーの黒人家政婦ファニタ・ムーア。彼女の盛大な葬儀の模様が黒人音楽で奏でられ、葬列が進もうとする時、娘のスーザン・コーナーが母親の棺にすがり咽び泣く。ラナ・ターナーは、家政婦の死に「そんな」と叫ぶが、自分の側にいた家政婦を全く理解していなかった。一方家政婦の娘は自分の色が白いことで白人と偽って生きてきた。母親ファニタ・ムーアに対して憎悪を貫いてきたが、母の死に目に会えず葬列で嗚咽する。ラナ・ターナーとスーザン・コーナーは「模倣の人生」を生きてきた。


ラナ・ターナーは家政婦のみならず、恋人ジョン・ギャビンの心の中が視えなかった。しかも娘が母の恋人に恋愛感情を抱いていることをも理解できなかった。舞台女優として成功し、イタリアの有名監督からオファーがくると、恋人や家族を放り出し、女優への成功の道を歩む。自分で「虚しい」と何度も口にしながらも、スター人生を模倣していることに気づかない。現代からみれば、キャリア志向の女性とみることも可能だが、周囲の大切な人の心が読めないことは致命的欠陥である。


悲しみは空の彼方に』の真の主人公は、家政婦ファニタ・ムーアの娘スーザン・コーナーなのであり、母親が黒人であることにコンプレックスを抱いている。父親が白人であったがため色が白く、自分は白人であることを唯一の生き甲斐として、常に黒人の母親を憎悪している。現在では「Black is beauty」といわれ価値感が転倒しているが、1950年代はまだまだ白人優位の時代だった。母を疎外し自らを白人として生きようとするためアイデンティティを喪失してしまった。彼女も白人の人生を模倣し錯覚していたことが最後の悲劇に繋がる。


このようにダグラス・サークの作品は、表層と深層、換言すれば映像が二重化されている。観客は表層のみみると単なる「メロドラマ」としか見えない。背後に畏怖すべきドラマが隠されているのだ。