図書館は本をどう選ぶか


安井一徳『図書館は本をどう選ぶか』(勁草書房,2006.9)は、安井氏の卒業論文を基にした本であることにまず驚いた。著者は、現在国立国会図書館勤務。


図書館は本をどう選ぶか (図書館の現場 5)

図書館は本をどう選ぶか (図書館の現場 5)


公共図書館の選書論であるが、具体的な提案ではなく抽象的な論理に徹しているので、学説史的な整理を俯瞰するためには、よく整理されている。問題は、安井氏の選書論は、極言すれば「要求論」と「価値論」の対立の止揚を目指していることへの読み手の位置にある。


ここで先にお断りしておきたいのは、「選書ツアー論争」には全く関心がないので「要求論」「価値論」から「選書問題」を中心に読む。

「あとがき」では、あらかじめ著者は予想される批判を取り上げて、それに答えている。

①実際に図書選択に役立つような内容がまったく書かれていない。まさに机上の空論の典型である−
②多くの公共図書館員が血の滲むような努力をして築き上げてきたこれまでの成果を否定するものであり、リクエスト、貸出、カウンター業務の意義を貶めるものだ−
③いまさらこんなことを言っても手遅れではないか−
④図書館の目的やニーズを考慮せざるをえないということはわかったが、では具体的にどのような目的やニ−ズを考えればいいのか−
⑤共感を否定しているようだが、共感なくして社会が成り立つのか。共感を疑いすべてを言語化するなど、むしろ非現実的ではないか−
⑥『図書館は本をどう選ぶか』は『本をどう選ぶか』を意識しているのか−(P.160-163)


以上のような批判は、著者は承知の上で抽象論を展開しているのだ。


選書の根底にある「ヒューマニズム」が言語化されていない、意識化されていないことに対して、著者は問題点を二つ指摘する。

一点目は、異なる立場との議論が成立しづらいということである。これは研究者と現場との乖離を想起すれば十分である。「研究者」側が問題化し批判していることが、「現場」では問題とすら認識されないのである。(p.119)

二点目は、自らの拠って立つ「ヒューマニズム」という基盤の内実が恣意的になりうることでる。・・・(中略)・・・「ヒューマニズム」を意識化するということは、自分たちの「共感」が限定的なものであることを自覚し、その枠外にある立場を認識するということである。(p.121-122)

問題は価値論か要求論か価値論かよりも、批判的分析に開かれているか閉じているかになる。(p.130)

価値に関わる問題において、常に正しいということはありえない。しかし安易な相対主義を取ることは、ニヒリズムにつながりかねない。結局残されている道は、何らかの価値を選択しつつも、その相対性を常に自覚しておくということである。自己相対化ができなければ、どんなに崇高な目的を掲げていても、いつかは独善に陥りかねない。(p.132)


安井氏は、「現場」と「研究」との結節点を模索しているのだ。しかし、選書とは何かとの問いに対する究極の答えは、「恣意性」にあるとしかいえないのではないか。選書に絶対的な基準などない。つねに、相対的に「価値」を捉えること、それでもなお「ヒューマニズム」という「恣意性」の陥穽は回避できない。


出版される全ての本を収集するのが国立国会図書館。それ以外では専門図書館は、資料の収集方針が明確であり、研究・教育のための大学図書館も学部構成などで、おのずから選書の基準がみえてくる。ところが、公共図書館における選書は、「価値」と「要求」の危ういバランスの上にしかない。それを認めることは何ら否定されることでもない。恣意的な「価値」にもとづき、また「恣意的」な「要求」を満たすところにしか選書は成立し得ないのだ。