私の幸福論


福田恆存『私の幸福論』の初版が刊行されたのは1956年であり、『幸福への手帖』と題して新潮社からであった。高木書房版で『私の幸福論』と改題され、若干の加筆訂正されたのが筑摩文庫版で、福田恆存の本としては、『私の國語教室』(文春文庫,2002)とともに翻訳本以外で入手できる貴重な2冊であり、版を重ねている。


私の幸福論 (ちくま文庫)

私の幸福論 (ちくま文庫)


ベルリンの壁崩壊後、社会主義体制が崩壊し、資本主義が勝利したようにみえる、そして、言論界は実際に右傾化してきた。かつて左翼全盛の時代、福田恆存が保守反動と言われながら孤立し、いわば物事の本質を捉えていた。だからこそ、昨今、保守化する言説が氾濫する状況のなかでは、多くの凡庸な保守思想家の書物より、福田恆存が圧倒的に優れていることは、「流行」現象から距離を置くとよく見えてくる。


堀江珠喜『おんなの浮気』は、『私の幸福論』の前で粉砕されるだろう。福田恆存は「教養」について次ぎのように書いている。

自分の位置を測定する能力、しかも、たえず流動変化する諸関係のなかで適切に行動する能力、そのみごとさが教養というものであります。(p.78)


いまだ「フェミニズム」などいう流行の学問が出てくる前に、福田氏は「職業について」の中で次のように述べている。

職業というものが、職能とか役割とかいう人間性を失って、ただ金銭を得る手段になってしまった辛さを、男も女も同様に背負っていることを、理解しあうべきではないか。さらに、その辛さは、むしろ男のほうこそ切実に感じているていることを、女性は知るべきではないか。(p.94)


女性だけが差別され「辛い」わけではない、職業が金銭を得る手段になった「辛さ」は男も同様である。「男はつらいよ」なのだ。

肝心の「性」については、

私が申したいのは、性的に自由であり放縦であろうとするのは、強固な伝統に反逆する英雄的行為ではけっしてなく、むしろ近代人の独立性を放棄して、水が低きにつくように、生理的な、あまりに生理的な、昔ながらの日本人の生きかたに身をまかせることでしかないということです。そのことの良し悪しは別として、すくなくとも、そういう態度、新しさとか、自由とか、近代性と、勇気とか、自己主張とか、その種の合言葉と結びつけないようにしなければなりません。(p.122)

私たちにのうちには、たしかに性の解放にたいする欲望があります。一夫一婦制はじつに不自由なものだ。夫以外の男、妻以外の女、そういうものにたいして、誰しも性的欲望を感じる。その点では、世の夫や妻は、結婚前の若い男女と比べものにならぬくらい貪婪です。(p.175)


と述べ、「精神と肉体」の問題として鋭い洞察が加えられている。

口ではどういおうと、また、意識のうえではどう処理しようと、私たちは精神と肉体とを簡単に割り切って行動することはできないのです。肉体の交渉なしに精神だけの交流を考えるプラトニックな態度が精神主義であると同時に、それにこだわって反抗し、肉体の交渉を遊戯化し、性を快楽の具とみなすならば、どうしても、その背後に、遊戯を操り、快楽を味わう自分というものを残しておかずにいられなくなり、そこにふたたび精神主義が登場してくるでしょう。そしてこの精神主義は、前のそれに比して、さらに手に負えぬ頑迷なものとなるでありましょう。(p.127)


まさに、私たちが陥っている精神と肉体が乖離した「快楽」という「幻想」を反復し、果てしない終わりのない道程の旅にあることを示唆している名文といえよう。新しい本が、必ずしも物事の本質を捉えているとは限らない。だからこそ古典を読むべきなのだ。私たち世代に欠落しているのは、「教養」なのである。


「家庭の幸福は諸悪の基」と喝破した作家*1がいたけれど、「家庭」についての福田恆存の見解は以下のとおり。

人が人を信頼できるというのは、一人の男が一人の女を、あるいは一人の女が一人の男を、そして親が子を、子が親を信頼できるからではないでしょうか。それをおいてさきに、国家だの社会だの階級だの人類だのという抽象的なものを信頼できるはずはありません。それゆえにこそ、家庭が人間の生きかたの、最小にしてもっとも純粋なる形態だといえるのです。信頼と愛とが、そこから発生し、そのなかで完成しうる、最小にしてもっとも純粋なる単位だといえるのであります。(p.198)


ここで注目して欲しいのは、「国家だの社会だの階級だの人類だのという抽象的なものを信頼できるはずはありません。」という福田恒存の言葉である。およそ保守反動とは異なる、きわめて本質的でかつラディカル(根底的)な発想である。

私たちの欲望を消すのに必要な対象と、その反対に私たちの欲望の障碍になる対象と、この二つのものが、つねに別々のものとは限らぬということです。いや欲望のもっとも深刻な段階においては、この二つのは往々にして同一物になるのであります。(p.214)


欲望は、その深刻な段階では、否定し障碍となるものと同一物になる、という福田恆存の言葉は深い意味を持つであろう。


私の国語教室 (文春文庫)

私の国語教室 (文春文庫)

*1:もちろん、あの太宰治『桜桃』。