クオリア降臨


クオリア降臨

クオリア降臨


茂木健一郎クオリア降臨』、タイトルが凄い。文芸評論家の批評が面白くないのは「文芸批評」というフレームの中で「文学」に言及しているからで、脳科学者・茂木健一郎による「文芸評論」でありまた脳科学エッセイでもある『クオリア降臨』は、「文学」と「科学」の本質に迫る試みとして、きわめて刺激的な評論になっており、重要な問いかけがある。


「あとがき」の茂木氏による以下の記述は、なぜ、本書を書いたかに触れていて興味深い。

私の問題意識は、どちらかと言えば自分自身の具体的な体験に根差していた。とりわけ、日本における近代批評を確立した小林秀雄の仕事に対して、どのような態度をとるのか、様々な立場からの考えを見聞したことが大きかった。小林は周知の通りに毀誉褒貶の多い人である。私自身は小林秀雄の仕事に一貫して流れていた美意識とフィロソフィーに心から共感するものである
・・・(中略)・・・
どうやら、印象批評とは、クオリアの問題のことのようである。文学の受容にとって本質的であるだけでなく、「人間とは何か」というテーゼを熟慮する際にも欠くことのできない論点が、文学作品を読んだ時の印象を信じるか、信じるとすればどのような意味で(方法論で)そうするかというところにある。(p.298)


クオリア」とは、「感覚に伴う質感」のことであり、

ある作品の価値は、それと向かい合った時に感じるクオリアによって決まる。(p.29)

と規定する。
茂木健一郎クオリア降臨』の中から、気になった箇所を引用する。

歴史上評価の定まっている大家の人となりや、その作品を愛することが自らの弱さを示すことがあるということまでは、なかなか気づきにくい。(p.188)


科学の「再現性」と「普遍性」を、信仰と捉える視座に注目すべし。

科学的方法論は、「再現性」と「普遍性」を標榜する。再現性とは、誰がやっても、同じ材料と方法を用いて実験すれば、同じ結果がでるという信仰である。普遍性とは、同じ法則が地球上のあらゆる所、宇宙の全ての場所で成り立つという信仰である。再現性と普遍性の二つの信仰に駆り立てられて、科学はこれまで進んできた。(p.245)


ベンヤミンの『複製技術時代の芸術作品』で用いられたアウラから、創造の秘密へ。

本来は私秘的であり、絶対的に不可能なものであるはずの「私」に中心化された体験が、言葉という複製技術の上で表現される。その時、本来複製可能なはずのアウラが、複製可能な、別のアウラに置き換えられる。この、綱渡りの変換作用において起こっていることが何なのか、その秘密を解き明かした人は未だいない。(p.184)


再度、「あとがき」から引用。

現代の脳科学の言葉で言えば、様々なクオリアが織なす印象を離れて、文学の本質を論じることは、肝心なところで、文学という表現形式を生み出してきた人間の精神の本質を見誤ることに通じるのではないか。私はそう信じている。(p.299)


数箇所から引用したが、近代科学がもたらしたものと、一回限りの人間の生が切り結ぶところが、いかに乖離しているか、脳科学の「印象」や「クオリア」から示唆している。茂木健一郎の思考は、小林秀雄の講演『信じることと考えること』の立場に近い。*1

形而上学への眼差しを保ちつつ、生活者でもあり続けること。そのような妥協が、実際的なだけでなく、人間の脳が生み出す様々なものたちの本質を原理的に考える上でも重要な意味を持つことを、私は最近になってやっと確信できた。(p.263)



クオリア降臨』を、手短かに紹介することは難しい。何故なら、個別の章が独立した論考になっていて、それぞれ「クオリア」に言及されているが、終章に向かって収斂する形式をとっていないからである。茂木氏の思想をより深く理解するためには、『脳と仮想』*2と併読することで氏の位相が視えてくる。言葉の表層や、記号、あるいはレトリック*3とはおよそ無縁の本質論的展開をしていることだけは確かだ。
畏るべし、「クオリア」と「仮想」。


脳と仮想

脳と仮想

*1:小林秀雄が講演の中で、柳田國男『故郷七十年』の「ある神秘な暗示」でヒヨドリがピ−と鳴いたので発狂を免れたこと、「幸いにして私はその後実際生活の苦労をしたので救われた。」という柳田の言葉を引用し、生活の苦労は誰でもすることだ、と小林自身の経験を語ったことを連想する。小林秀雄は、柳田國男の「感受性」が「民俗学」を作りあげたという。

*2:『脳と仮想』については、拙ブログ9月12日でとりあげた。10年に一冊という読後感=評価は、今も変わらない画期的な論考だ。

*3:小林秀雄の文章を「レトリック」の次元で捉えるのは間違いだ。印象(クオリア)を「文章化」したに過ぎない。小林秀雄は講演で、難しく書くことを意図していないと明言している。