世に出ないことば


世に出ないことば

世に出ないことば


荒川洋治『世に出ないことば』(みすず書房)は、読書エッセイ・シリーズの最新刊。荒川氏の書物に対する姿勢には、真剣な眼差しがあり、彼が薦める本や小説は、ただちに読みたくなる。不思議な魅力のある文体だ。実にシンプルで、歯切れがよく、短文で表現がやさしい。


本書でも、いくつかの示唆的な文章がある。ひとつは、地名に関するもの。郵便番号との関連で言及しているけれど、平成の大合併により、地名は消滅する、あるいは歴史的地名が、新奇な名前に変わることの危機感は、著者に同じく私も腹立たしい思いがしていた。


「ある程度の道しるべ」では「教養」について、語っている。

どんな世界のことについても
ある程度/知る/これが教養である。
・・・(中略)・・・
現代はどうか。教養につながる道は、教育の場でもせきとめられる趨勢。技術優位の時代に、知識も実用的なものに傾き、真の教養人は必要とされない。これでは「人間の形成」にも影響が出る。奇怪な事件の多発。人間性を保つためにも、教養は必要かもしれない(p.140)

人間性を保つためには、教養は必要なのだ。


「時間の本」にも良いことばがある。

ぼくも買ったときは、それほどのものとは思わなかった。ところが数十年たつと、いいぐあいになるのだ。紙もボールも、本のいろんなところが、たがいの顔を見ながら、年をとったのだろう。本の価値は出たときにはわからない。出たあとも、時間のなかで少しずつ、本はつくられていくのだ。(p.221)

何度も読む本、持つだけでも嬉しい本のことだ。


フラナリー・オコナー全短篇〈下〉

フラナリー・オコナー全短篇〈下〉


「水曜日の戦い」から、フラナリー・オコナーの『すべて上昇するものは一点に集まる』を読む。荒川氏は、オコナーの短編から

自分がどういう人間であるかという、そのことの判断は、他人をどうみるかということが軸になる。人に優しい自分、よわい人に情けをかける自分。だがそれくらいの「性格」や「人格」はあてにはならない。(p.49)

と、オコナーの人間を愛する非情な眼差しに触れる。


「山奥の希望」からは、ナサニエル・ホーソーンの短編『デーヴィッド・スワン』*1を、読む。「邯鄲の夢」の逆ヴァージョンだった。スワンが一時間寝ている間に、「人生最大の幸福」を逃すというお話。


「読むための全集」から、黒島伝治二銭銅貨*2を。黒島伝治など、荒川氏の言及がなければ、まず、手にとることはなかっただろう。


最後に「行間を読む」から

どんな文章もしっかり読んでいけば行間は存在しないのだ。しっかり読まないから、わからない。あたりは行間だらけになる。「作者の真意」などというが、「作者の真意」は、すべて目に見える文章のなかにあらわれる。行間を読ませるようなものは、文章とはいえないのだ。(p.223)

まつたく、その通りだ。書かれた文章が全てなのだ。きわめて、単純明快ではないか。様々な書物への導きの一冊として、荒川洋治の読書シリーズのエッセイ集は貴重な本だ。*3


忘れられる過去

忘れられる過去

*1:ISBN:4003230434

*2:ISBN:4003108019

*3:蛇足だが、荒川氏の映画に関するエッセイは、文学への相対的見方と異なり、自己の「仮想」から出ていない。