思想のケミストリー


思想のケミストリー

思想のケミストリー


大澤真幸は新刊『思想のケミストリー』で、日本近代史においては、文学者や文芸評論家が文学作品や哲学書を読むことで思想の担い手となつてきたが、最近は逆に、哲学者や社会学者が文学作品を読み解くというパターンになっている、という。*1

文芸批評が、やがて、守備範囲を拡張するような形で西洋哲学やその他のアカデミックな領域を呑み込んでいく。たとえば小林秀雄ベルグソンを論じ、吉本隆明マルクスヘーゲルに言及し、さらに柄谷行人デカルトやカント、マルクスを我が物にしてきた。(p.9)

文芸批評は、言ってみれば哲学の領域を植民地化しようとし、それに成功した限りにおいて、(西洋)哲学的な思考が日本の思想の中に統合されてきたのだ。これに対して、現在取られるべきは、逆の進出路である。すなわち、哲学に原点をおいて、文芸批評や文学へと進出するのである。(p.19)

実際、精神分析学者の斉藤環が『文学の徴候』*2を書き、内田樹が『映画の構造分析』や『街場の現代思想』『他者と死者』などを書くといったように、現代思想の担い手は、かつての文学者から、哲学者や社会学者に移行している。まさしくその典型として、社会学者の大澤真幸が文学評論にちかい『思想のケミストリー』を上梓した。


大澤氏が指摘するように、たしかに、かつての文学者や文芸評論家が、思想家たりえなくなっているのが、現実であろう。哲学者・社会学者として、現代思想をリードしているかのようにみえるのは、宮台真司東浩紀仲正昌樹などの若手・中堅学者の出版傾向を見れば解るだろう。現代思想家と呼ぶかどうかは、もちろん、別問題である。


さて、大澤真幸の本書の冒頭に「ポストモダニスト吉本隆明」が、置かれているのは象徴的である。大澤氏によれば、「関係の絶対性」とは、「現前する他者との関係を還元不可能な形式で保持することの内にしか、思想の妥当性はない。」(43頁)と解釈する。「対幻想において、人は他者の他者性を抹消するような形式で他者と関係するからで」、「真の他者、他者たる限りでの他者は、私と同化することを頑強に拒み、何者かとして同定することが不可能な何かとして現前」(44頁)するはずだ、という。


吉本隆明は『共同幻想論』から『アフリカ的段階について』*3に至り、「アフリカ性と吉本がイメージする王の徹底した受動性、究極の弱さこそ他者の他者性であろう」(45頁)。アフリカ的段階とは、きわめてポストモダン的な他者である、と大澤真幸は解釈するのだ。


三島由紀夫、転生の破綻」では、『豊穣の海』と『金閣寺』を対象に三島の輪廻転生論が、なぜ、『天人五衰』において、破綻するのかを論じている。


豊饒の海 第四巻 天人五衰 (てんにんごすい) (新潮文庫)

豊饒の海 第四巻 天人五衰 (てんにんごすい) (新潮文庫)

転生の破綻は、つまり「起源への遡行」の失敗は、結局、自己が自己自身に出会うことが究極的には失敗するということを表現するだろう。自己がその深奥において<他者>へと反転しているからである。
(p.183)


豊饒の海 第一巻 春の雪 (新潮文庫)

豊饒の海 第一巻 春の雪 (新潮文庫)


『豊穣の海』では、認識者としての本多は、『春の雪』*4の松枝清顕、『奔馬』の飯沼勲、『暁の寺』のジン・ジャンに共通していた転生の証拠である黒子の存在が、『天人五衰』の透においては存在しないばかりか、転生者でもない。さらには、『春の雪』の聡子に面会を求めると、「松枝さんという方は存じませんな」と完全に否定される。つまり、本多自身が、「起源への遡及」に失敗し、自分の過去に出会うことができなかった。自身の存在の否定、それこそが、三島由紀夫のたどりついた場所ではななかったか。


埴谷雄高の『死霊』論は、第七章「最後の審判」で矢場徹吾のかたるキリストを巡る食物連鎖から、三輪与志の「自同律の不快」の本質的な他者性に触れながら、「反転の可能性」の顕在化まで至らないことを指摘する。


死霊(3) (講談社文芸文庫)

死霊(3) (講談社文芸文庫)

<私>であることが、能動的な<私>であることが、<私>の能動性が、常に既に、その受動的な他者に規定されていたということ、そのことが発見されてしまうのである。受動的な対象でしかないと見えていた他者こそが、<私>の能動性を触発していたのだ。すであるとすれば、真に能動的であると見なすべきは、受動的な他者の方であり、<私>の方が受動的な対象であった、・・・(p.198)

<私>が<私>であろうとするとき、まさにその限りで、このトートロジカルな循環には回収できない他者性が、<私>であることの規定性に入りこんでしまう。こうした他者性ー<私>が何であるかということについてどのように積極的な述定からも逃れる異和性ーに対して埴谷雄高が与えた独特の名前が、「虚体」−「何ものかである」という述定の中で常に記述されうる実体に対するところの虚体ーである。
・・・(中略)・・・
繰り返せば、<私>であることを、・・・最も徹底したあり方が、未来の他者である。(p.202)


大澤真幸のキーワードは「他者」「反転」「審級」。一部を紹介したが、社会学者が、文学評論を出すことは、大澤氏のいうとおり、「哲学に原点をおいて、文芸批評や文学へと進出する」ことを実践しているということになる。



はてなダイアリー・ブログ開設一周年

2004年7月27日に開始された、拙ブログが丸一年を迎えた。当初は、毎日記録していたけれど、次第に間隔があき、今日が197日目の記録になる。

■週末からは、所用で一週間ほど不在になります。

*1:私の関心は恐らく著者の意図とは別のところにあるのだろうが・・・と断っておく。

*2:ISBN:4163664505

*3:ISBN:4393331699

*4:『春の雪』は独立した作品として古典的恋愛悲劇であり、妻夫木聡竹内結子主演で映画化される。