市井作家列伝


鈴木地蔵『市井作家列伝』(右文書院)読了。


市井作家列伝

市井作家列伝


16人の私小説作家をとりあげている。その中で中野鈴子*1、森山啓、古木鐡太郎、木下友爾の四人は、恥ずかしながら初めて聞く名前だった。マイナー・ポエット。取り上げている作家への敬愛に満ちた文章は、読む者に、一種清々しい印象を与える。私小説だから、当然、作家の生活のこと、家庭のこと、とりわけ恋愛関係に関しても、真相に迫る勢いがあり、作者を愛する著者は、決して批判的に「作品」をみないことに感銘を受ける。文体も、私小説を対象とするに相応しく鈴木氏を練達の人とみた。


例えば、木山捷平については「木山の文学は諦念の文学だと思っている」(8頁)と書き、近松秋江では、「自分の思い込みの結果とはいえ、女性につくしながら裏切られつづけた秋江ー私は、作品もさりながら彼の人となりに一層魅かれる。」(25頁)と記し、「私は、むしろ秋江をある種の求道者のごとくに理解する。」と断言している。


大陸の細道 (講談社文芸文庫)

大陸の細道 (講談社文芸文庫)


鈴木地蔵の「文学」についての考えは、次の言葉に象徴されるだろう。

私は、文学は”如何に生くべきか”が描かれていれば良しとする。人生とは何なのだ、人を愛するとは何なのだ、真実とは何なのだ、と素朴に真面目に問いかけてくれる文学を私は愛する。(p.45)


小山清を「地味な主題を決して身辺雑記にしなかったところに、小山文学の特徴がある」(58頁)と書き、「川崎長太郎には、失うものはない。一人の人間を描くのに、こしらえてはいけないのだ。」(72頁)と評価し、荷風と比較する次のことばは、いかにも著者らしい。

私は、屋敷に一人住まい、時代の流れに背を向けていわば韜晦の日々を過ごし、言葉の正しい意味での戯作家として生きようとした永井荷風も尊敬するものだ。しかし、生来生まれも心も貧しい故か、川崎長太郎の酷薄な作家生活により魅かれてしまうのである。(p.70−71)


抹香町・路傍 (講談社文芸文庫)

抹香町・路傍 (講談社文芸文庫)


古木鐡太郎の項では、「文学のもつ力は、しかし道学者の説く倫(みち)をこえたところに存在するようだ」(97頁)と言う。小沼丹の常套句の使用に言及して

小沼の小説の特徴は、彼の無頓着を装った用語に存在するのではあるまいか。事象は酷薄なまでに観照し、しかし、その表現には存外に常套な手段を採用する。(p.144−145)
飄逸とか洒脱などといった評言からは遠いところで、小沼は小説を構築している。(p.147)

小沼丹の手法を見抜いている。


徳田秋声については、「秋声は、どうも小説作法を持たぬというよりも、これを無視して、自らの関心事のみ描写したようである。」(162頁)と看做す。


耕治人に関する作家論がほとんどないことを、著者の指摘で驚いたり、安岡章太郎の『悪い仲間』は、古山高麗雄がモデルになっていて、著者は古山高麗雄になりかわっての古山版『悪い仲間』創作の試みがなされることに、唖然とさせられた。(もちろん、良い意味で)


葛西善蔵にいたっては、「およそ葛西は、自分の生き方を醜悪だなどとは認めていなかったのではないだろうか。」(204頁)と言い切る。また、和田芳恵について「作品のできばえが全てなのである。作家名は記号にすぎぬ。」(225頁)と確言している。


暗い流れ (講談社文芸文庫)

暗い流れ (講談社文芸文庫)


このように、鈴木地蔵『市井作家列伝』は私小説作家の核心に触れる内容であり、読み応え十分の「評伝」集である。古風な読み方といえるかもしれないけれど、「私小説作家」への接し方はこうでなければなるまい。年季の入った作品だ。評伝としても作家論としても、第一級の仕事であり、今年一番の収穫であった。

*1:中野重治の妹、『中野鈴子全詩集』がある。「中野鈴子の愛」は兄重治・佐多稲子窪川鶴次郎の関係に言及しているので、直接本書を読んでいただきたい。