別れる理由


小島信夫の『何という面白さ!『「別れる理由」が気になって』を読んで』(『群像』7月号)は、坪内祐三の『「別れる理由』が気になって』について、<小説>という表現で絶賛する。

「別れる理由」が気になって

「別れる理由」が気になって

ぼくは、『「別れる理由」が気になって』は、ぼくの好みに合った<小説>の見本だと思う。なぜ<小説>として面白いか。坪内さんは『別れる理由』に色々なものを重ねている。そのために、毎月の発表誌『群像』を早稲田大学の図書館へ読みに行く。毎月何ヶ月分かを、その時に応じて考えて読む。同じ頃雑誌に掲っている座談会の記事を見てショックを受けたりして重ねる。世の中の動き、文学、思想の動きを重ねる。・・・(中略)・・・『別れる理由』という厄介な小説が<気になって>というタイトルでもって、その通り、<気になりながら>辿られてきたことが、一つの世界を創る。もとの小説はもちろんあるにはあるが、それを適当にアンバイして、ぼくたちの前に出現したのは<小説>である。(p.204)


『別れる理由』の作者・小島信夫は、その作品を解読した坪内祐三の『「別れる理由」が気になって』が<小説>になっている、というのだ。確かに、「小島信夫の場合は、小説も評論も同じ文章」(高橋源一郎)と評価されるだけのことはある。小島信夫の読みに従えば、坪内作品は<小説>の見本になる。


『「別れる理由」が気になって』を、『別れる理由』と同じスタイルで書いたことは、一種のオマージュであると思うが、それ以上に、『群像』への連載と、坪内氏自身による「現実という外部と小説(評論)としての内部が接続している」という森敦のことばが、そのまま、小島信夫坪内祐三として表出されたのが、『「別れる理由」が気になって』なのだ。


小島信夫による<小説>という定義には、「文学」の概念が拡散化し、純文学だの、大衆小説といった区分を無化している昨今の現象を先取りしていたからだとも言えよう。あらためて、坪内祐三の『「別れる理由」が気になって』を読めば、これはまぎれもなく<小説>であったことを実感する。優れた作品は、ジャンルを超越し、多様な読み方を誘う。


古本的

古本的


そういえば、坪内祐三の著書は、第一作『ストリートワイズ』以来、出版されるたびに購入してきた。17冊目になる最新作『古本的』が、古本についての最初の本だということに驚く。

・『ストリートワイズ』(晶文社 1997.4)
・『シブい本』(文藝春秋 1997.6 )
・『靖国』(新潮社 1999.1 )
・『古くさいぞ私は』(晶文社 2000.2 )
・『文庫本を狙え!』(晶文社 2000.11)
・『慶応三年生まれ七人の旋毛曲り』(マガジンハウス 2001.3 )
・『文学を探せ』 ( 文藝春秋 2001.9 )
・『三茶日記 』(本の雑誌社 2001.10)
・『後ろ向きで前へ進む』 (晶文社 2002.8 )
・『雑読系』(晶文社 2003.2 )
・『一九七二 』(文藝春秋 2003.4 )
・『新書百冊 』(新潮社 2003.4 )
・『まぼろしの大阪』(ぴあ、2004.10)
・『文庫本福袋 』(文藝春秋 2004.12)
・『私の体を通り過ぎていった雑誌たち』(新潮社 2005.2 )
・『「別れる理由」が気になって』(講談社、2005.3)
・『古本的』(毎日新聞社、2005.5)



何よりも、『明治の文学』の編集・完結の仕事が素晴らしいことは、いうまでもないけれど、『慶応三年生まれ七人の旋毛曲り』が、古本好きから自然に出てきた傑作(講談社エッセイ章)であるが、『「別れる理由」が気になって』は、私小説的な傑作になっている。この連載時期に、神蔵美子の写真集『たまもの』(筑摩書房、2002)が刊行 されている。これも奇妙な偶然と済ますことができない。


たまもの

たまもの


『別れる理由』『「別れる理由」が気になって』『たまもの』の三冊、いや五冊が、実は深いつながりがあるのだ。仔細は、『たまもの』をご覧あれ!