海の仙人

海の仙人

海の仙人


絲山秋子さんを気になる作家として、昨年『袋小路の男』に触れ、そこで絲山さんは「孤独感の捉え方が秀逸」と評価した。新年の読書第一弾として、長編『海の仙人』(新潮社2004)を読む。


一気に読み終えた。不思議な味わいのある、いってみれば独特の雰囲気がある作品になっている。この作品が、第130回芥川賞候補作であったということは、あの史上最年少の綿矢りさ金原ひとみの二人が受賞した時に、同時に審査の対象となり、落選した作品という決定的な刻印を帯びていることになる。


宝くじが当たり、敦賀の海辺で隠遁生活を送っている河野勝男。
冒頭、「ファンタジーがやって来たのは、春の終わりだった。」という非現実的な文章で始まる。「ファンタジー」とは、『海の仙人』読了後に、読者が、それぞれ、別のことばに置き換えることが可能な存在である。


河野にかかわるのは、引退したバスの運転手で釣り船を持つ村井老人、キャリアウーマンの中村かりん、元会社の同僚であった片桐妙子、河野と同期で新潟に住む澤田、それに河野の姉。


片桐が河野を訪ねてきて、「ファンタジー」をつれた3人は、片桐の真っ赤なアルファロメオGTVに乗って新潟の澤田のもとへ行く。その旅の描写が、リアルであると同時に、幻想的でもある。この旅の行程が、この小説の中核をなしている。


河野は、姉との近親相姦によるコンプレックスが自身の根底に巣くっていて、姉が面会を拒絶することで、河野の「孤独」の深さが伝わってくる。


中村かりんは、人事異動で敦賀から水戸、名古屋へと転勤してゆくが、定期的に河野のもとを尋ねてくる。二人の関係はセックスレスであり、同じ空間を共有することに安らぎを覚える本質的関係といってもいい。かりんは、転勤に伴い課長から部長へ順調に出世するが、仕事とひきかえのように乳癌におかされていることを知らされる。やがてホスピスに入り死を受容する。彼女は、キャリアウーマンとしての生き方の果てを象徴しているように見える。


一方の片桐妙子は、多くの恋人を持つが誰とも結婚していない。最後にチェロを弾く河野を尋ねてくる。片桐がおなじキャリアウーマンの現在進行形であり、河野との出会いでどう変化するかは、分からない。そのときの河野は、三度目の落雷にあったのちのことだった。


ラストの二行は、読む者を突き放す。
この作品の視点は、河野、片桐、かりん、澤田すべてから一定の距離をおいた視点であるけれど、神の視点ではない。神は、河野やかりんと同じ位置にいる。


「ファンタジー」とは、心の中の反映であり、あるときは神のようにも見えるが、また四十がらみの平凡なおじさんの姿をして、お好み焼きを食べたりする。「ファンタジー」にこだわる必要はない。鏡像としてみればいいのだ。


ところで、絲山さんは車にこだわる。
河野は、オレンジ色のダットサン・ピック・アップに乗り、片桐は、GTVからアルファスパイダー、156スポーツワゴン、アルファ33へと乗り換えて行く。男と同じように。ここでの車は、男あるいは女の象徴として登場している。車は、乗り換えるものであることを。


『海の仙人』は、男女間の「思い」のすれ違いを丁寧に描いた作品である。
澤田の片桐への思い、片桐の河野への思い、そして、河野とかりんの肉体と心のすれ違い。人間は究極的には「孤独」でしかありえないことを、絲山さんは繰り返し反復する。


絲山秋子は、欲望全開の作品が多いなかで、<関係の絶対性>がわかっている貴重な作家であり、自分探しでもなく、自閉的でもない困難な道を、きわめてストイックに固有な世界を構築している点で、注目すべき作家であることを強調しておきたい。


『袋小路の男』から『海の仙人』へと読んできて、絲山秋子の第一作にして第129回芥川賞候補作の『イッツ・オンリー・トーク』(文藝春秋、2004)が次に控えていることになる。


イッツ・オンリー・トーク

イッツ・オンリー・トーク


これは、明日読む予定。