小説の終焉
- 作者: 川西政明
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2004/09/22
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二葉亭四迷が『浮雲』を執筆してから120年。前半の60年が1945年の敗戦まで。後半は、戦後文学から現在までの60年。で、川西氏によれば、いわゆる<小説>と呼ばれるものは終わった、というのだ。
「私」「家」「性」「神」の終焉から、芥川龍之介、志賀直哉、川端康成、太宰治、大江健三郎、村上春樹の終焉。そして、「戦争」「革命」「原爆」「存在」「歴史」の終焉へ。
それぞれのキーワードや、作家の具体的作品を引用しながら、おおむね、1970年前後の中野重治『甲乙丙丁』、三島由紀夫『豊饒の海』、大岡昇平『レイテ戦記』、武田泰淳『富士』、野間宏『青年の環』、福永武彦『死の島』。その後の埴谷雄高『死霊』や島尾敏雄の戦争ものなどが、戦後60年を決算した作品であるという。
両村上で、<小説>は終わりという考えは、一応首肯できる。一方では、柄谷行人や浅田彰が「中上健次」で近代文学は終焉したといっている。小説らしい主題を持つ小説は、ここ最近見られないことは確かだ。
川西氏は、村上春樹について、こんな風な解釈をする。
村上は「私は私であるのはいやだ」という自同律の不快から出発し、「世界の終わり」にいた「僕」を救出する場所までやってきた。そのとき「僕」は『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』の「世界の終わり」にいた「僕」とは違う人間に変身しているのがわかろう。最後に作者は「僕」に「風の歌を聞くんだ」と言わせている。これによって『海辺のカフカ』の「僕」が『風の歌を聴け』の「僕」の変身後の人間であることがわかろう。
(p129−130)
埴谷雄高『死霊』については、「存在の終焉」として次のように書く。
九章の最後で虚体を確認しあった「三輪与志と津田安寿子の二人は、月光のなかで、影と影こそが実体であるかのような私達の精神を光のなかに浮き出させながらなおも月光の奥へ踏み入っていった」のである。このとき、三輪与志と津田安寿子は虚体となって月光の奥へと消えていったのがわかる。(p195−196)
村上春樹や埴谷雄高『死霊』の解釈については、川西氏に異論はある。にもかかわらず、柄谷行人は、「資本=ネーション=ステート」である近代国家の成立から、グローバル化している状況のなかで、近代文学そのものの終焉を説いている。一方、川西氏は、作品としての<小説>にこだわるが、基本的には、もはや、近代文学としての小説が成立していないことは自明だろう。
最近でいえば、高橋源一郎、島田雅彦、堀江敏幸、川上弘美、小川洋子、よしもとばなな、江國香織など、なるほど「小説」として書かれてはいる、けれども、その作品では、近代文学がもっていた、「私」「家」「性」「神」「戦争」「革命」「原爆」「存在」「歴史」のようなキーワードが成立していないことも事実だ。では、彼らの作品を何と呼ぶかは別の問題であり、近代文学としての小説以後の作品ととりあえずは言うしかないだろう。
近代文学としての小説については、基本的には「終焉」という考えに賛同できる。
柄谷行人は、「終焉」について『歴史と反復』の「あとがき」で次のように述べている。
私の考えでは、「終焉」は歴史における「反復」の一過程でしかない。
・・・思えば、私はこの時期「近代文学の終焉」に立ち会っていたのだった。そして、それが私的な感想でないことは、現在の時点では明白である。
(p276)
- 作者: 柄谷行人
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歴史は「反復」する。ただし、二度目はパロディとして。