負け犬の遠吠え

負け犬の遠吠え

負け犬の遠吠え


講談社エッセイ賞に続いて、婦人公論文芸賞まで受賞した酒井順子『負け犬の遠吠え』が気になり、一気に通読した。素直に面白かったといっておこう。


「未婚、子なし、三十代以上の女性」を、「負け犬」と呼ぶことで、いわば、自ら開き直り、素直に「負けました」といいながらも、負け犬は、高学歴、高収入、自称美人という三要素があり、一般的に男性が近づきがたいと感じる女性。

「憧れの独身女」には二種類あるのです。一つが向田邦子的、つまりは「美しくて女っぽくて、異性のにおいはしつつも結婚しない」という、いい女系の独身女。もう一方は、「あまりにも一芸に秀でるあまり、異性がつけいる隙が無い」という孤高の人系の独身女。私は後者の独身女パターンというのも、割と好きなのです。してその代表例が、やはり故人ではありますが、長谷川町子なのだと思う。(p199)


このあたりに、酒井さんの本音が出ているのではあるまいか。エッセイスト=作家として、向田邦子は理想像であり、また、サザエさん長谷川町子的存在にもあこがれる。


ところで、酒井さんがいうところの、「負け犬」女性、たしかにそんな女性は身近にいます。しかし、「負け犬」という表現は、あまりにも大げさではないか。第一勝ち負けの問題ではあるまい、と一般的に、普通の大人(男性)は思うのだ。


かつて、吉本隆明(あの吉本ばななの父)は、人間は生まれ、婚姻し、老いて死ぬ平凡さが一番幸福である、というような意味のことを言っていた。しかし、人は、その平凡なコースから多少ともズレて生きてしまうのだ、とも。


その点でいえば、「負け犬」と定義した時点で、平凡な幸せから疎外されたことになる。酒井さんが、自らの経験で述べていることは、説得力があり、いかにも、シニカルな教訓と読めないことはない。しかし、勝ち負けで判断する基準では、歴史的・空間的・民族誌的に規定された世界に私たちが生きていることが、視野に入っていないと言わざるをえない。非常に狭い世界の中で、自らを相対化(実は絶対化)しているに過ぎない。


人間、女であろうが、男であろうが、家族を持とうが、独身であろうが、根底的に孤独な存在であり、「負け犬」だから孤独なのではない。「絶対的な孤独」(坂口安吾)から、逃れることはできないのだ。


酒井さんの文章やユニークな発想法は、面白く、かつ生々しいが、どうも視点が保守的で、内向きなのだ。これでは、内田樹『街場の現代思想』のおじさん的コモンセンスと相互補完的的な関係にあるように思えてしまう。


街場の現代思想

街場の現代思想


狭隘な世界を突き抜ける発想が欲しいのだ。卓抜な発想ができる酒井順子氏には、「負け犬」を脱=構築した次元に進むことが可能であると、私は信じたい。


婦人公論』10月22日号で、酒井順子さんの写真を見た。丸顔で、ひっつめ髪に眼鏡をかけている。いかにも、知的美人エリートのエッセイストとしての印象が強く、「負け犬」を代表する女性にふさわしい。


枕草子REMIX

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