罪のスガタ

罪のスガタ

罪のスガタ


現状では、アゴスティの小説を読むことができる。とりわけ、『罪のスガタ』(野村雅夫訳)では、「裁判官」「被害者」「殺人者」の三篇が収められ、人間誰もが、人生の軌道を逸れる可能性があることがフィクションに仕立てられ、氏の映画作品群と通底するところがあり、一読の価値あり。


「裁判官」は、50歳の誕生日を迎える独身裁判官が、過去に終身刑の判決を下した事件を回顧しながらも、かねてから気がかりなハンブルクでの出来事を確認すべく、ドイツへ旅する。老婆殺害のイメージが繰り返し反復されるため、若き日の自分の行動を、その現場において追認することになる。裁判官として、自己を裁くことで、確実な証拠が発見されず、また事件から時間の経過を鑑みると証拠不十分で「無罪」であると、言い聞かせるが落ち着けない。帰国後の裁判は、「終身刑」にかかわるもので、彼は「判決文」を読もううとするが・・・声が出ない。この裁判官の内心はどうなっているのか、読者に考えさせるという余韻の残す。


「被害者」は最も映画的な主題を扱っている。エリート官僚のエンジニアのもとに、ある日、探偵と称する男が現れ、「実はあなたの殺人事件を依頼されまして」と告げられる。つまり、エンジニアは殺人の被害者となることが宣告され、探偵によって、過去の全て、妻とのこと、若い愛人のことから始まり、過去の人生で、出会ったすべての人に、可能性があるかも知れないと、調査される。殺害される日と、殺人者は女性と少年であることまで判明し、殺されることを回避するために彼がとった行動が、結果的に予定調和の結末となる。一種スリリングな展開は、映像が眼前に浮かぶような巧みさである。


「殺人者」では、子供の時に幾何学的イメージを想定することで、周囲の疎ましい人物を次々と、自然死させる能力を持ち、直接、手を下していないがため、その国の権力を把握する位置に昇り詰める男。この小説も、映像的であり、人間が暗黒面へ向かう可能性に言及している。


シルヴァーノ・アゴスティとは、このように、映画のみならず作家としても、イタリア本国において注目される総合的な芸術家であり、日本への紹介が遅れていた。大阪ドーナッツクラブ代表・野村雅夫が旧大阪外大のイタリア語専攻者たちと共に、イタリアへの情熱と憧憬から、アゴスティを翻訳(映画・小説)する営為によって、私達に届けられているのだ。