ヴェネツィアの宿



コルシア書店での活動を通じて知り合った夫、ペッピーノについて

私たちがそれぞれ抱えていた過去の悲しみをいっしょに担うことになれば、それまでどちらにとっても心細かった人生を変えられるはずだと信じようとして、ひたすら結婚に走った。したがって、それまで彼をさいなんできた家族の病気=死による理不尽な別離が、もしかしたらある日、彼だけでなく自分にもなんらかのかたちでふりかかるかも知れないという怖れが私のなかに芽生えたのは、結婚をとおして手に入れた静穏と充足の日々を、かけがいのないものとして意識するようになってからだった。
・・・(中略)・・・
友人たちは口をそろえて結婚して彼が明るくなったといった。事実、はじめて知りあったころは、どんな食べ物がすき?とたずねると、うん、ぼくはあんまり食べ物に興味がないんだ、とつまらなさそうな顔をした彼が、やっぱりアスパラガスはオリーヴ油に酢で食べるのがいちばんだ、とか、日曜日だけはいいワインを飲もうとか、こんどポレンタをつくったら、つけわせは仔牛の煮込みがいいとか、いろいろ台所に註文をつけるようになって私をよろこばせた。
ヴェネツィアの宿』(文春文庫版、p251−252)


その後、ペッピーノを亡くす須賀さんにとって、短い幸福な結婚生活の一端を示す、感銘的な文章だ。この文章を読むとき、自然に涙が出てしまう。『ヴェネツィアの宿』は、いま流行の恋愛病患者に読んでほしい本だ。