東京新聞の気概


政治について拙ブログで書くことはまずない。原則として書かないことにしていた。昨年9月の「政権交代」は、私が選挙に参加し始めて以来、画期的な出来事だったが敢えて触れなかった。

しかしながら、2月7日(日)付けの『東京新聞』社説は、他紙を圧する傑出した内容であり、ここに紹介しておきたい。

「週のはじめに考える 政治と検察の透明性」という見出しではじまる。

週のはじめに考える 政治と検察の透明性
国民主権下の公権力は国民に由来します。それを託された側は、常に謙虚さを失わず、可能な限り国民に透明な形で行使しなければなりません。
 「牛刀を以(もっ)て鶏を割くようなやり方だ」−小沢一郎民主党幹事長は、自分の政治資金管理団体陸山会」に関する東京地検の捜査を当初、このように受け止めて反発しました。牛刀を以て…とは小さなことを処理するのに大がかりなことをする、つまり大げさなことのたとえです。小沢氏は、政治資金収支報告の誤りぐらいで秘書の逮捕とは不公正だ、と主張しました。
◆納得できぬ小沢氏の説明
 “小沢資金”には億単位の不透明な流れがありました。小沢氏の主張のような形式ミス、小さな問題とは言えませんが、国会開会直前に現職議員を駆け込み逮捕した捜査手法は衝撃的でした。
 一年近い捜査の展開と「小沢氏不起訴」という決着の間に違和感も覚えます。捜査を見守っていた国民の多くの印象は「隔靴掻痒(かっかそうよう)」でしょう。
 小沢氏は国民が納得できる説明をせず、検察も公式には言葉少なです。建設会社の裏金、政治資金の複雑な動き…浮上した疑惑は多くても、公表された結論は「政治資金の虚偽報告に関する共謀の嫌疑が不十分」だけ。
「政治資金の闇」をうかがわせます。
 このような状況下で警戒すべきは、政治における正義の確保、政治浄化を検察に期待する雰囲気が生まれやすいことです。今回も似たような兆候がありますが、抽象的な正義の実現や政治の浄化を捜査に期待するのは誤りです。
 事件解明を望むあまり、捜査当局者を無批判に正義の体現者のように見ることも危険です。公権力を握る者が「正義」を振りかざして強権を行使すると暗くて怖い社会が到来するでしょう。
◆国民から託された権力
 人間の病気にたとえれば、法で病変部と定められた患部を取り除く。捜査の役割はそこまでです。手術方法も法による制約があります。捜査権という権力の行使は謙抑的でなければなりません。
 日本国憲法前文には「国政は国民の厳粛な信託により、その権威は国民に由来する」とあります。あるべき政治の姿や政治的正義を再定義する、これまた比喩(ひゆ)を使えば、何が政治の病気なのか、体質をどう変えるべきかは主権者の判断事項なのです。
 政治、主権者、捜査の関係を考えると「説明責任」も単純ではありません。
 憲法第三八条は「何人も、自己に不利益な供述を強要されない」と定め、刑事訴訟法も被疑者、被告人の黙秘権を保障しています。小沢氏は政治資金規正法違反で告発されており、刑事責任を問われる可能性がありますから、説明を拒否する権利があるのです。
 他方、小沢氏は、国民に権力を負託された国会議員、それも政権党の最高実力者です。こちらの面では、負託にかかわる国民の判断を誤らせないよう正直に説明する責任があります。
 政治家として権力を握り続けながら真実を説明する責任を免れることは許されません。
 検察の権力も国民から託されたものですから一定の説明はすべきです。疑獄捜査のような広範囲の捜索、事情聴取の真の狙いは何だったのでしょう。
 情報開示で捜査に支障が出るかもしれないという一般論は理解できますが、捜査権を適正に行使していると理解してもらおうとする姿勢は必要でしょう。
 小沢氏周辺が一部報道に「検察の意図的な情報漏洩(ろうえい)だ」といきり立ったのは、国民の隔靴掻痒感に便乗した反応といえます。
 意図的漏洩とは勘ぐり、記者たちの取材努力の成果ですが、検察側が責任を負う形で発信される情報が少ないだけに、捜査の意図や狙いをつかみきれず戸惑った人が少なくないはずです。
 政治の行方や国民生活への影響が重大な場面です。与党の一部にある感情的な捜査批判は別としても、現在進行形の波紋の広がりを考えると、「いずれ必要に応じて裁判で明らかに」ではなく、早い段階で国民への可能な限りの情報提供が求められています。
 多メディア時代の今日、真偽さまざまな情報が大量に流れていますからなおさらです。
◆透明化で国民に固い基盤
 政治家・小沢氏にあいまいな態度は許されません。国民の前で率直に説明すべきです。
 同時に、取り調べだけでなく捜査全般をもっと国民に見える形にしたいものです。「取り調べ可視化法案」を捜査牽制(けんせい)の道具に使うのは不謹慎ですが、開かれた捜査は国民の理解を得て固い基盤を築くことに
つながるでしょう。『東京新聞』「社説」(2010年2月7 日付け)


まず注目すべき言説は、他の新聞には決してみられないきわめて鋭く本質をついた<検察に対する意見>にある。

抽象的な正義の実現や政治の浄化を捜査に期待するのは誤りです。/事件解明を望むあまり、捜査当局者を無批判に正義の体現者のように見ることも危険です。公権力を握る者が「正義」を振りかざして強権を行使すると暗くて怖い社会が到来するでしょう。


かつてあった<戦争>への過程は、戦争推進者とその言辞を無批判に報道したマスコミの責に帰せられるだろうし、今回の<検察と司法メディア>の結合が、正義の名*1による<小沢批判>を合唱した経緯をみれば、いつか来たあの日を想起させる。

一方で、小沢幹事長への政権党の最高実力者=国会議員としての説明責任に触れながら、同時に検察による今回の大掛かりな捜査は何だったのか、国民への情報開示による説明義務を併置している。

小沢氏は、国民に権力を負託された国会議員、それも政権党の最高実力者です。こちらの面では、負託にかかわる国民の判断を誤らせないよう正直に説明する責任があります。/政治家として権力を握り続けながら真実を説明する責任を免れることは許されません。/検察の権力も国民から託されたものですから一定の説明はすべきです。疑獄捜査のような広範囲の捜索、事情聴取の真の狙いは何だったのでしょう。/情報開示で捜査に支障が出るかもしれないという一般論は理解できますが、捜査権を適正に行使していると理解してもらおうとする姿勢は必要でしょう。


東京新聞」によるこのバランス感覚こそ、今のマスコミ(新聞・テレビ報道)に求められているところである。マスコミが、記者クラブ制度に依拠し検察情報の裏付けを取らない怠慢さは、この国における民主主義を危うくすることは銘記すべきだろう。今回の<小沢氏問題>に係わる五大紙*2は、「検察」に歩調を併せたかのような言論に終始した。「東京新聞」のような<勇気ある言論>こそ新聞等マスコミの国民に対する責務である。


ネット時代により新聞・テレビ等報道メディアとしての存続危機が言われているなか、情報の裏付けに支えられた「真実の報道」とは何かを放棄したような大手メディアの姿勢は自ら崩壊を招いていることを自覚すべきだろう。


新聞があぶない (文春新書)

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民主主義が一度もなかった国・日本 (幻冬舎新書)

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明治十年 丁丑公論・瘠我慢の説 (講談社学術文庫)

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*1:検察が必ずしも正義を体現していないことは、冤罪事件であった「足利事件」の菅家氏に対して、録音テープにより冤罪が作為される過程が証明されたにもかかわらず、元担当検事は一切謝罪をしなかったことでも分かる。検察が作り上げたストーリーを否定することは、検察のメンツにかかわるかのように。

*2:五大紙とは、周知のとおり「読売・産経・日経・毎日・朝日」の全国紙のことであり、記載順にも当然意味がある。全国紙の売上低減傾向は、昨今の学生さんが「新聞は購読しない」と堂々と言うことにも表れている。