ジョットとスクロヴェーニ礼拝堂
スクロヴェーニ礼拝堂の壁面全体に描かれたジョットの絵画は、一度は見たい。
が、実際パドヴァのスクロヴェーニ礼拝堂の中で、数多い壁画を15分間で見ることなど不可能に近い。一週間滞在しても、見たいという余裕のある人は別だ。
ジョットとスクロヴェーニ礼拝堂 (Shotor Museum)
- 作者: 渡辺晋輔
- 出版社/メーカー: 小学館
- 発売日: 2005/04/26
- メディア: 単行本
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小学館のShotor Museumの一冊として、渡辺晋輔『ジョットとスクロヴェーニ礼拝堂』は、「ヨアキム伝・マリア伝」12面、「キリスト伝」25面、「最後の審判」、それに「七福徳像・七悪徳像」14面の壁画を、順番を追って見せてくれる。宗教画の極地とも言えるだろうジョットの壁画は観るものに、浄福感を与える。
礼拝堂に入ると鮮やかな青色が眼に飛び込んでくる。キリストの生前から生誕、そして死・昇天までを、一望できる仕掛けになっている。ジョットのフレスコ画は、宗教画としての形式を踏まえながらも、そこに人間の表情が見事に描き込まれている。マリアとキリストの表情を追って行くと、No.34『哀悼』に至り悲しみの頂点が豊かに、刻まれているのが解る。
画集には拡大という特権的手法があり、「ピエタ」と呼ばれる聖母とキリストに焦点を絞って見ることができる。ジョットの時代は、グーテンベルク以前であり、活字化された聖書は一般民衆は読むことができなかった。新約聖書が絵画化されることで、礼拝堂に入ることよって、一般民衆が「イエス」を身近に感じることができるような仕組みになっているわけだ。
なぜ、フラ・アンジェリコやジョットのフレスコ画に惹かれるのだろうか、と自問してみる。誰もがそうであるように、絵画とはまず近代絵画から入る。ゴッホやセザンヌ。ルネサンス絵画、ダ・ヴィンチやボッティチェリの迫力。そしてあるとき突然、中世の宗教画に強烈に惹かれていることに気がついた。
アッシジのサン・フランチェスコ教会の『聖フランチェスコ伝』の壁画と、フィレンツェのサンマルコ修道院のフラ・アンジェリコ『受胎告知』を観たときから、心惹かれるものを感じた。とりわけ、修道院の階段のあがりはなにある『受胎告知』との出会いが、フレスコ画の魅力にとりつかれたきっかけだったと思う。
とまれ、ジョットの奇跡とも言える「スクロヴェーニ礼拝堂」の壁画が、一冊の本に収まったことを素直に喜びたい。私は、クリスチャンでもないし、宗教としてのキリスト教そのものにも、どちらかといえば批判的な立場の人間である、にもかかわらず、キリストを主題とする宗教画に魅せられている。申すまでもなく、絵画としてのジョットの壁画に惹かれているだけである。なぜか、自分でもすっきりしないのだが。
ところで、この「スクロヴェーニ礼拝堂」を、そっくり実物大で復元・模倣している美術館が日本にあるのをご存知だろうか。四国・徳島県にある大塚国際美術館である。地下三階に設けられた「スクロヴェーニ礼拝堂」は、陶板画とはいえ観るものを圧倒する。陶板画の性質上、近代絵画はあまりに平面的に観えてしまい、むしろ、中世・ルネサンスまでの絵画(贋物だが)の量に驚く。
『大塚国際美術館』のHP
スピノザの世界
- 作者: 上野修
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2005/04/19
- メディア: 新書
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上野修『スピノザの世界 神あるいは自然』(講談社現代新書)が出版された。スピノザに関する入門書は少ない。私は、哲学の専門家ではないし、書評なるものが書けるわけもないから、入門書としては、貴重な部類に入る本書に少し触れておきたいだけである。この種の入門書として、素人にも解りやすく、しかも、スピノザの思想がきわめて現代的でもあることが知らされる。
スピノザの「神あるいは自然」とは、宗教的な「神」ではなく、「永遠・無限の実有」であり「すべてを包み込む大自然のようなもの」というより「不気味な存在露呈」と捉える。
上野修によれば、デカルトの残した問題として、「観念の問題」と「心身合一」の難問があるという。スピノザは、この二つの難問を解決している。とくに「永遠」や「至福」は、「神」とともにあるという発想は、唐突だが<東洋的悟り>の世界を連想させる。
なぜか、スピノザにある「永遠」を「神あるいは自然」のもとで生きるという発想に惹きつけられるのだ。スピノザのいう「神あるいは自然」とは、近代の「神」なき世界では、「無意識」に置き換えることだできよう。あるいは、仏教的には「無」に近いものとして想定すれば分かりやすいかも知れない。