『裁かるるジャンヌ』以前のドライヤーのフィルムは「情熱」の現れだ!

『ミカエル』ほか・カール・Th・ドライヤーのサイレント作品

 

カール・Th・ドライヤーのサイレント作品6本を観た。DVD再生装置に不具合が起きたためPCにて再生した。結果として、サイレント映画を見るには、PCが好ましかった。
観た順とは異なるが、製作順に列挙すれば以下のとおりである。なお『裁かるるジャンヌ』(1927)以前の未見作品ばかりだった。

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カール・Th.ドライヤー

 

『裁判長』(1918)
『サタンの書の数ページ』(1919)
『不運な人々』(1921)
『むかしむかし』(1922)
『ミカエル』(1924)
『あるじ』(1925)
裁かるるジャンヌ』(1928)

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裁判長

『裁判長』は親子二代にわたる、女性を巡る因縁めいた話。祖父が父親に説教している。父親が、若い時の女性に対する過ちを、そのため祖父が死去したことがまず映像として示される。そのことを戒めとし聞かされていたカール・ヴィクトルは、裁判長となって故郷へ帰る。最初の裁判は、かつてカールが愛した女性の娘が起こした子ども殺害事件を担当することであった。
監督自身が、私生児であり母親が本作の女性と同じように妊娠し最初の子どもがドライヤーだったこと、更に二人目の子を妊娠したがため母親が自殺していた経歴が反映されていると解釈していいだろう。『裁判長』では、カールが起こす親子二代の過ちは、相手の女性と生まれた娘も同じ過ちを犯すという、のがれられない反復を繰り返している。いづれにせよ、ドライヤーの母への想いが、女性の立場に寄り添うことで、ハッピーエンドに導いたのだった。『裁判長』におけるラストは、娘が主人公カールによって釈放され、亡命するハッピーエンドで終わっている。まさしく、ドライヤーの<情熱>が表出されていて、第一作にふさわしい。

ドライヤー映画のハッピーエンディングは第一作と第4作『むかしむかし』、第6作『あるじ』の三本のみである。

 

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サタンの書の数ページ

 

『サタンの書の数ページ』は、第1話「紀元1世紀のパレスティナ」第2話「16世紀のスペイン、セヴィリア」第3話「フランス革命」第4話「1918年のフィンランド」で構成される、157分の長編映画。第1話は、イエスによる最後の晩餐が描かれ、ダ・ヴィンチの壁画を想起させる。緩慢なリズムで物語が進行する。ユダの裏切りを指示するのがサタンの役回りになっている。第2話は、スペインにおける異端尋問が取り上げられる。後の『裁かるるジャンヌ』に通じるテーマである。
第3話「フランス革命」は、革命によるギロチン処刑を受けるマリー・アントワネット、貴族階級の受難劇を描いている。第4話は、ロシア革命後のフィンランドが舞台。サタンは祖国を裏切るように画策するが、サタンの企みがここではじめて失敗する。この映画の製作当時は、ソヴィエト連邦を批判することは困難な時代。敢えてソ連の工作者に扮したサタンを共産主義を広める役割を担った男に設定していることに、ドライヤーの芸術的政治的姿勢がみえる。

 

『不運な人々』は、ドイツで制作した映画。『不運な人々』は、ロシアのある地方におけるユダヤ民族にふりかかる受難、のちのナチスによるユダヤ人虐殺に通底する問題を扱っている。それがロシア人の革命運動と関係してることで物語が構成されている。その後のドイツ・ナチスによるユダヤ人虐殺問題を預言した作品との評価も可能である。人物関係は二組の男女と、ロシア人の革命運動家など多数がいり混じる、ドライヤーにしてはきわめて複雑な物語になっている。

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むかしむかし

『むかしむかし』は、デンマークで大衆受けした舞台劇の映画化。現在、フィルムは完全な形で残されていない。一種幻想的な絵巻もので、王女を中心に侍女たちと庭園で遊ぶシーンの美しさが印象に残る。架空の国イリアの王女が、陶工という庶民の仕事を手伝うことで<傲慢>さがなくなり、デンマーク王子と結ばれるお話。

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ミカエル

『ミカエル』は、『不運な人々』に続くドイツで制作された映画。
画家ゾレとその弟子ミカエルによる同性愛的な要素が根底にある。室内劇だが、部屋のつくりが芸術家の部屋をロングショットとクローズアップで、キャメラは見事に捉えている。『ミカエル』は、男女二組が、同じような行為を反復する。一組は、夫人の愛人と、夫が決闘し、愛人は殺されることになる。一方、ミカエルは、愛人ザミコフから莫大な借金をし、その補填のため画家ゾレの絵画や、イギリス製ワイングラスなどが持ち去られる。ゾレ、ミカエル、ザミコフの三角関係は、決闘に至ることはなく、ゾレが最後の作品を書き上げ、遺産をすべてミカルに残すという対照的な結果をもたらす。映像はきわめて耽美的だ。
ドライヤーは「私にとって『ミカエル』は重要な映画だ。初期作品で特別なスタイルを確立した作品だ」と言及しており、本作へのこだわりをみせている。

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あるじ


『あるじ』は、ドライヤーの作品のなかで最も身近で解りやすい単純な映画だ。一家のあるじである父は、妻に対して暴力的なまで虐待的な態度を取っている。その父親の態度を改心させるべく、子供時代からの乳母であった老女が妻を実家に帰すことを思いつく。妻がいなくなるや、老女はかつて仕付けたように主人に対して、妻が担っていた仕事すべてをするよう容赦なく、対応する。妻がいかに大変な仕事をしていたか、自分自身でやってみて始めて分かる。専業主婦という言葉がなかった時代だが、主婦の仕事が今日のように電気製品化される前だから、すべてが手作業による大変な仕事量だ。ここでも、妻という女性の立場に寄り添い、今ならパワハラ亭主であった<あるじ>にお灸をすえ、妻に寄り添いながら描く、女性擁護のフィルムになっている。

室内場面をセットで作り、ほとんどが居間兼用の食堂が中心になる。ドライヤーの映画は、中心になる部屋のドアを介して人物が出入りする。トーキーになってのちの『怒りの日』や『奇跡』の中心となる部屋があり、ドアを開閉して出入りするというセットを基本にした映画の試みになっている。

 

 『裁判長』から『あるじ』に至るサイレント・フィルムには、カール・Th・ドライヤーの<情熱>が込められていることが確認できた。いわゆる<聖なる映画>とはサイレント最後の『裁かるるジャンヌ』において達成されることが視えてきた。

 

 『裁かるるジャンヌ』は、顔のクローズアップが強調されるが、冒頭の横移動による異端尋問を行う審問官たちの表情がしまりのない凡庸な男たちを一覧させる。審問者たちの弛緩した表情と対称的に極度に緊張したジャンヌ(ルネ・ファルコネッティ)を捉えるキャメラは、異端尋問となるジャンヌ・ダルク裁判の非人道性を尋問調書にもとづき再現している。
唯一、ジャンヌの味方になるジャン・マシューを、アントナン・アルトーが演じているのも見逃してはなるまい。サイレント映画の到達した崇高性が、本作によって達成されたことが観る者に開示されたのである。

 

聖なる映画と称賛されるドライヤー映画のサイレントフィルムをみると、ドライヤーの作品は、それぞれ「芸術的な価値こそ意味がある。生きられた生の真実から無駄な細部を省いたもの、つまり、芸術家の魂のフィルターを通した真実にこそ意味があるのだ」と自ら述べているとおり、「聖なる映画」とひとくくりにできない。それぞれ、<魂のフィルターを通した真実>を<情熱>的に描こうとしていたことがわかる。「映画は唯一の情熱だ」とドライヤーは述べている。

 

セットや美術などへのこだわりが全ての作品に反映されている。『裁かるるジャンヌ』に至る過程を確認するためにも、上記のサイレントフィルム6本は必然の作品だったといえるだろう。

 

 『裁かるるジャンヌ』とトーキー作品『吸血鬼』『怒りの日』『奇跡』『ゲアトルード』5作品については、既に、拙ブログの2006年1月7日

prebuddha.hatenablog.com

に覚書「『奇跡』ほか」と題して記載していることを付記しておきたい。

 

なお、小生のドライヤー・ベストは『奇跡』(1954)であることに申すまでもない。しかし、もちろんそれが『怒りの日』(1943)あるいは『ゲアトルーズ』(1964)であっても異論はない。いずれにせよ、トーキーの三作はいずれをベストに選出しても、ドライヤー作品であればそれで良い。

 

 

 

 

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吸血鬼