西洋をエンジン・テストする


恐るべき書物だ。

ピエール・ルジャンドル著,森元庸介訳『西洋をエンジン・テストする―キリスト教的制度空間とその分析』(以文社,2012)を読み、世界知を読み換える試みの書であることに驚いた。


西洋をエンジン・テストする: キリスト教的制度空間とその分裂

西洋をエンジン・テストする: キリスト教的制度空間とその分裂


実際は、三つの講演を収めた書物だが、その眼目は第3講演「世界の総体を鋳直す」にある。


二つの問題点の指摘

まず、ヨーロッパですでにひさしい以前からはびこっている宗教的・政治的な幻滅。また、産業による虐殺の発明に起因する大陸の荒廃。(p.58)


さらに前提として、西欧化されたモデルとグロ−バル化したマネジメントに言及する。

ヨーロッパ=アメリカのモデルを適応した国家というモンタージュを、押し付けたり同意を取り付けたりしながら輸出すること。民主制なるものについてスタンダード化された説教を西洋が唱え立てること。そこには―「自然な」とあえて言うが―付随物として、防衛的なレトリックに支えられた過剰武装がともなっている。そのうえで、惑星の全体を見渡してみるなら、いたるところで、同様のメカニズムがそのたびごとに都合のよい言説を取り合わせながら機能していることがわかるだろう。(p.58)

グローバル化と通称される事態の水準にあって、マネジメントは、疑いようもなく、己の出自から、継承した原理主義を伝搬している。第一に、産業システムの闘争的な合理性、ならびにその延長としての、人間の紐帯に関する技術主義的な思考。第二に、全体戦争と殺戮の科学的プログラミングに稗益すべく20世紀に到来した組織化の完遂。実践のうえで、世界化された効率性(efficiency)の根底に、企業や国家行政、また超大陸規模の封建制度への軍事的思考の移入があるのは明らかだ。そして、こうした傾向のうちで、純然たる道具的思考が法の領域を浸食している。慣用となった言い方をするなら、マネジメントは法という手段をモビライズしている。(p.59)


第一の講演より

第一の徴候として、創設シナリオの紐帯が不安定化した結果、正統性の原則が恣意に委ねられるものとなりました。
第二の徴候として、キリスト教固有の分裂に起因して範域相互が切り離された結果、法的領域―それまで歴史的には、技術性の原則の大いなる担い手であるローマ法に服属していた範域なのですが―の孤立にとって有利な条件が生まれました。
第三の徴候は、わたしたちの制度が抽象化に蝕まれているということです。・・・(中略)・・・今日の法律家は自身の知に騙されつつあるのではないか・・・法律家は、全面化した抽象化傾向の代価をそのように支払う一方で、主体と文明の構造的な相互帰属を検討するための力を失っているのです。(p.100)


第二講演より

いまこそ人間と社会の解釈学的な構築というものを理解し、首尾一貫して筋の通った問いかけの方途を探らねばなりません。社会科学や人文科学、経営科学を荒廃させている実証主義に明確な意識とともに背を向け、きっぱり、そう、きっぱりと「文化の進展は個人の進展に類似し、同じ手段にとって為される」(フロイト)のだと考えることです。(p.115)


第三講演より

西洋の思想家たちは、いまだ狡猾さを発揮して次のように確信している。ヨーロッパで発明された諸々の用語は無制約にその意味を保存しているのみならず、2000年以上にわたる恒常的な使用によってスタンダード化されたのだから、惑星のいたるところにあって合法的な語彙として吸収されるのでなければならない、と。だからまた当然の帰結として、宗教と呼ばれるモンタージュは、アメリカ連邦裁判所の判事たちが最近になって「思想の自由市場」と呼んでいるものへ切り詰められてゆくわけです。この惑星の市場は、しかるべくして、あえてそう言いたいのですが、多国籍のごときものと化したキリスト教に支配されています。グローバル化の時代、国境の開放、あるいは 文明の平等といった政治的マニフェストの時代にあって、キケロが述べていた「唯一無比の智慧」は相変わらず西欧的由来の文明の独占物となっているのであり、この文明は、意味論上では明らかに事実にどこまでも抗いつつ、自分たちが普遍的に君臨しているのだという心づもりを大っぴらにひけらかしている。(pp.147-148)


結論的に「何が普遍であるのか」との問いに

西洋をこそ民族学の対象とするのでなければなりません。わたしたちが他の解釈システム、他のひとびとの他の宗教に押しつけてきたのと同じ扱いを西洋に押しつけねばならない。こうした見地からするなら、普遍とは、表象の生の論理、また一連の命法―解釈し、因果性についてのヴィジョンを練り上げ、つまりは系譜的に組織された世界という語りを構築して再生産するという命法―の前にあって、人間と社会が平等であることを意味しています。
神話、宗教、創設シナリオは交換することができません。他人の代わりに夢を見たり考えたりすることは誰にでもできないからです。だから、力づくによる強制によってというのでなければ、どんな文化にもあれ、己を消し去ってしまうことなどありえないのです。(p.180)


「西洋をこそ民族学の対象とする」こと「他のひとびとの他の宗教に押しつけてきたのと同じ扱いを西洋に押しつけ」ることが、今後の課題であるというわけだ。


ほとんど引用でしか、説明できないけれど、ルジャンドルの「ドグマ学」は、基本的にキリスト教の歴史的な法的解釈に依拠している。

キリスト教が、ローマ法を取り入れてローマ法=キリスト教会法として中世以後、今日まで継続していることの問題点を指摘しているわけだが、グローバル化の中で惑星規模での、系譜的な再組織化の必要性を強調していると理解できる。ここまで、世界的な問題の本質を抉り出している思想家は、ルジャンドルしかいない、と思うのだが。如何なものであろうか。


問題解明の鍵として、シュルレアリスムの画家、ルネ・マグリットの『禁じられた複製』とマックス・エルンスト『第二の眼に見える詩』*1を、巧みに導入している。


ルジャンドルは自身の手法を「解釈者革命」と定義しており、引用箇所から読みとれるとおり、主張される言説は、きわめてラディカルで根底的な、世界への異議申し立てなのである。


ピエール・ルジャンドルの著作

ルジャンドルとの対話

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第II講 真理の帝国 (ピエール・ルジャンドル 第 2講)

第II講 真理の帝国 (ピエール・ルジャンドル 第 2講)

*1:マグリットの『禁じられた複製』および、エルンスト『第二の眼に見える詩』は、本書の口絵に図版として掲載されている。前者は<鏡を見つめる男が、鏡に映る自分の背後像を見ている>構図。後者は<夜空を背景にして笑う神の顔が、その視線の先、つまり絵画の下部に優美な手が書物(聖書)の上に水平に置かれている>構図。