文学全集を立ちあげる


「文学全集」が発行されなくなって久しい。かつてはどこの家庭でも、応接間や居間に「○○文学全集」全○巻がどんと居座っていた。今そのなごりが、古書店で全集の端本として売られている。講談社筑摩書房、新潮社、集英社小学館等々、各出版社がこぞって「文学全集」を出版していた時代があった。教養や知識は「文学全集」から得ることができた時代。


文学全集を立ちあげる

文学全集を立ちあげる


丸谷才一鹿島茂三浦雅士の三人が、新たに「文学全集」を立ちあげようと対談し、「世界文学全集編」と「日本文学全集編」に取り組む。作家・批評家の丸谷氏、フランス文学者の鹿島氏、編集者・評論家の三浦氏、この組み合わせで、ほぼ内容に見当がつく。「世界文学全集編」は、世界文学全体を通観するほどの知見を持ち合わせていないので、最終的にまとめられた133巻は、なるほどと確認しながら楽しく読む。


シェイクスピアディケンズジョイスバルザック、デュマ、ドストエフスキーゲーテトーマス・マン金瓶梅紅楼夢が、それぞれ2巻、プルーストのみ4巻。シェイクスピアドストエフスキーは4巻は欲しいところだが、まあ個別に読めば良い。


本を読む前に

本を読む前に


問題は、「日本文学全集編」である。荒川洋治が「『ある日』の文学全集」(『本を読む前に』)で、明治以降の近代文学に限定して83巻に収めている。1996年7月の時点で、

このニ〇年は、文学全集を不可能にする時代だった。
(p.170『本を読む前に』)


と言う。一巻ものは、森鴎外夏目漱石正岡子規島崎藤村志賀直哉横光利一太宰治中野重治小林秀雄、保田與十郎、三島由紀夫大江健三郎司馬遼太郎吉本隆明。それ以外の文学者は二人から四人の組み合わせになっている。それでも全巻で83冊ある。


丸谷才一鹿島茂三浦雅士が選んだもので、明治以降に限定して比較すると、1巻以上の人は以下のとおりになる。

福沢諭吉三遊亭円朝幸田露伴尾崎紅葉樋口一葉森鴎外2、正岡子規島崎藤村泉鏡花夏目漱石3、高浜虚子斎藤茂吉永井荷風谷崎潤一郎3、柳田國男折口信夫北原白秋萩原朔太郎西脇順三郎内田百輭川端康成横光利一石川淳宇野千代坂口安吾太宰治大岡昇平2、吉田健一三島由紀夫大江健三郎


荒川洋治が一冊としてあげた文学者のうち、合冊になっているのは、志賀直哉中野重治小林秀雄保田與重郎司馬遼太郎吉本隆明は個人名ではなく「近代詩集」に収められるのだろう。谷崎潤一郎が3巻、志賀直哉は、武者小路実篤と二人になっていることが際立つ。内田百輭が1巻というのは嬉しい。荒川洋治撰と共通するのは、芥川龍之介の評価で、1巻を与えていない。


丸谷才一は、冒頭で、文学の「キャノン」という表現をしている。確かに、文学全集には、必ず収録すべきキャノン(正典)が必要であることは認める。1996年段階で、すでに20年文学全集がないのだから、ここ30年間、まともな「文学全集」が出版されていないということだ。「キャノン」とは、「文学全集」が刊行され続けて始めて視えてくるものだろう。撰者によって異なるとすれば、10年に1回くらいは「文学全集」が必要だろう。年間約8万冊も出版点数が増加しているにもかかわらず、30年も「文学全集」がないということは、文化的な貧困というより、出版界として異常な事態ではないのか。価値観の変容などどと片付けていい問題ではない。


芸術と実生活 (岩波現代文庫)

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私たちは、「キャノン」のない時代を生きていることになる。そう考えると、政治思想の貧困さや、思想家の不在も納得できる。丸谷氏は、現在の日本文学を平野謙の三派鼎立説を踏襲して次ぎのように分析する。

(丸谷)平野謙が昭和初年の日本文学を私小説プロレタリア文学、芸術派の三派鼎立と言った。それで、意外なことに、この図式は今も有効性を失わなくて、私小説的作家とプロレタリア文学的作家とモダニズム文学的作家というふうになっていると思う。/そのうちモダニズムの代表が村上春樹プロレタリア文学の代表が井上ひさし、そして私小説の代表が大江健三郎、という図式が成立する。(p.320『文学全集を立ちあげる』)


なるほど、大江健三郎は「私小説の代表」というところか。鹿島氏が、大江健三郎現代文学の先駆けであったとして、以下のように述べている。

(鹿島)僕は一年間「産経新聞」で文藝時評をやってよくわかったんですけど、大江健三郎というのは、語のすべての意味で現代の若手小説家の先駆けなんですね。/まず題材的にいうと、大江さんの初期小説はいまでいうフリーターの走りです。・・・(中略)・・・第二に、まず最初に感受性だけで小説を書いてしまって、その後、行き詰ってから小説の勉強を始めるという点。これも現代の小説家と同じ道筋です。・・・(中略)・・・/第三に、大江さんの小説はネットとかパソコンなどが出現する以前にすでにヴァーチャル・リアリティに基づいて書かれています。つまり、彼が現実と考えるものは、全然、現実ではなく、あくまでも大江健三郎にとっての「現実」なんです。大江さんの想像力という化け物が生んだ「現実」でして、彼のレアルはそのままシュルレアルなのです。この構造はいまの小説家に顕著なんですが、ただし、いまの小説家はそれを出来合いのヴァーチャル・リアリティで済ましているのに、大江さんは自前でやってしまったところがすごい。/ただ、以上の点の類似を認めた上で、大江健三郎といまの若手小説家を比べると、二桁くらい格が違う。(p.321-322)


鹿島氏の大江健三郎評価が、いまの文学の貧困さを剔抉している。サブカルの時代とは、文豪のいない時代だ。感受性は教養が土台にあって開花する。何も古い「教養主義」を擁護しているのではない。このままでは、「文学」が「文学」でなくなってしまう。それでいいのかどうかは、もはや拙ブログで書くべき範疇を超えている。



鹿島茂は、大江健三郎は初期短編と『万延元年のフットボール』と『同時代ゲーム』を挙げている。自己言及的な『懐かしい年への手紙』も良いと思う。


万延元年のフットボール (講談社文芸文庫)

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懐かしい年への手紙 (講談社文芸文庫)

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