同時代も歴史である


坪内祐三『同時代も歴史である 一九七九年問題』(文春新書)は、坪内氏の政治的論考と形容していいだろう。坪内氏の書物について語る姿勢や、本へのこだわりに寄り添ってきた者にとって、ついに来るべき時がきたという印象が強い。福田恆存の「アンティゴネ」に触れながら、1968年問題から、イラン革命の年、1979年に至る坪内氏の思索の経緯は、本書では皮肉にも彼の「政治性」が露呈することになった。



もちろん、坪内氏の「政治」に関する思いは、『後ろ向きで前へ進む』(晶文社)における福田恆存への言及を敷衍した、坪内氏の明確な政治的宣言書と読むべきだろう。もう一つ分かったことは、氏にとって「神」なる存在がきわめて重要であることをを告白していることだ。


後ろ向きで前へ進む

後ろ向きで前へ進む


坪内氏の愛読者として、複雑で二律背反的な思いに捉われないわけにはいかない。つまり、坪内祐三は、『シブい本』『古くさいぞ私は』『雑読系』『文庫本福袋』などの、書物論や書評関係への言及や論説には、あからさまに政治的位相が表面化せずに、いわば「本」そのものの側から書くことで、政治性が中和化されていた。


シブい本

シブい本

文庫本福袋!

文庫本福袋!


坪内祐三を最大に評価したいのが、『「別れる理由」が気になって』であり、小島信夫『別れる理由』が書かれた時代を、「再現としての追体験」を試みた優れた文芸評論になっていた。坪内祐三の路線は、このような方向にあると信じる。あるいは、『明治の文学』(筑摩書房)の編集者としての坪内祐三は、優れたエディターだった。


「別れる理由」が気になって

「別れる理由」が気になって


文筆業者がある一定の評価を得て、ある年代にさしかかると、突然、政治的発言をする傾向があることは避けられない。かつての江藤淳も、単なる文芸評論家から、ある種政治的な立場を明確にしてきた。もちろん、その言説が右翼的だの、左翼的だのといった次元で論じられるべき問題ではないことは申すまでもない。問題は、政治的な理解の深度である。なるほど、イラン革命ソ連のアフガン侵攻が、1979年であったことは、歴史的事実に属する。だが、政治的にそれらの問題に触れることは、自らの政治的な場所が、明確になることでもある。


ある批評家の肖像―平野謙の〈戦中・戦後〉

ある批評家の肖像―平野謙の〈戦中・戦後〉


杉野要吉『ある批評家の肖像』を参照しながら、平野謙に対する正当な評価の仕方などに坪内祐三の真骨頂をみることができるだけに、最後に置かれた「軽い帝国」論と「一九七九年春・・・」は、坪内的世界を逸脱している。「坪内さん、そこは敢えて書かなくともいいのでは!」と言いたくもなってしまう。おそらく、坪内氏にとって、長い間封印してきた己の政治的思考の核にあたるところが、表出してしまった。『福田恆存文芸論集』を編纂したような「慎み」というべき姿勢を通して欲しかった、と思うのは私だけであろうか。坪内祐三の本を注目し、愛読するが故の苦言であると思っていただきたい。


福田恆存文芸論集 (講談社文芸文庫)

福田恆存文芸論集 (講談社文芸文庫)


坪内氏もいうとおり「時間と個人の死との関係を見るひとつの見方」(p.196)が、大事なのだと思う。この章までで留めておくことで、かろうじて坪内祐三として定着しているイメージの中に収まっていたはずなのだが、でも「1979年問題」を書くことが坪内祐三の意気ごみだったとすれば、読者としては見守るしかない。

自由主義を代表するアメリカも共産主義を代表するソビエトも、その世界観のみなもとは一七八九のフランス革命にある。いわば近代の産物である。それからほぼ二百年の時が経ち、一九七九年は、その近代的世界観では「世界」をかかえきれなくなった、そういう「歴史」がはじまった(あるいは幾つかの「歴史」が交差することとなった)年だった。
そのことに私たちは無自覚だった。しかもその頃、私たち日本人は、私たち固有の「歴史」も失いつつあった。ある時期から私たちは「世界」(しかし、繰り返すがその「世界」とはどの「世界」のことだろう)の一員となり、その「世界」の「歴史」の共有者となってしまっていたのだ。それと引替えに私たちは自らの「歴史」を失った。(p.249)


苦言と反論の違い。批判するつもりもないし、雑読系の著者の立ち位置は解るけれど、いささかの危うさを感じないわけにはいかない。そこまで、「同時代」にこだわる必要があるのか。坪内祐三とは、歴史的パースペクティヴが長いのが本領ではなかったか。一読者としては、日本近代の始まりである「明治」に遡及することのできる評論家としての評価を大切にしたい。


政治的発言で、「私たち」と表現するとき、主体性がどこにあるかが問題なのだ。同時代への政治的発言は、要注意。明確な思想的視座を持っている者のみが可能な表現なのだ。あらためて、丸山眞男が指摘したように、同時代と距離を置くことの必要性を思う。また、小林秀雄が、同時代への批判を排し、己の好む対象に絞り込んだように、こんな時代だからこそ「古典」と向き合うことの必然性を痛感する。


率直にいえば、坪内祐三の『同時代も歴史である』を読み、「ブログ」で本や映画について気儘に書くことの節度について、自己反省を感じたことは否めない。さんざん迷った末、それでもこの問題は書くべきだと判断した。



■2006年6月14日補記


坪内祐三は、『後ろ向きで前へ進む』の中の「一九七九年のバニシン・グポント」で、「1979年を境に批評が解体に向かった」と言及していた。この年から、ポスト・モダンに入ったと。それを、政治的な視点から読み直したのが『同時代も歴史である 一九七九年問題』であったわけだ。