充たされざる者

2017年ノーベル文学賞受賞者、カズオ・イシグロ。彼の作品は、映画化された『日の名残り』と『私を離さないで』二本を観ただけであった。ノーベル文学賞受賞という栄誉に輝いている作家は読みたくない。しばらくの猶予を置いて、『日の名残り』から読み始める。休暇を取った老執事の旅を通しての回想録。読み進めるとその世界に引きずり込まれる。淡々と語られる語り口は、厳格なイギリス執事そのもの。しかしながらその語り手は信頼できるのか?



続いて映画化された『わたしを離さないで』は、ディストピア小説だ。「残酷なビルドゥングスロマン」(豊崎由美)という批判もある。読ませる内容は、全貌が視えないままに終える。


最初の長編『遠い山なみの光』は、戦後の長崎と主人公が渡英した後のイギリスが舞台。語り手のエツコは、長崎時代の回顧と、イギリスの現在を交錯させながら、自殺した長女ケイコ、大学から帰省した次女ニキとの会話から、長崎時代の隣人、サチコとマリコの母娘を回想する。最初の結婚相手の父オガタの儒教的価値観が、戦争協力者として教え子から糾弾される。


第二作『浮世の画家』は、戦前戦争協力画を描いたオノが語り手。戦後にオノが置かれた状況。節子、紀子など小津安二郎作品に頻用される名前。

日本の小説を翻訳したかのような初期の二作品。

三作目が『日の名残り』で、本作でブッカー賞受賞。名声を得る。



名声を得たイシグロは、『充たされざる者』で著名ピアニストであるライダーが語り手となる。賛否両論のある本作。町の住民たちが親しげにライダーに話かける。彼らすべてに対応し行くことに、読者は苛立ちを感じるだろう。実際、途中で読むのを止めようかと何度も思った。しかし、木曜の夕べに開催される演奏会に向けライダーは、準備できなまま、迷路にさまよう姿は、カフカの『城』を想起させる。
宿泊するホテルの老ポーター・グスタフ、娘のゾフィー、孫のボリスがあたかも、ライダーの家族、すなわち妻、子どもに対するようにふるまう。現代音楽を演奏しようとするステファン、ミス・コリンズとの関係を修復するために指揮者として復帰を試みるブロツキーは、ライダーの青年期、老年期の暗喩とも読み取れる。



わたしたちが孤児だったころ』は、上海で育ったクリストファー・バンクスが、父母の失踪により、英国に戻る。父母を探索するために探偵になる。前半部をリアリズム、後半をバンクスの感情に沿った夢幻的な世界を描き出した。ビルドゥングスドラマと探偵小説のずれとも読める。



短篇集『夜想曲集: 音楽と夕暮れをめぐる五つの物語』は、いずれも音楽好きを自認するカズオ・イシグロの作品らしく、音楽に関する嗜好の蘊蓄がそれとなく散りばめられる。と同時に老年期の夫婦関係の在り方が模索される。文章も魅力的だし、絶品揃い。

以上が、「ノーベル文学賞」の対象作品である。受賞前に『忘れられた巨人』が刊行されたが、これはノーベル賞対象外らしい。


忘れられた巨人』は、アーサー王以後のブリテン島を舞台に、アクセルとベアトリス老夫婦の冒険の旅物語としてはじまる。ブリトン人とサクソン人の闘争と虐殺の歴史は、雌竜によって記憶を忘却させられた状態。老夫婦は息子を探す旅に出る。途中で、サクソン人戦士ウィスタン、青年エドウィンに出会う。アーサー王は魔術師マーリンに命じて雌竜クリエグの息を国全体を覆う霧とし、人々の記憶を奪ったのだった。アーサー王の甥ガウェイン卿は、雌竜をそのままの状態に保つべく、戦士ウィスタンと闘う。記憶を巡る、あるいは記憶の回復を巡る神話的物語だ。語り手も、老夫婦から、ガウェインや船頭が語り手となる。
ファンタジー小説という趣向をどう受け止めるか、民族対立の寓意でもある『忘れられた巨人』では、アクセルが姫と呼ぶベアトリスの老夫婦が交わす会話の温かさに心なごむが、一方、以前の作品とは異なる文明批評が加わる。

さて、カズオ・イシグロのベスト作品は、通常ブッカー賞受賞作『日の名残り』か、臓器提供者として生まれた少年少女を描いたディストピア小説『わたしを離さないで』が挙げられる。しかし、私は、充たされざる者を現在のベストとしたい。読み手をてこずらせる前半と、カフカ的様相を呈する後半の融合と不条理感が突出する。予測不能な展開に魅せられる。

カズオ・イシグロについて、「信頼できない語り手」という表現が用いられる。とりわけ『日の名残り』の老執事は、つかえた貴族がナチスに協力していたにも係わらず、尊敬の念を失っていない。貴族を賛美する言葉が綴られている。もちろん、イシグロ氏に限らず、どの作家にとっても「私」が語る作品は、捏造あるいは欺瞞に満ちている可能性がある。語り手の信頼性という点では、たしかにカズオ・イシグロ作品に顕著であることは確かだろう。

まあしかし、読ませる作品を書いているということでは、ベストセラー作家であると言えよう。

カズオ・イシグロは読み始めると止められない。

映画化作品

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