アダム・スミス


堂目卓生アダム・スミス―『道徳感情論』と『国富論』の世界』(中公新書、2008.03)を新年の読書第一号として、読み終えた。


経済に詳しくないので、あくまで「思想書」として読んだことを前提としておきたい。結論を先に申せば、アダム・スミスは、市場礼賛の自由放任主義者ではなく、人間の「道徳」に支えられた社会的人間が市場に係ることによって、「見えざる手」に導かれて経済は発展し、資本が蓄積され、市場とはあまねく人々に富をもたらすべきものである、というのだ。



あまりに著名な「見えざる手」から自由放任主義者で市場原理主義者の元祖と規定されるスミスを、『道徳感情論』の社会的存在としての人間道徳から読み解き、『国富論』の見方を変容させる本書は、未曽有の金融不況の今こそ、読まれるべき本である。

実は、「見えざる手」(invisible hand)という表現は、『道徳感情論』と『国富論』に、それぞれ一回づつしか登場しない。

孫引きになるが、まずは『道徳感情論』から。


道徳感情論〈上〉 (岩波文庫)

道徳感情論〈上〉 (岩波文庫)

彼ら(富裕な人々)は、見えざる手に導かれて大地がそのすべての住民の間で平等な部分に分割されていた場合になされただろうのと、ほぼ同一の生活必需品の分配を行うのであり、こうして、それを意図することなく、それを知ることなしに社会の利益を推し進め、種の増殖に対する手段を提供するのである。(『道徳感情論』四部一章)


続き、『国富論』から、一回のみ「見えざる手」が使用された箇所を引用する。


国富論 1 (岩波文庫 白105-1)

国富論 1 (岩波文庫 白105-1)

確かに個人は、一般に公共の利益を推進しようと意図してもいないし、どれほど推進しているかを知っているわけでもない。(中略)個人はこの場合にも、他の多くの場合と同様に、見えざる手に導かれたて、自分の意図の中にはまったくなかった目的を推進するのである。それが個人の意図にまったくなかったということは、必ずしも社会にとって悪いわけではない。自分自身の利益を追及することによって、個人はしばしば、社会の利益を、実際にそれを促進しようと意図する場合よりも効果的に推進するのである。(『国富論』四編二章)


堂目卓生氏は、アダム・スミスの『道徳感情論』を解読しながら、スミスの「幸福」についての考えを示す。スミスは、他者への「同感」がよく言われるところである。また、他者との関係では、胸中の「公平な観察者」が、客観的に感情や行動を判断し社会的人間として構築される、というのだ。

アダム・スミスによる「幸福」の定義とは、堂目卓生氏の文章を引用すると、

心の平静を得るためには、最低水準の収入を得て、健康で、負債がなく、良心にやましいところがない生活を送らなければならない。しかし、それ以上の財産の追加は幸福を大きく増進するものではない。以上がスミスの幸福論である。(p.82)


となり、堂目卓生氏は、「スミス氏は、最低水準の富が得られない場合、人は悲惨な状態に陥ると考える。」という。アダム・スミスの文章は次のようになっている。

この状態(健康で、負債がなく、良心にやましいところがない状態)につけ加えうるものは、ほとんどないにしても、それから取り去りうるものは多い。この状態と人間の繁栄の最高潮との間の距離は取るに足りないとはいえ、それと悲惨のどん底との間の距離は無限であり、巨大である。(『道徳感情論』一部三編一章)


つまり、一定水準の富さえ確保できれば、それ以上は無限大の人も普通の人も「幸福」には差がないということであり、だからこそ、一定の水準に満たない場合は、超えられない深淵がある「悲惨」というほかないわけだ。


まさしく、昨年のアメリカ発の未曽有の金融危機により、日本でも「悲惨」な人たちが増えている。今こそ、古典であるアダム・スミス道徳感情論』が指針になり得る。スミスは、急激な変革よりも、「徐々に」「しだいに」という表現をしている。アダム・スミスの「自然的自由の体系」が、時代が一回りして21世紀の世界経済への提言になり得る。人間の「心の平静=幸福」を取り戻すことになる。本書は、新書の形で出版されたが、内容的には、きわめて大切なことを説いている。