芸術崇拝の思想


松宮秀治『芸術崇拝の思想ー政教分離とヨーロッパの新しい神』(白水社、2008)を読了した。既に柄谷行人三浦雅士が書評を書いているので、主な論点を整理するため、まず二人の書評を引用しておく。


芸術崇拝の思想―政教分離とヨーロッパの新しい神

芸術崇拝の思想―政教分離とヨーロッパの新しい神

本書は、芸術崇拝が西洋における近代国家の形成の過程で生じたことを明らかにするものである。通常、芸術崇拝はロマン主義において生じた、また、ロマン主義から民族性を重視する思想が出てきた、と考えられている。しかし、著者は、芸術崇拝は啓蒙(けいもう)主義から生じたと考える。また、ロマン主義啓蒙主義の対立物ではなく、啓蒙主義のなかに胚胎(はいたい)する要素だと見る。さらに、啓蒙主義は絶対主義王政を基礎づけるイデオロギーとして機能したという。たとえば「啓蒙専制君主」と呼ばれる体制があったが、むしろそれこそ啓蒙主義の本来のあり方である、と。/ 啓蒙主義は宗教を斥(しりぞ)ける。ゆえに、教会を超える専制的王権を確立するには、啓蒙主義が必要だった。ところが、宗教なしには、多数の臣民を統合することができない。国家が宗教のかわりに見いだしたものが芸術宗教(芸術崇拝)であり、その「神殿」が美術館である。つまり、芸術崇拝は、ヨーロッパの近代国家にとって不可欠なものとして出てきたのである。啓蒙主義ロマン主義といった概念で考えているかぎり、芸術が根本的に近代国家の産物であることがわからない。本書はそのことを明確に示した。/芸術崇拝および美術館は世界各地に広がった。日本でも明治以来普及した。それは国民国家の形成に大きな役割を果たしたのである。現在、国民国家が十分に確立した地域では、もはや芸術(文学・美術・演劇・建築)は不可欠ではないようにみえる。しかし、今も国家は「芸術」のために膨大な金をつぎこんでいる。その必要があるからだ。/これに加えて、「芸術崇拝」が近代資本主義の産物でもあるということを忘れてはならない。たとえば、作品の「芸術的価値」は経済的価値と区別される。しかし、現に、経済的な価値をもつからこそ芸術の価値は高く、それゆえ芸術家の地位も職人より高いのである。近年の美術界では、芸術的価値と経済的な価値を区別することもしなくなっている。作品の価値は完全に市場の価格ではかられている。作品が最後に納められる神殿であったはずの美術館は、経営難のため、作品を市場に売りに出している。しかし、こうした事態は「芸術宗教」を解体するものではない。芸術が根本的に国家と資本の下にあることを見ないなら、反芸術を志向することは、純粋芸術を求めることと同様に不毛である。(柄谷行人朝日新聞2008年12月7日)


柄谷氏の書評は、『芸術崇拝の思想』を語りながも、自らの思考を述べている。特に、「経済的価値」を持つからこそ「芸術的価値」が高いとの指摘は、市場の商品となった「芸術」のありようを指摘していかにも柄谷的言説でまとめている。

一方、三浦氏の書評は、対象に即した読解文で書かれ、内容の要約として解り易い。

いわゆる芸術はここ二百年の産物にすぎないと著者は言う。そしてそれは西欧の特殊性に全面的に負う概念であって、西欧近代の政教分離によって成立した、すなわち、キリスト教が国家権力から離反した欠を埋めるために、科学と同じように、市民宗教として成立した、というのである。(中略)/大英博物館ルーブル美術館の違いを文化史上の切断面として捉え、西欧帝国主義の特殊性を印象づけた前著『ミュージアムの思想』も興味深かったが、本書はその延長上にあって、思索をさらに深めている。芸術概念を前近代にまで拡張することを戒め、日本人という非西欧の眼を有効に使おうとする手法もさらに磨きがかけられている。レオナルドは万能の天才というよりはヴァーチャル・リアリティをこととする魔術的芸術家であったという指摘も、西欧のユートピアと中国や日本の桃源郷は違うという指摘も腑(ふ)に落ちる。(中略)/夭折(ようせつ)した詩人や自殺した芸術家がもてはやされるのは日本だけではない。西欧においても同じであって、著者はそこに殉教者礼讃(らいさん)の伝統を見ている。これは、芸術が宗教となり、美学、美術史、美術批評という芸術神学が成立した以上は当然のこと、だいたい前近代の芸術家に「死に至るまでの創作上の葛藤(かっとう)」など存在しなかった、たとえばシェイクスピアモリエールなら台本がうまく書けなければ俳優に回るだけのことだっただろう、というのである。/だが、それも宗教としての芸術がまだ初々しかった頃(ころ)の話、いまや芸術家は「自己自身の存在を『作品化』する方向を拒否しだした」、なぜなら「授賞制度や栄典顕彰制度がほぼ社会的に完備され、死を賭してまでの存在の作品化が無用になったからである」。それにしても、自殺するなど論外にしても、「授賞制度や栄典顕彰制度のなかで自己高揚を図らねばならない『近代芸術』も虚(むな)しいものである」と、最後に付け加えている。痛烈な皮肉というほかない。/著者の考えを一言でいえば、芸術は「内部からの『思いあがり』と『不遜(ふそん)』から自滅の道をたどり、『芸術』『技術』『科学』が未分化のままにあった『アルス』の状態の謙虚な精神をふたたび自己のものとするとき再生の展望が得られる」だろうというものである。/現代芸術は思いあがったカジノ資本主義とともに自滅しつつあるわけだ。耳を傾けるべき見解である。(三浦雅士毎日新聞 2008年12月21日)


この二つの書評の前には、付け足すこともないのだが、松宮秀治という比較的知名度が低い著者の、突然の噴出に著者は何ものなのかという疑問が出る。1941年生まれということは、柄谷氏と同年齢である。世代的に同時代を生きていた学者だが、本書によって知識人として松宮両氏の、柄谷氏とは対照的な論壇への登場の仕方は、きわめて興味深い。


ミュージアムの思想

ミュージアムの思想


松宮氏は、『ミュージアムの思想』(白水社、2003)によって登場したわけだが、西欧思想史に造詣が深く、学術的なスタイルで論理的に言説が披瀝される。いうところの学術派タイプであり、評論家的な自己表現をメディアを通して発信してこなかった。国会図書館NDL−OPAC「雑誌記事索引」で検索してみると、14件の論文がヒットした。「ヴィンケルマンの「ギリシャ美術模倣論」とその時代」が8回に分けて立命館大学の紀要『外国文学研究』に連載されている。


このヴィンケルマン「ギリシャ美術模倣論」が、「芸術」が宗教から自立する方向性をギリシアという幻想の「発見」に求めたところにあった。松宮氏は、啓蒙思想ロマン主義の対立などないことに多くの頁をさいている。極論すれば、本書は、序章「芸術家伝説」第一章「芸術の価値とは何か」と第五章「制度化された芸術」終章「芸術崇拝の行方」のみでほぼ、著者の意図が分かる。


第二章以下「革命思想としての啓蒙主義」「芸術神学の誕生」「民族と歴史との一体化」は、ドイツを中心とした西欧思想史・精神史に大きく迂回しているため、論旨が複層してきて、読者は混乱に陥る。実際、私も第二章から第四章までは苦労しながら読み進めた。テーマが拡散しすぎていて、というより数冊分のテーマが内包されているので、いささか読み進めるには困難が伴った。


第五章「制度化された芸術」に至り、次の文章に出会うことで、大いに納得できた次第である。

きわめて逆説的なことだが、芸術否定の精神と思想が遍在していた前近代世界においての方が、芸術が神となった近代世界においてよりも「芸術」ははるかに偉大だった。換言すれば、「芸術」が芸術でなかった時代の方が、芸術がより本物の芸術であることができた。(p.222)


複製技術時代の芸術 (晶文社クラシックス)

複製技術時代の芸術 (晶文社クラシックス)


ベンヤミンのいう「アウラ」を喪失した芸術は、展示による暴走に走るわけだが、芸術を等身大のものとして見ることが、「芸術神学」=「芸術崇拝」を解体することができるのであり、近代の芸術家は、芸術家自体が作品となってしまったが、更には「表彰制度」のなかで自己高揚しなければならない、というのも虚しい、と著者は言う。


松宮秀治『芸術崇拝の思想』が、「芸術」という概念に安住している人たちへの挑発的書物になっていることは大きく評価されていいだろう。