フロイト=ラカン
- 作者: 新宮一成
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2005/05/11
- メディア: 単行本
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待望のというべきか、やっとフロイト=ラカンに関する入門書として、新宮一成・立木康介編『フロイト=ラカン 知の教科書』(講談社選書メチエ)が出た。早速購入、一読する。
本書の構成は、以下のとおり。
1)ラカンからフロイトへ遡ること
2)フロイト=ラカンのキーワード
3)三次元で読むフロイト=ラカン
4)知の道具箱
の四部構成であり、1部、2部はおなじみのラカン的言説、
「無意識は一つの言語活動として構造化されている」
「人の欲望は他者の欲望である」
「すべてはシニフィアンの構造から発生する」
「ファルスは他者の欲望のシニフィアン」
「性関係はない!」
などについて、解説・説明しているのだが、隔靴掻痒の感は否めない。つまり、読者は、いつもながら分かったようで、結局分からないという状態に陥る。
「知の道具箱」では、ラカンのテキストとして、『エクリ』の主要論文を読むことが勧められている。
もう入門書などを読む必要はない。『エクリ』を読むことだ。(p.213)
『エクリ1,2,3』の日本語訳は、1971年、1977年、1981年の翻訳、20〜30前のもので、第一、本書の著者たちも、原則として原書をもとに話を進めているではないか。上記の『エクリ』とは、原書を指していることは明らかだ。
要するにラカンは、『エクリ』の中では同じことしか言っていない、と述べているわけである。そのいつも同じ議論とはいったい何だろうか。ラカンはそれを簡潔にこう述べている。「無意識は純粋に論理的なものに、言い換えればシニフィアンに、属している」(p.219)
翻訳のあるものは、誤訳が多かろうと、何とか挑戦できるので、とりあえず『エクリ』の未読論文を読むこと。しかしながら、2001年には『その他のエクリ』(Autres ecrits, 2001)が出版されている。原書を前提にして、著者は、読者に読むことを要請している。セミネールに関しては、岩波書店からⅠ、Ⅱ、Ⅲ、Ⅶ、ⅩⅠの翻訳が出され、Ⅴが近々の発売であり、語られたディスクールであるから、比較的読みやすいだろう。
しかし、ラカン学者にお願いしたいのは、あくまでラカンの自著『エクリ』の正確な翻訳本の出版と、『その他のエクリ』の翻訳出版を早急に進めることである。いくら多くの解説書、入門書を読んでも、肝心のラカンのテクストが提示されていないと、多数の読者がラカンに近づくことができない。
吉本隆明がしばしば指摘してきたように、日本の学者は、原書の翻訳をせず、輸入思想に言及する性癖がある。まず、翻訳書を提供し、その後、研究書や解説書を出すべきなのだ。原書レベルでの言及ですむのは学会内で通用する範囲であることの自覚が欲しいと思うのは、研究を仕事にしていない市民の熱き思いとして代弁しておきたい。ジジェクの翻訳が圧倒的に多いのは、翻訳のしやすさと、読者の受け狙いとしか思えない。どうなのだろうか?
まあ、それでも、本書の眼目は、3部「三次元で読むフロイト=ラカン」にある。ここだけは、まだ理解できるし、刺激的であった。とくに「仏教とフロイト=ラカン」「歴史論争とフロイト=ラカン」「貨幣論とフロイト=ラカン」の三章は、読み応え十分だった。
「仏教・・・」では、親鸞の浄土思想とラカンとの共通性、「歴史論争・・・」では、歴史修正主義について、実証主義の陥穽をも見極めながら、「シニフィアンは他のシニフィアンに対して主体を代表する」という定義から、ホロコースト問題や、南京大虐殺論争に言及している。「貨幣論・・・」は、既に中沢新一が、指摘した「純粋贈与」「贈与」「交換」が、ラカンの「ボロメオの結び目」に重ねている言説などに触れながら、ラカンを通した「貨幣」とは、
貨幣とは「そのゼロ象徴の欠如のシニフィアン」、つまり自分自身(が指し示しているもの=ファルス)がないということを言っているシニフィアン、自分自身が当の対象を指示すると同時にその存在を否定しているシニフィアンである。(p.176)
であり、同種のことをマルクスが述べているとして、
商品が貨幣となり、貨幣が資本として自立化してゆく・・・というマルクスの描く過程は、「疎外」というシニフィアンと相携えて、ラカンの中で固有の新たな意味を帯びることになる。(p.177)
「剰余価値」に由来する「剰余享楽」の概念にも、ラカンとマルクスの連続性を指摘している。このあたりは、ぞくぞくしながら読んだ。
本書は比較的わかりやすく、よく健闘しているのだが、ラカンには最適な入門書などないことをも証明している。皮肉なことに、ラカンの場合、入門書のなかで入門書類が不要であることに言及しなければならない。にもかかわらず、ますます、私たちにとって、ジャック・ラカンが必要とされているのだ。
タイガー&ドラゴン
宮藤官九郎脚本のTVドラマ『タイガー&ドラゴン』第5話「厩火事」を観る。通常はTVドラマなど観ないのだが、『真夜中の弥次さん喜多さん』を観て、そのハイテンポでシュールな面白さが、テレビではどうなのだろうか確認してみたくなった。
漫才コンビの古田新太と清水ミチコが、今回のメインゲスト。いわゆる「どつき漫才」の夫婦コンビ。古典落語『厩火事』を、長瀬智也が高座で語り始める。孔子が大切にしていた白馬を、厩火事で死なせてしまった弟子たち。すると画面は、中国の孔子と弟子たちの光景に変わるといった按配で、ドラマにしては、映画のようなカットバックが多用される。次の話として、主人が大切にしていた皿を割ってしまった女房が、「皿は大丈夫か」と奥さんの体の心配をしないので、離縁した例を持ち出す。もちろん、このシーンも階段の現場へカットバックされる。
さて、古田新太の自分への愛情を心配する清水ミチコがガンということにして、夫の反応を試す。このあたりの呼吸は実に上手い。夫婦の愛が確かめられると、画面が突然清水ミチコのモノクロ写真に変わり、喪服を着た、西田敏行以下、林屋亭の面々。。。その前のシーンで清水ミチコが病院を訪れている。伏線もしっかり書き込まれているのだ。
身長差のある伊東美咲と岡田准一が、岡田のアパートまで歩くシーンに脚本家クドカンの才気が観られるなど、いたるところに、クドカン印が押されている。シークエンスの一つひとつが、よく練られている。せりふと映像センスが抜群。TVドラマ、あなどるなかれ!『タイガー&ドラゴン』は、絶対、おもしろい。
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