『羊の歌』は加藤周一の<優秀な知的観察者>に共感できるかどうかだ

『羊の歌』

 

かねてから懸案だった加藤周一『羊の歌』正・続編および、『「羊の歌」その後』を読む。かつて所持していた新書二冊は、所在不明のため購入しなおした。2014年に改版され活字が大きくなっていた。

 

羊の歌―わが回想 (岩波新書 青版 689)

羊の歌―わが回想 (岩波新書 青版 689)

  • 作者:加藤 周一
  • 発売日: 1968/08/20
  • メディア: 新書
 

 

 

続 羊の歌―わが回想 (岩波新書 青版 690)

続 羊の歌―わが回想 (岩波新書 青版 690)

  • 作者:加藤 周一
  • 発売日: 1968/09/20
  • メディア: 新書
 

 

 

『羊の歌』余聞 (ちくま文庫)

『羊の歌』余聞 (ちくま文庫)

  • 作者:加藤 周一
  • 発売日: 2011/12/01
  • メディア: 文庫
 

『羊の歌』 については、多くの評者が書いているので、特に詳述しない。

対象と距離を置き、常に冷静に処する加藤周一加藤周一たる所以を知ることになる。

丸山眞男に関する書物は、毎年数冊刊行されるが、加藤周一についてはそれはほとんどない。


加藤周一は、生涯<観察者>であった。

「私の立場さしあたり」に「言葉」「知識」「信念」「政治」について書かれている。「いかなる理解も、具体的な対象の抽象化を伴う」と「追記」で明記しているとおり、「価値について私は相対主義者であり、特定の価値を信じて疑わないのは、おそらく歴史と社会についての、また人間の生理・心理学的機構についての、情報の不足、無知の結果だろうとさえ、考えている」に<観察者>としての加藤周一の立ち位置が示されている。

 

 鷲巣力著『加藤周一はいかにして「加藤周一」になったか』(岩波書店,2018)は、「『羊の歌』を読み直す」の副題を持つ評伝だが、『羊の歌(正・続)』執筆により、名目とも「加藤周一」になったとする。

 

 

 

 

しかし、加藤周一は『1946・文学的考察』(中村真一郎福永武彦と共著.真善美社、1947)出版時に、「加藤周一」になっていた。

 

雑種文化―日本の小さな希望― (講談社文庫)
 

 あるいは『雑種文化』(大日本雄弁会講談社,1956)刊行によって「加藤周一」になっていたと解すべきだろう。

『羊の歌』は、加藤周一バイアスの修正の試みであり、鷲巣力の著者が面白くないのは、解説の解説になっており、新鮮味がないからである。直接『羊の歌』を読むのが良いのは申すまでもない。

鷲巣力『加藤周一はいかにして「加藤周一」になったか』の第Ⅱ部第4章までは、『羊の歌(正・続)』の祖述で、新しい発見はない。残るは第Ⅱ部第5章「『羊の歌』に書かれなかったこと」の内容に尽きる。

しかし結論から言えば、第Ⅱ部第5章からは、新しい事実は出てこない。ヒルダさんとの「離婚協議」があったようだが、矢島翠との同居の時期も記載されているが、離婚理由や新しい恋人との関係など、よく解らない点が多い。

 

『羊の歌』は自伝あるいは「私小説」だろうが、肝心なというか重要な箇所には触れていない。もちろん、自伝は、書き手にとって不都合な部分を隠蔽する権利もあるだろう。しかし・・・「共感」という点では、加藤周一にはありえないと言わざるをえない。

加藤周一は『羊の歌(正)』の「あとがき」に次のように記している。

今俄かに半生を顧みて想い出を綴る気になったのは、必ずしも懐旧の情がやみ難かったからではない。私の一身のいくらか現代日本の平均にちかいことに思い到ったからである。/中肉中背、富まず、貧ならず、言語と知識は、半ば和風に半ば洋風をつき混ぜ、宗教は神仏いずれも信ぜず、天下の政治については、みずから星雲の志をいだかず、道徳的価値については、相対主義をとる。人種的偏見はほとんどない。芸術は大いにこれを楽しむが、みずから画筆に親しみ、奏楽を興ずるには至らない。―こういう日本人が成り立ったのは、どういう条件のもとにおいてであったか。私は例を私自身にとって、そのことを語ろうとした。

さて、この「あとがき」に言うところの現代日本の平均にちかい」は大いなる誤解であろう。加藤周一は、東京山の手の上流階級に近いところで成長し、その環境を見るに「日本人の平均」にほど遠い。加藤周一が本気でこのように記したなら、そこに、策略があったとしか思えない。「共感」できないところである。


『羊の歌(正・続)』は自伝の形を借用した私小説に近いが、肝心の部分は「累を他に及ぼすことをおそれて、現存の名まえをあげず、話にいくらか斟酌を加えたところもある」とは、1946年に中西綾子と結婚し、1952年にオーストリア人のヒルダと出会い、後の1962年に綾子と協議離婚をし、その年にヒルダと結婚している。

 

ヒルダの家族やヒルダとの協議離婚が、1974年に成立するが、その前年に矢島翠と同居している。これらの私的生活は、まったく触れていない。

 

 

三題噺 (ちくま文庫)

三題噺 (ちくま文庫)

  • 作者:加藤 周一
  • 発売日: 2010/01/06
  • メディア: 文庫
 

 私が加藤周一を評価するのは、『三題噺』(ちくま文庫,2010)である。この著書において加藤周一の基本的な生き方、思考法が記述されている、と思うからだ。石川丈山の隠棲による日常生活に徹する生き方、一休和尚が老いてから得た盲目の女人との官能に溺れる生き方、の「言葉の構造と世界の構造とが相互に他を反映する」という「加上」の理論で相対化する富永仲基の形而上学の知性、日常・官能・知性の世界を「小説」という形式で表現した加藤周一の希求する三つの世界であ。
この一冊は、加藤周一がよく解り、共感できる著書である。

 

加藤周一自撰集』全10冊(岩波書店,2009~2010)は所有するも、部分的にしか読んでいない。

 

第10巻 1999年~2008年 (加藤周一自選集)

第10巻 1999年~2008年 (加藤周一自選集)

  • 作者:加藤 周一
  • 発売日: 2010/09/18
  • メディア: 単行本
 

 平凡社から出ている『加藤周一セレクション』全5冊も所有するが積読

 

加藤周一セレクション 1 (平凡社ライブラリー)

加藤周一セレクション 1 (平凡社ライブラリー)

  • 作者:加藤周一
  • 発売日: 1999/09/13
  • メディア: 文庫
 

 かもがわ出版から出ている『加藤周一講演集』『加藤周一対話集』もほぼ所蔵するも未読多し。

 

加藤周一戦後を語る (加藤周一講演集)

加藤周一戦後を語る (加藤周一講演集)

  • 作者:加藤 周一
  • 発売日: 2009/06/01
  • メディア: 単行本
 

 

 

過客問答 (加藤周一対話集)

過客問答 (加藤周一対話集)

 

 加藤周一の代表作といえば『日本文学史序説』だろう。

 

日本文学史序説〈上〉 (ちくま学芸文庫)

日本文学史序説〈上〉 (ちくま学芸文庫)

  • 作者:加藤 周一
  • 発売日: 1999/04/01
  • メディア: 文庫
 
日本文学史序説〈下〉 (ちくま学芸文庫)

日本文学史序説〈下〉 (ちくま学芸文庫)

  • 作者:加藤 周一
  • 発売日: 1999/04/01
  • メディア: 文庫
 

 また『日本文学における時間と空間』(岩波書店,2007)も重要である。

 

日本文化における時間と空間

日本文化における時間と空間

  • 作者:加藤 周一
  • 発売日: 2007/03/27
  • メディア: 単行本
 

 その他、重要な著作が多数ある。平凡社から出ている『加藤周一著作集』全24巻も後半の著作を採録していない。今後も『加藤周一全集』が出る見込みはない。

 

加藤周一著作集 (24)歴史としての20世紀

加藤周一著作集 (24)歴史としての20世紀

  • 作者:加藤 周一
  • 発売日: 1997/11/01
  • メディア: 単行本
 

 朝日新聞に月に1回掲載されていた『夕陽妄語』は掲載の都度読んできた。

 

 

 

夕陽妄語1 1984‐1991 (ちくま文庫)

夕陽妄語1 1984‐1991 (ちくま文庫)

  • 作者:加藤 周一
  • 発売日: 2016/02/09
  • メディア: 文庫
 

 

 

夕陽妄語2 1992‐2000 (ちくま文庫)

夕陽妄語2 1992‐2000 (ちくま文庫)

 

 

 

夕陽妄語3 2001-2008 (ちくま文庫)

夕陽妄語3 2001-2008 (ちくま文庫)

 

 

 

夕陽妄語 7

夕陽妄語 7

  • 作者:加藤 周一
  • 発売日: 2004/05/14
  • メディア: 単行本
 

 

夕陽妄語 8

夕陽妄語 8

  • 作者:加藤 周一
  • 発売日: 2007/05/08
  • メディア: 単行本
 

 この先、加藤周一の著作を読み続けることはおそらく出来ないだろう。部屋の中に埋もれている加藤周一の著作をすべて探し出す時間はない。しかしながら、丸山眞男加藤周一がいない時代を私たちは生きているのも事実だ。

 

「知の巨匠」が不在の時代。今このとき、丸山眞男ならどのような発言をするだろうか。あるいは、加藤周一ならどうのような言葉を発するだろうか。<不在の時代>とは、指標となる知の巨人がいない今のことだ。

 

 

 

 

 

トルストイは『セルギー神父』が経験する聖人への段階を示した(宗教批判的に)

 

セルギー神父

 

トルストイ原作の映画『セルギー神父』(1978)は、イーゴリ・タランキン監督による作品で、セルゲイ・ボンダルチュクが主演した、実に、19世紀ロシア社会のロシア正教という一種異端のキリスト教世界と現世のかかわりを、淡々と描く傑作であった。

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セルゲイ・ボンダルチュク生誕100年周年記念上映で、あの大作『戦争と平和』の監督であり、もちろん、メインは『戦争と平和』4部作の一挙上映だが、ボンダルチュク出演の『セルギー神父』は小品だが、ロシアの田舎地方での住民による、神の存在に関する会話から始まり、キャメラは次に話す人物を映さず、少しづづキャメラが移動しながら話す人物をとらえる手法は、巧みにスタンダードサイズの画面に、見る者を引き付ける磁力がある。

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主人公スチェパン・カサツキーは、少年時代から自尊心が高く、何事においても人から賞賛されることを願う性格であった。美しき貴族の女性と婚約する。しかし、彼女は女官として皇帝の寵愛を受けたことを知ると、婚約を破棄し、修道士となる。

 

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修道院内は、俗世間と同様で、形式だけの祈祷や儀式、偽善や嘘に満ちており、セルギー神父は願い出て、庵室の隠遁僧となる。蠱惑的な女性の誘惑を退け、少年の病を治したことで、著名な神父となる。

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修道院で9年、隠遁の庵室で13年が過ぎた。修道僧として有名になると、セルギーは、自分の信者たちへの行いが、実はすべてが教会への貢ぎ物になっていることに気づく。ある商人が娘のノイローゼを治して欲しいと頼みこみ、現れた娘は、セルギー神父の手を自分の胸にあてて、神父に抱きついたのだった。

 

セルギー神父は、あらかじめ用意しておいた農民の服を着用し、庵室から逃亡し、なぜか少年時代に知っていたパーシェンカ、彼女は、野暮ったく、取るに足りない娘だったが、今とでは、その平凡な女性に、会いたいと願い、長い道のりを歩いて、パーシェンカが住む狭い住居にたどり着いた。パーシェンカは、子どもたちとその夫と同居し、娘が産んだ赤ん坊の世話をしていた。きわめてつつましい生活だった。彼女は、老齢になっているはずだが、その表情に神父が救いを見て、別れを告げ放浪の旅に出る。

 

 

セルギー神父は放浪者として裁判にかけられ、シベリアに流刑される。原作では、次のように結ばれている。

「シベリアでは、裕福な百姓の開墾地に住むようになり、今もそこで暮らしている。彼は、主人の菜園で働き、子供たちに勉強を教え、病人の世話をしながら暮らしている」(544頁「セルギー神父」)

 

 

トルストイの生涯 (岩波文庫)

トルストイの生涯 (岩波文庫)

 

 ロマン・ロランは、『トルストイの生涯』(岩波文庫,1960)の中で、「セルギー神父」の核心を、次のように指摘している。

「主題は自尊心を傷つけられた男が神を孤独と禁欲の中に求めるが、
最後に他人のために生活して人びとの中に神を見いだすのである」(160頁『トルストイの生涯』)

 

戦争と平和1 (光文社古典新訳文庫)

戦争と平和1 (光文社古典新訳文庫)

 

 

 

トルストイは、『戦争と平和』『アンナ・カレーニナ』のなど長編のみならず、『イワン・イリイチの死』『セルギー神父』など、中・短編に優れた作品が多く、文字どおり19世紀ロシア文学の巨匠であることが確認できる。

 

 

なお、トルストイ著「セルギー神父」(覚張シルビア訳)は、加賀乙彦編『ポケットマスターピース04 トルストイ』(集英社,2016)に採録されている。引用は本書からであり、「セルギー神父」は生前には出版されず、死後1911年に『トルストイ死後作品集』として初めて出版されたことを付け加えておきたい。

 

戦争と平和 [DVD]

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  • 発売日: 2003/07/11
  • メディア: DVD
 

  

 

戦争と平和 [DVD]

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  • 発売日: 2006/04/21
  • メディア: DVD
 

 

 

終着駅 トルストイ最後の旅 [DVD]

終着駅 トルストイ最後の旅 [DVD]

  • 発売日: 2016/12/02
  • メディア: DVD
 

 

 

 

 

 

 

 

ジャック・リヴェットは舞台劇を導入し映画を再生させた

映画は20世紀最大の芸術である


新型コロナウィルスの世界的蔓延によって、パンデミックとなり、芸術活動全般が制御されている。アメリカの爆発的感染者の驚くべき増大により、ブロードウェイや、ハリウッド系の映画館が閉鎖されている。従来のように、映画が映画館で上映される環境は、すっかり変わってしまった。

NetFlixなど映像配信サービスの好調は、映画を視る環境の変化が著しいことを示している。しかし、映像配信というスタイルが映画を視る環境を変えたというより、そもそも映画は、20世紀に終わっていたのだ。

フランスで起きた20世紀最大の映画の革新運動=ヌーヴェル・ヴァーグ(新しい波)がもたらした作品は、もはや20世紀映画の古典となった。

ジャック・リヴェット(1928~2016)、エリック・ロメール(1920~2010)、クロード・シャブロル(1930~2010)、フランソワ・トリュフォー(1932~1984)、ジャン=リユック・ゴダール(1930~)等による一連の映画革新運動によって製作された映画は、既に古典となって残されている。20世紀は映画の時代だった。

 

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ジャック・リヴェット傑作選

ヌーヴェル・ヴァーグを代表するジャック・リヴェットの映画に触れてみたい。

 

 

『修道女』『セリーヌとジュリーは舟でゆく』『彼女たちの舞台』

 

ジャック・リヴェット(1928-2016)の作品で未見もの『セリーヌとジュリーは舟でゆく』(1976)『王手飛車取り』(1956)『北の橋』(1981)『彼女たちの舞台』(1989)『パリはわれらのもの』(1960)『修道女』(1966)を続けて観た。スクリーンでみた『美しき諍い女』(1991)『パリでかくれんぼ』(1995)『ランジェ公爵夫人』(2007)は今回除外するとして、ジャック・リヴェットの映像論に迫ってみたい。

 

修道女 Blu-ray

修道女 Blu-ray

  • 発売日: 2014/10/24
  • メディア: Blu-ray
 

 1.『修道女』(1966)
『修道女』が溝口健二西鶴一代女』にインスパイアされたジャック・リヴェットは、ディドロ原作の「修道女」を映画化する。
あらためて、『修道女』を見てみると、ディドロ原作の「修道女」は、18世紀貴族

の娘の生きる道は、結婚か修道院かの二者択一しかないこと、姉二人が持参金により結婚したため金がない両親は、三女アンナ・カリーナを供託金をもとに、修道院に強引に閉じ込めようとしているところから始まる。修道服を着た女性が美しく、その美学的側面と、親の子どもに対する差別的虐待の残酷さが際立つ。

最初の修道院では、院長に優しく接してくれたものの、院長の死後あとを継いだ院長は、アンナに対してあたかも魔女に対する仕打ちのように残酷な対応に、アンアは疲れ果て、司法に頼り、何とか次の修道院に移籍する。ところが、次の修道院は、規律に甘く、修道女同士が愛し合うような雰囲気。直接的にではなく、あくまで間接的だが、とりわけ院長のアンナへの執着がひどい。耐えきれなくなったアンナは、神父の援助で脱出するも、神父に迫られて逃亡する。逃亡の果て、洗濯女などを経験するが、最後は物乞いに零落する。
零落したアンナ・カリーナを救ったのが、娼館の女経営者だった。しかし、娼婦たちは貴族のパーティに参加、アンナ・カリーナも従って行くが、途中で窓から身を投じる、あっけない衝撃的なラストに見る者は茫然となる。140分の長さを感じさせない緊迫感の持続には敬服する。私的には、『修道女』がリヴェットのベスト・フィルム。

『修道女』は、溝口健二西鶴一代女』とは、まったく別作品になっている。『修道女』の高貴な輝きは、男たちへの献身的奉仕ではなく、時代的状況に置かれた女性の自立的悲劇と捉えたい。

 

 

セリーヌとジュリーは舟でゆく [DVD]

セリーヌとジュリーは舟でゆく [DVD]

  • 発売日: 2007/12/19
  • メディア: DVD
 

 

 

2.『セリーヌとジュリーは舟でゆく』(1976)

これは傑作であった。

ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』を踏まえた作品づくりになっている。
公園にて魔術の本を読んでいたジュリー(ドミニク・ラブリエ)の前を、セリ-ヌ(ジュリエット・ベルト)が走りぬける。ジュリーはセリ-ヌを追いかけ、あれこれの展開の後に、共同生活を始めることになる。二人は、一個のボンボンを舐めることによって、別の世界で起きた事件(一人の男をめぐり、二人の美女ビュル・オジェとマリー=フランス・ピジエが、男の前妻の娘を殺害しようとする)の中に入り込み、付き添い看護婦になり、殺害を妨害しようとするお話。

物語が進行するに従い断片として示されていたピースが埋まり、事態の全貌が視えてくるという摩訶不思議な仕掛けが素晴らしい。既に起きた少女への殺人事件を、セリーヌとジュリーは『不思議の国のアリス』の手法により、二人が交代で看護婦となり、殺害を回避させることになる。
殺害回避後、二人は役割を交換して、冒頭のシーンに戻り、セリーヌが魔術の本を読んでいると、そこにジュリーが通りかかる。同じ事件が反復されるのか、あるいは別の世界(例えば『鏡の国のアリス』)に入るのかは、視る者の想像力に任されるというわけだ。

それにしても、実際にセリーヌとジュリーが舟に乗り込み、別世界の人たちと遭遇するシーンは秀逸すぎて笑ってしまうほどだ。『セリーヌとジュリーは舟でゆく』(186分)は、傑作である。

 

シネマ2*時間イメージ (叢書・ウニベルシタス)

シネマ2*時間イメージ (叢書・ウニベルシタス)

 

ドゥルーズは、『シネマ2*時間イメージ』(法政大学出版局,2006)の中で、

「『セリーヌとジュリーは舟でゆく』は、おそらくタチの作品とともにフランスの喜劇映画の最高傑作の一つである」(14頁)

と絶賛している。

 

彼女たちの舞台 [DVD]

彼女たちの舞台 [DVD]

 

3.『彼女たちの舞台』(1989)

かつて有名な女優であり、今は演劇学校を開催しているコンスタンス(ビュル・オジェ)のもとで、四人の女優志望者が学んでいる。アンナ(フェイリア・ドゥリバ)、クロード(ローランス・コート)、ジョイス(ベルナデット・ジロー)、セシル(ナタリー・リシャール)。四人は郊外の古い屋敷で共同生活をしている。セシルが恋人と同棲するため屋敷を出ることになり、ポルトガルから来て同じ演劇学校で学ぶルシア(イネス・ダルメイダ)が、代わりに共同生活に入ることになる。舞台稽古が、現実の生活に関係しながら、ある政治的事件にかかわることになる、まずは登場人物の設定を。

 

ジル・ドゥルーズの「リヴェットの三つの環」(229-305頁『ドゥルーズ・コレクション2』河出文庫,2015)では、リヴェット『彼女たちの舞台』をABCの「三つの環」に喩えて論じている。

 

 まず第一の環を、ドルーズはAと名づける。ビュル・オジェが演劇指導者として、すべてが女性の劇団で演出している。若い女優志願の女性たちは、ひとりひとり舞台劇の役を演じる。この設定をドゥルーズはAと名づけ、第一の環としている。『彼女たちの舞台』の根底を形作る環としているのだ。


「リヴェットをインスパイアして止まないのは、4人の娘がつくるこのグループであると同時に彼女らの個体化、こっけいな娘と元気のいい娘、不器用な娘と器用な娘、そしてとりわけ<太陽の娘と月の娘>である。これが第二の環であり、それは第一の環に内在している」(300頁)

ドゥルーズは述べる。

第三の環は、四人の娘に関係する正体不明の男に対する対応、一人の娘は男に愛される、残りの三人は男を殺そうとする。一人は劇的に、もう一人は冷徹に、もう一人は衝動的に、三番目の娘は棒切れを使って、事をやりとげる。「この三つのシーンの見事さ、これこそがリヴェットの偉大な瞬間だ。これが演ずるということの第三の意味である」とドゥルーズは第三の環Cとする。

役者たちが演ずることから『彼女たちの舞台』を読み解くドゥルーズの映画論は、『シネマ*イメージ』とはいささか趣を異にする。

このドゥルーズの解読では、解りにくい。以下、映画情報の解説から。

「パリで共同生活を営む4人の演劇学校の女生徒が、ミステリアスな事件に巻き込まれてそれぞれの内面の葛藤を顕わにしてゆく。仏ヌーヴェル・ヴァーグの先駆者とされながら長らく日本に紹介されなかった、「美しき諍い女」のジャック・リヴェット監督の本邦初公開作」(MOVIE WALKER)

「パリ郊外の古屋敷で共同生活をしている4人は演劇学校の女生徒。以前屋敷に住んでいた別の女生徒がやっかいごとに巻き込まれているらしく、稽古場にも屋敷にも何やら不穏な空気が渦巻き始めた。4人をつけまわす男、互いにつのる疑念、そして事件。それでも芝居の稽古は続く……」(映画.com)

以上の解説で、ほぼ本作の雰囲気が分かるだろう。

舞台演劇を勉強する四人の娘たちが遭遇する政治的な事件を、軽快に描いた作品とでも言えばいいだろう。この作品は、出演する若手女優の魅力を引き出しながら、偶然事件に巻き込まれる過程を、実にスリリングに蠱惑的に描いた傑作。156分という長さを感じさせない(しかし、リヴェットの作品を映画館でみることは今や困難であることも申し添えておきたい)。

 

三本に触れたが、ジャック・リヴェットは、ヌーヴェル・ヴァーグの先駆者的作家であり、初期短編『王手飛車取り』は、軽妙な味で、夫婦間のやりとり、それぞれに愛人がいる危険だが楽しいフィルムだった。

 

 長編第一作『パリはわれらのもの』(1960)は、ソルボンヌ大学の女学生アンヌ(ベティ・シュナイダー)が遭遇するある種の陰謀事件。兄の友人ジェラール(ジャンニ・エスポジット)がシェイクスピアの『ペリクリーズ』を演出している。アンヌは偶然そのリハーサルを見にいった場で、ヒロインの役を演じて欲しいとの依頼を受け引き受けるが、結果的に錯綜する様々な事件のため、演劇そのものは中止となる。

『パリはわれらのもの』で、リヴェットは演劇のリハーサルを映画の核に置いている。その後の作品に、しばしば<演劇のリハーサル>シーンが中心に置かれることになる先駆的フィルムとなっている。私的には、第一作はあまり評価できない。

 

ヌーヴェルヴァーグの先導者は、『カイエ・デュ・シネマ』の編集長であったエリック・ロメールジャック・リヴェットであることは記憶しておくべきことだろう。今回は、ジャック・リヴェットを取り上げたが、拙ブログでは、今後、クロード・シャブロルフランソワ・トリュフォー、そして最大の難物、ジャンリ=ュック・ゴダールにたどりつきたいと思っているのだが・・・・

 

 ジャック・リヴェット論は、今のところ単独の翻訳書や著書はない。以下の二冊の中に「ジャック・リヴェット」の項目があり、参考になる文献だ。

映画作家論―リヴェットからホークスまで

映画作家論―リヴェットからホークスまで

  • 作者:中条 省平
  • 発売日: 1994/07/01
  • メディア: 単行本
 

 

 

特に 矢橋透『ヌーヴェル・ヴァーグの世界劇場』(フィルムアート社,2018)は、映画と演劇の関係性、交錯を、作家別に捉えた、貴重な一冊なので特に推薦しておきたい。

 

◎その他の ジャック・リヴェットの代表作

 

美しき諍い女 (字幕版)

美しき諍い女 (字幕版)

  • 発売日: 2020/12/01
  • メディア: Prime Video
 

 

 

ランジェ公爵夫人  [レンタル落ち] [DVD]

ランジェ公爵夫人 [レンタル落ち] [DVD]

  • 発売日: 2009/04/03
  • メディア: DVD
 

 

 

パリでかくれんぼ [DVD]

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  • 発売日: 2000/05/20
  • メディア: DVD
 

 

 

恋ごころ [DVD]

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  • 発売日: 2002/12/21
  • メディア: DVD
 

 

 

ジェーン・バーキンのサーカス・ストーリー [DVD]
 

 

『裁かるるジャンヌ』以前のドライヤーのフィルムは「情熱」の現れだ!

『ミカエル』ほか・カール・Th・ドライヤーのサイレント作品

 

カール・Th・ドライヤーのサイレント作品6本を観た。DVD再生装置に不具合が起きたためPCにて再生した。結果として、サイレント映画を見るには、PCが好ましかった。
観た順とは異なるが、製作順に列挙すれば以下のとおりである。なお『裁かるるジャンヌ』(1927)以前の未見作品ばかりだった。

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カール・Th.ドライヤー

 

『裁判長』(1918)
『サタンの書の数ページ』(1919)
『不運な人々』(1921)
『むかしむかし』(1922)
『ミカエル』(1924)
『あるじ』(1925)
裁かるるジャンヌ』(1928)

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裁判長

『裁判長』は親子二代にわたる、女性を巡る因縁めいた話。祖父が父親に説教している。父親が、若い時の女性に対する過ちを、そのため祖父が死去したことがまず映像として示される。そのことを戒めとし聞かされていたカール・ヴィクトルは、裁判長となって故郷へ帰る。最初の裁判は、かつてカールが愛した女性の娘が起こした子ども殺害事件を担当することであった。
監督自身が、私生児であり母親が本作の女性と同じように妊娠し最初の子どもがドライヤーだったこと、更に二人目の子を妊娠したがため母親が自殺していた経歴が反映されていると解釈していいだろう。『裁判長』では、カールが起こす親子二代の過ちは、相手の女性と生まれた娘も同じ過ちを犯すという、のがれられない反復を繰り返している。いづれにせよ、ドライヤーの母への想いが、女性の立場に寄り添うことで、ハッピーエンドに導いたのだった。『裁判長』におけるラストは、娘が主人公カールによって釈放され、亡命するハッピーエンドで終わっている。まさしく、ドライヤーの<情熱>が表出されていて、第一作にふさわしい。

ドライヤー映画のハッピーエンディングは第一作と第4作『むかしむかし』、第6作『あるじ』の三本のみである。

 

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サタンの書の数ページ

 

『サタンの書の数ページ』は、第1話「紀元1世紀のパレスティナ」第2話「16世紀のスペイン、セヴィリア」第3話「フランス革命」第4話「1918年のフィンランド」で構成される、157分の長編映画。第1話は、イエスによる最後の晩餐が描かれ、ダ・ヴィンチの壁画を想起させる。緩慢なリズムで物語が進行する。ユダの裏切りを指示するのがサタンの役回りになっている。第2話は、スペインにおける異端尋問が取り上げられる。後の『裁かるるジャンヌ』に通じるテーマである。
第3話「フランス革命」は、革命によるギロチン処刑を受けるマリー・アントワネット、貴族階級の受難劇を描いている。第4話は、ロシア革命後のフィンランドが舞台。サタンは祖国を裏切るように画策するが、サタンの企みがここではじめて失敗する。この映画の製作当時は、ソヴィエト連邦を批判することは困難な時代。敢えてソ連の工作者に扮したサタンを共産主義を広める役割を担った男に設定していることに、ドライヤーの芸術的政治的姿勢がみえる。

 

『不運な人々』は、ドイツで制作した映画。『不運な人々』は、ロシアのある地方におけるユダヤ民族にふりかかる受難、のちのナチスによるユダヤ人虐殺に通底する問題を扱っている。それがロシア人の革命運動と関係してることで物語が構成されている。その後のドイツ・ナチスによるユダヤ人虐殺問題を預言した作品との評価も可能である。人物関係は二組の男女と、ロシア人の革命運動家など多数がいり混じる、ドライヤーにしてはきわめて複雑な物語になっている。

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むかしむかし

『むかしむかし』は、デンマークで大衆受けした舞台劇の映画化。現在、フィルムは完全な形で残されていない。一種幻想的な絵巻もので、王女を中心に侍女たちと庭園で遊ぶシーンの美しさが印象に残る。架空の国イリアの王女が、陶工という庶民の仕事を手伝うことで<傲慢>さがなくなり、デンマーク王子と結ばれるお話。

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ミカエル

『ミカエル』は、『不運な人々』に続くドイツで制作された映画。
画家ゾレとその弟子ミカエルによる同性愛的な要素が根底にある。室内劇だが、部屋のつくりが芸術家の部屋をロングショットとクローズアップで、キャメラは見事に捉えている。『ミカエル』は、男女二組が、同じような行為を反復する。一組は、夫人の愛人と、夫が決闘し、愛人は殺されることになる。一方、ミカエルは、愛人ザミコフから莫大な借金をし、その補填のため画家ゾレの絵画や、イギリス製ワイングラスなどが持ち去られる。ゾレ、ミカエル、ザミコフの三角関係は、決闘に至ることはなく、ゾレが最後の作品を書き上げ、遺産をすべてミカルに残すという対照的な結果をもたらす。映像はきわめて耽美的だ。
ドライヤーは「私にとって『ミカエル』は重要な映画だ。初期作品で特別なスタイルを確立した作品だ」と言及しており、本作へのこだわりをみせている。

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あるじ


『あるじ』は、ドライヤーの作品のなかで最も身近で解りやすい単純な映画だ。一家のあるじである父は、妻に対して暴力的なまで虐待的な態度を取っている。その父親の態度を改心させるべく、子供時代からの乳母であった老女が妻を実家に帰すことを思いつく。妻がいなくなるや、老女はかつて仕付けたように主人に対して、妻が担っていた仕事すべてをするよう容赦なく、対応する。妻がいかに大変な仕事をしていたか、自分自身でやってみて始めて分かる。専業主婦という言葉がなかった時代だが、主婦の仕事が今日のように電気製品化される前だから、すべてが手作業による大変な仕事量だ。ここでも、妻という女性の立場に寄り添い、今ならパワハラ亭主であった<あるじ>にお灸をすえ、妻に寄り添いながら描く、女性擁護のフィルムになっている。

室内場面をセットで作り、ほとんどが居間兼用の食堂が中心になる。ドライヤーの映画は、中心になる部屋のドアを介して人物が出入りする。トーキーになってのちの『怒りの日』や『奇跡』の中心となる部屋があり、ドアを開閉して出入りするというセットを基本にした映画の試みになっている。

 

 『裁判長』から『あるじ』に至るサイレント・フィルムには、カール・Th・ドライヤーの<情熱>が込められていることが確認できた。いわゆる<聖なる映画>とはサイレント最後の『裁かるるジャンヌ』において達成されることが視えてきた。

 

 『裁かるるジャンヌ』は、顔のクローズアップが強調されるが、冒頭の横移動による異端尋問を行う審問官たちの表情がしまりのない凡庸な男たちを一覧させる。審問者たちの弛緩した表情と対称的に極度に緊張したジャンヌ(ルネ・ファルコネッティ)を捉えるキャメラは、異端尋問となるジャンヌ・ダルク裁判の非人道性を尋問調書にもとづき再現している。
唯一、ジャンヌの味方になるジャン・マシューを、アントナン・アルトーが演じているのも見逃してはなるまい。サイレント映画の到達した崇高性が、本作によって達成されたことが観る者に開示されたのである。

 

聖なる映画と称賛されるドライヤー映画のサイレントフィルムをみると、ドライヤーの作品は、それぞれ「芸術的な価値こそ意味がある。生きられた生の真実から無駄な細部を省いたもの、つまり、芸術家の魂のフィルターを通した真実にこそ意味があるのだ」と自ら述べているとおり、「聖なる映画」とひとくくりにできない。それぞれ、<魂のフィルターを通した真実>を<情熱>的に描こうとしていたことがわかる。「映画は唯一の情熱だ」とドライヤーは述べている。

 

セットや美術などへのこだわりが全ての作品に反映されている。『裁かるるジャンヌ』に至る過程を確認するためにも、上記のサイレントフィルム6本は必然の作品だったといえるだろう。

 

 『裁かるるジャンヌ』とトーキー作品『吸血鬼』『怒りの日』『奇跡』『ゲアトルード』5作品については、既に、拙ブログの2006年1月7日

prebuddha.hatenablog.com

に覚書「『奇跡』ほか」と題して記載していることを付記しておきたい。

 

なお、小生のドライヤー・ベストは『奇跡』(1954)であることに申すまでもない。しかし、もちろんそれが『怒りの日』(1943)あるいは『ゲアトルーズ』(1964)であっても異論はない。いずれにせよ、トーキーの三作はいずれをベストに選出しても、ドライヤー作品であればそれで良い。

 

 

 

 

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吸血鬼

 

溝口健二『残菊物語』とフリッツ・ラング『スピオーネ』は必見の映画だ

見るレッスン 映画史特別講義

 

ゴダール マネ フーコー 増補版』(青土社,2019)の刊行から、2020年に入り、『言葉はどこからやってくるのか』(青土社,2020)や『アメリカから遠く離れて』( 河出書房新社,2020)が矢継ぎ早に刊行され、ついに新書版で『見るレッスン 映画史特別講義』(光文社新書,2020)がこの12月に発売された。

 

 

アメリカから遠く離れて

アメリカから遠く離れて

 

 


瀬川昌久氏と蓮實重彦の対談集『アメリカから遠く離れて』(河出書房新社,2020)は、ジャズ・映画などについて戦前から戦後にわたる、人生論に通ずる対談を重ねた内容であり、面白く読んだ。それにしても後期高齢者の蓮實氏より一回り年齢が上であるという瀬川氏の、記憶力と言葉の発信力に感服した次第。

 

 
ここでは、読了した『見るレッスン 映画史特別講義』に触れたい。
1.現代ハリウッドの希望
2.日本映画 第三の黄金期
3.映画の誕生
4.映画はドキュメンタリーから始まった
5.ヌーベル・バーグとは何だったのか
6.映画の裏方たち
7.映画とは何か

本書は上記の目次で構成される。「映画の誕生」から、以下の2本の映画を見ないわけにはいかなくなった。溝口健二『残菊物語』(1939)とフリッツ・ラング『スピオーネ』(1928)である。

 

残菊物語 デジタル修復版

残菊物語 デジタル修復版

  • 発売日: 2016/01/06
  • メディア: Prime Video
 

 

『残菊物語』は、『浪華悲歌』『祇園の姉妹』(1936)以後のワンシーン・ワンショットの長廻しスタイルと内容を合致させる溝口的手法の完成型を見せられた。冒頭の舞台終演後の楽屋風景から、土手を横移動しながら、赤ん坊を抱いた乳母・お徳(森赫子)が、菊之助花柳章太郎)に芝居演技のことを話しながら歌舞伎役者としての演技力が足りないことを指摘する。歩きながら長く続く横移動するシーンは、お徳が兄の乳母としての距離感が次第になくなり、自然と菊之助の恋人へ変貌する序章になっている。
梗概は『映画読本 溝口健二』(フィルムアート社,1997)に譲るとして、ラストシーンには触れておきたい。菊之助が大阪で凱旋公演のため船乗り込みで、先頭に立ち挨拶をしているシーンがあり、カットバックして、お徳は既に布団の上で冷たくなっているショットを映す。この対照的な光景に観る者はその落差に引き込まれる、凄いフィルムだった。

 

 

フリッツ・ラング『スピオーネ』(1928)は、大作『メトロポリス』(1927)に続く低予算で撮ったスパイ映画。スパイの頭領ハーギ(ルードルフ・クライン・ロッゲ)の指揮のもと、某国の軍事資料や日本の秘密協定書などを盗もうとする。そのため、女スパイ・ソーニャ(ゲルダ・マウリス)が、326号(ヴィリー・フリッチュ)に罠を仕掛けさせることになる。しかし、ソーニャは、326号に恋をしてしまい、誤算が起きる。スパイアクションが、次々と展開される。列車がトンネル内で爆破されたり、ドイツ諜報部が攻め込んだ銀行内には、ガスが充満し、326号は、ソーニャを救出すべく、大混乱・・・といった案配で、モノクロスタンダード、サイレントで、キャメラの移動はなく、画面はフィックスなのだが、迫力満点のスペクタクル・フィルムになっている。時代的な古風さを感じさせない、現在でも生々しいスパイ・ドラマとして機能している。

 

映画とは常に現在を感じさせるという蓮實重彦の言説は、ゼミの指導生、濱口竜介三宅唱、もちろん黒沢清周防正行たちが「日本映画第三の黄金期」で取り上げられる。

 

 

論集 蓮實重彦

論集 蓮實重彦

  • 発売日: 2016/07/06
  • メディア: 単行本
 

 

ドキュメンタリーでは、女性監督、小森はるか・小田香の才能を評価している。

「小森さん小田さんは、現在の日本映画の至宝だと思います。小森さんはまず日常から出発する。小田さんの場合は、非日常にあっさりと踏み込んでしまう。」(111頁)

と絶賛される。ちなみに、小森はるか氏は、蓮實重彦との接触の経緯を『論集 蓮實重彦』(羽鳥書店,2016)採録の「眼差しに導かれて」のなかで、DVDを30名以上の映画関係者に送付したが、唯一返事があったのが蓮實重彦氏であったと述べている。

 

淀川長治氏は、溝口健二とエーリヒ・フォン・シュトロハイムが好きで、特にフィルムが残っていない溝口『狂恋の女師匠』(1926)の全ショットを記憶に基づいて、延々と話すことができるほど称賛している。存在しないとされるフィルムの発見が、映画が存続しつづけることができる根拠となろう。

 

 

淀川長治さんの好きなシュトロハイムの代表作『アルプス颪(おろし)』(1919)の2006年クリティカル・エディション・ドイツ語字幕版を観る。原作・脚本・監督・主演を務めたエーリヒ・フォン・シュトロハイムは、監督第一作で、あのジャン・ルノワール監督『大いなる幻影』(1937)出演時の軍服姿と同じような軍服姿で悪役を演じている。二枚目の基準から逸脱していることを自覚していたシュトロハイムは、医者の妻を誘惑する悪意に満ちた敵役を巧妙に演じている。スイスが舞台だが、ロケーションはアメリカで行われている。完璧主義者としての映像の造型は細部まで輝いている。

 

 

言葉はどこからやってくるのか

言葉はどこからやってくるのか

 

 

『言葉はどこからやってくるのか』の「映画の『現在』という名の最先端」のなかで、蓮實重彦は『ショットとは何か』(講談社)の出版予告をしている。これまで何度も予告されていた『ジョン・フォード論』は、全編が三章からなり、終章は現在執筆中で、10年前に書かれた原稿や、最近『文學界』に連載した原稿も含めて加筆や細部の修正を経て2020年の終わりには完成すると記している。しかし、どちらも未刊状態である。

 

『ショットとは何か』(講談社)と『ジョン・フォード論』(文藝春秋)の二冊が、遅滞なく、2021年早期に出版されることを期待したい。

 

 

今年は外国及び日本映画とも女性主演映画がベスト1となった

映画ベストテン2020

 

今年2020年は、コロナ禍のため、3月から5月まで映画館に行けなかった。例年に較べてスクリーンで観た映画は少なく、47本だった。目標が80本なのだが、新型コロナウイルスを回避するため、自宅巣ごもりの一年となった。

 

映画館で観た映画は少ないが、その中からベストテンを選出した。日本映画・外国映画とも女性が主人公のフィルムを、ベスト1となった。

 

『燃ゆる女の肖像』と『MOTHER マザー』は、圧倒的に<ベスト1>に値する。18世の無名画家(ノエル・メルラン)による結婚前に肖像を描くことになった女性(アデル・エネル)へのつかの間の愛が、その後も持続する。別離ののち二度会ったと言う。一度目は結婚後に肖像画に、二度目は演奏会で二階の向こう側にアデルが居るが、ヴィヴァルディの「四季・夏」が演奏され、演奏者に視線を向けたまま、ノエル・メルランの方向を無視してるようだが、その眼には次第に涙があふれてくる。秀逸なショットであった。

 

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【外国映画】
1.燃ゆる女の肖像(セリーヌ・シアマ)
2.Mank/マンク(デヴィッド・フィンチャー

3.その手に触れるまで(ダルディエンヌ兄弟)
4.1917 命をかけた伝令(サム・メンデス
5.レイニーデイ・イン・ニューヨーク(ウディ・アレン
6.ジュディ、虹の彼方に(ルパート・グールド)
7.ストーリー・オブ・マイライフ(グレタ・ガーウィグ
8.リチャード・ジュエル(クリント・イーストウッド
9.パブリック 図書館の奇跡(エミリオ・エステベス
10.テリー・ギリアムドン・キホーテテリー・ギリアム

次点 パラサイト 半地下の家族(ポン・ジュノ

次点 ジョン・F・ドノヴァンの生と死(グザヴィエ・ドラン
次点 ハリエット(ケイシー・レモンズ)

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デヴィッド・フィンチャー『Mank/マンク』は、『市民ケーン』へのオマージュではなく、脚本家ハーマン・J・マンキウィッツ(ゲイリー・オールドマン)が、オーソン・ウェルズから脚本依頼を受け、「Americans」のタイトルで完成するまでを描いた作品である。脚本を書く過程で、ハリウッド1930年代の過去が映像として綴られる。1930年代の大恐慌社会主義運動など。とりわけ、カリフォルニア州知事選挙は、民主党候補のシンクレアが有利だったが、映画会社はフェイクニュースを制作したため、共和党候補に敗れるエピソードは、2020年の米大統領選挙を想起させる。マンク(ゲイリー・オールドマン)は、ルイス・B・メイヤーの誕生日パーティーに参加し、酔った勢いで「ドン・キホーテ企画」について滔々と大演説をする。それは、ハースト(チャールズ・ダンス)と彼の愛人マリオン・デイヴィスアマンダ・セイフライド)への痛烈な皮肉であった。回想の思いが脚本に反映される。『市民ケーン』が制作される前の脚本段階を、様々なマンクの回想に基づいて映像化される。脚本をウェルズに渡す際、クレジットにマンクの名前が明記されることを希望する。当時の映画関係者が次々と回想シーンに現れるが、彼らを理解するためには、ハリウッド映画史の基礎的知識があることを前提としている故、細部まで気になると落ち着いて映画に没入できない。

 

 

 【日本映画】
1.MOTHER マザー(大森立嗣)
2.スパイの妻(黒沢清
3.海辺の映画館(大林宣彦
4.ラストレター(岩井俊二
5.浅田家!(中野量太)
6.初恋(三池崇史
7.罪の声(土井裕泰
8.Red(三島有紀子
9.空に住む(青山真治
10.タイトル、拒絶(山田佳奈)
次点 劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデン石立太一
次点 男はつらいよ お帰り寅さん(山田洋次

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『MOTHER マザー』の長澤まさみは、自分の子供を支配しながら己の欲望のまま生きる女。子供たちへは極限の愛ともいえるが、その自堕落な生活ぶりは鬼気迫る。世間的には悪い母親である。長澤まさみは、コメディを演じときは生き生きしているけれど、『MOTHER』のどうしようもない女としての母親になりきっているその表情には凄みが伺える。硬軟演じ分ける女優としの実力が発揮された作品になっている。これまで縁がなかった<主演女優賞>に値する演技を称賛したい。

 

【追記】(2021年3月20日

2021年3月19日に開催された日本アカデミー賞・表彰式にて、長澤まさみさんが見事に主演女優賞を受賞された。対象二作品において、演技力の充実が全開していた。心から祝福したい。

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日本アカデミー賞・主演女優賞を受賞した長澤まさみ

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黒沢清『スパイの妻』は、良く作りこんでいる。時代は戦時中、場所は神戸という設定。物語の鍵になるのが、「プライベートフィルム」だ。
商社を営む高橋一生は、妻・蒼井優に仮面を付け金庫を開けさせるシーンから始まる。妻の知人・東出昌大憲兵として神戸に赴任してきたことを、高橋夫妻へ挨拶に来る。前半の蒼井優は、裕福な生活のなかにいる平凡な妻に見える。後半の変貌への準備か。

高橋一生は甥・坂東龍汰を伴い満州に渡る。帰国した高橋には、秘密めいた行為があると妻は疑う。妻は夫が満州で見てきたことをフィルムに残していることを知り、一人で上映し、その内容に驚く。フィルムの画面ではなく、それを見ている蒼井優の表情の変化で観客に知らせる、古典的方法だ。

さて、先のフィルムが二度上映される。最初は会社の忘年会で、二度目は、夫と妻が別れて別々に亡命しようとした際、妻が捕まり、スパイの証拠となるフィルムが上映されるかと思ったら、上映されたのは「プライベートフィルム」だった。妻は「お見事!」と叫び、倒れる。このシーンは予測できたが、「お見事」の科白こそ、見事な脚本だ。

妻は狂ったふりをして精神病院に収容されるが、敗戦直前の病院爆撃により、逃げ出し、何故か海辺の近くを小走りしている。クローズアップされた蒼井優の表情は、怪しいまでに美しい。戦後の二人は字幕で表され、見るものにその後を予想させるつくりになっている。黒沢清の時代ものは、今回が初めてだが、シリアスなスパイものであると同時に優れた娯楽作品に仕上げている。

パティニール画集の出版を期待したい

三つの庵 ソロー、パティニール、芭蕉

 

クリスチャン・ドゥメ著『三つの庵 ソロー、パティニール、芭蕉』(幻戯書房,2020)は、隠遁生活を求めていたものにとって、きわめて刺激が強いタイトルだ。タイトルと出版社をみて購入することはあまりないことだが、今回は衝動買いだった。

序文から著者の意図を引用する。

あらゆる庵/小屋は、現実のものであれ夢見られたものであれ、作家や画家といった世界の作り手たちが自分たちの必要とするささやかなものを彼ら自身の生き方として表現したものである。世の中から離れ、孤立し、身をひそめること。孤独な苦行を伴うそうした身ぶりはすべて、最終的にはこの世の生をいっそう深く味わうためになされるのである。・・・(中略)・・・思考は、おのれの住まいを離れるときにこそ、そこに逢着する好機に恵まれる。(9頁)

 

三つの庵: ソロー、パティニール、芭蕉

三つの庵: ソロー、パティニール、芭蕉

 

 

クリスチャン・ドゥメは記す。

パティニールは空の青さを、彼の小屋を見せてくれた。物ではなく、深く穿たれたヴィションを。万物の隠れ棲むさまを。見ることの純粋さ、それが意味するであろうものをほんの一瞬だけ感じるための唯一の条件を。無を見るのだ、ただ青だけを。(157頁)

 

 「無」を見る、ただ「青」だけを。

 

パティニール*1という中世の画家には今回初めて出会った。じつは、ルーブルやプラドやウィーン美術史美術館で出会っているはずなのだが、そのころは、別の画家を追っていたので、気が付かなかっただけのことだ。


青のパティニール 最初の風景画家


石川美子著『青のパティニール 最初の風景画家』(青土社,2017)に出会うことになった。パティニールに関して、日本で入手し得る唯一の参考文献だ。冒頭に口絵16点が掲載されている。パティニール画集としても有用である。中世画家として、聖書やキリスト教関連の主題を持ちながら、人物は小さく、背景の風景があたかもメインのように描かれている。

 

青のパティニール 最初の風景画家

青のパティニール 最初の風景画家

  • 作者:石川 美子
  • 発売日: 2014/12/23
  • メディア: 単行本
 

 

 

現在確認されているパティニールの絵は、プラド美術館「パティニール展覧会図録」に29点採録されているが、石川氏は11点をパティニール作品と認めている。

 

◆風景も人物もパティニールが描いたとされる6点

1.「聖ヒエロニムスのいる風景」(プラド美術館
2.「ステュクス川を渡るカロン」(プラド美術館
3.「荒野の聖ヒエロニムス」(ルーブル美術館
4.「エジプトへの逃避のある風景」(アントウェルペン王立美術館)
5.「聖ヒエロニムスのいる風景」(カールスルーエ美術館)
6.「聖カテリナの殉教のある風景」(ウィーン美術史美術館)

 

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《聖ヒエロニムスのいる風景》

 

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ステュクス川を渡るカロン

以上、二つの絵画は主題と風景が見事に融合している。パティニールの風景の青が美しく、見る者を引き付ける。

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《荒野の聖ヒエロニムス》

この絵が、クリスチャン・ドゥメの『三つの庵 ソロー、パティニール、芭蕉』の表紙に採用されている。

 

◆風景の完成度は高いが、共同制作者がいると思われる5点

7.「聖クリストフォロスのいる風景」(エル・エスコリアル修道院
8.「聖アントニウスの誘惑のある風景」(プラド美術館
9.「エジプトへの逃避途上の休息のある風景」(プラド美術館
10.「キリストの洗礼のある風景」(ウィーン美術史美術館)
12.「聖ヒエロニムスの悔悛、キリストの洗礼、聖アントニウスの誘惑のある三連画」(メトロポリタン美術館

 

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《エジプトへの逃避途上の休息のある風景》

 聖母子像が眼前に迫ってくるようで、風景を背後に押しやる。聖母子像と、風景画の二つが合成されているように見える。しかし、絵としては、私の好みである。

 

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《キリストの洗礼のある風景》

この絵も、キリストと洗礼者が画面の全面に浮き上がっている。

 

 パティニールについて、私が解説する資格はないが、宗教的人物画よりも背景の「風景」が、きわめて精緻で美しく、口絵をみると、青のグラデーションが名状しがたいほど美しいことに圧倒される。

石川美子は「エピローグ」で記す。

パティニールが描いたのは、ささやかな光景だった。意味のない、あるいは意味のわからない細部である。(294頁)

 

クリスチャン・ドゥメ著『三つの庵』に注目したが、思わぬところで、パティニールという画家を知りえた。「無」と「青」のパティニール、風景画家のパティニールを。

これはコロナ禍のなかでは、大きな収穫であった。

 

 

 

*1:ヨアヒム・パティニール(Joachim Patinir 、1480年頃 - 1524年10月5日)は初期フランドル派の画家。