ラース・フォン・トリアーは畏怖すべき芸術家である
ハウス・ジャック・ビルト
ラース・フォン・トリアーの最新作『ハウス・ジャック・ビルト』(2018)を見る。
見る者を不快にさせる映画だが、主人公は監督の分身であり、距離を置いて見ることで、芸術作品としてなぜこのようなサイコキラーの男を主人公にして、残酷な映画を撮ったのか。
あらかじめ結論的に述べると、哲学的な読解を求める映画になっているからである。
殺人鬼ジャック(マット・ディロン)は、遺体でもって建築物を造り上げる12年間を、五章仕立てで見せている。
第一の出来事は、ユマ・サーマンが車の故障でジャックに同乗する。犠牲者その一。
第二の出来事は、シオバン・ファロンが未亡人役。ジャックは保険外交員を装い、未亡人は第二の犠牲者となる。
第三の出来事は、二人子ども連れの女性とピクニックに行く。ジャックは、赤い帽子をかぶり、猟銃を使用する。子ども二人と女性は第三の犠牲者となる。
第四の出来事は、若い女性(ライリー・キーオ)の胸にジャックが線を引き、彼女はやがて第四の犠牲者となる。
第五の出来事は、ジャックが五人の男性を誘拐し、一発の弾丸で一気に殺そうとする。そこへ登場するのが、謎の男・ブルーノ・ガンツである。
作品の中に引用されるグレン・グールドによるピアノ演奏、ドラクロアの絵画「ダンテの小舟」を出演者が演じるような活人画仕立て、更には、ゴーギャンのタヒチを描いた絵画「我々はどこから来たのか,我々は何者か,我々はどこへ行くのか 」が提示される。これらの引用は、この映画の内容にかかわる。
グレン・グールドのピアノ演奏風景の挿入は、フォン・トリアーの嗜好なのか、あるいはジャックの好みなのかいずれかであろう。頻繁に挿入されることは、この映画が、グールドの演奏スタイルに関係している*1ことを示している。
「ダンテの小船」の活人画は、ゴダール『パッション』を想起させるが、ダンテ『神曲』の地獄編につながっているようである。
ゴーギャンの絵画のショットは、一瞬に夢見る桃源郷だろうか。ジャックは、農夫たちが大きな鎌で草を刈るシーンを、何度か、画面を通して彼の内面を写しているように見える。
エピローグでは、ブルーノ・ガンツがジャックをダンテ『新曲』で描かれる、地獄へ導く。ジャックの心の内に踏み込むことなく、客観的に描かれているので、距離を置いて見れば、いかにもラース・フォン・トリアーの刻印が写されている作品であることに衝撃を受ける。見るものを不快にさせる映画監督は少ない。その点でもフォン・トリアーは、作品公開ごとに問題作とされる。主人公へ感情移入をしなければ、ラストは見る者が救われるように作られている。
『奇跡の海』(1996)が出会いであったが、その後『ダンサー・イン・ザ・ダーク』(2000)『ドッグヴィル』(2003)『アンチクライスト』(2009)『メランコリア』(2011)『ニンフォマニアック 』(2013)と見てきた。
個人的には、『ドッグヴィル』のおよそ映画として成立しえない舞台劇風な仕掛け(舞台上に線を引くだけ)の中で、ニコール・キッドマンが最高の演技をみせたことに評価を与えたい。
ラース・フォン・トリアーの作品
*1:グレン・グールドの演奏は、頑固な自己スタイルを貫き通したという点では、監督ラース・フォン・トリアーに似ている。むしろ、フォン・トリアーが、グールドの芸術的な生き方に共鳴しているというべきだろう。
『こころ』異聞は、女性の強さに着目している
『こころ』異聞
若松英輔著『『こころ』異聞』(岩波書店,2019)を、7月1日購入後、一気に継続して読んだ。最近、読書に集中できない状況の中で、5日間で読了するとは、以前に比べると稀有な体験と言わねばなるまい。それだけ、惹きつける魅惑に満ちた、『こころ』新解釈と形容できる充実した内容だった。
漱石『こころ』については、膨大な研究歴史があり、それをまとめたものに、仲秀和著『『こころ』研究史』(和泉書院,2007)がある。仲氏は第一部で、「問題の所在と同時代批評、昭和20~30年代批評、昭和40年代の研究、昭和50年代以降の研究、昭和60年代以降の研究。ここまでが、菊版全集による。それに漱石自筆研究を基に新編集した平成版全集を対象とする平成6年以降の研究。以上を8章に分けて紹介している。とりわわけ40年代の「作品論」、60年代の「テキスト論」を中心に、問題の所在を説明し、「『こころ』についてはある程度論じ尽くされてきている」と述べている。
「文学研究の方法」の見直しがあり、「文化論」「文化史」的な、『こころ』の読み直しは「現在進行中」であると、記している。しかし、おおむね提起された問題の所在は、解き尽くされてもいるようだ。
第2部は、「『こころ』文献目録」であり、これも書誌的に貴重な資料である。
現在第2次『漱石全集』が定本*1として配本中であるが、平成版漱石全集と称する、この全集を、若松氏はテキストに採用することの理由を記している。同時代からの読者が読んできたテクストとは異なる『こころ』ではある。ここは、著者の主張に従い、本文を読んでみることにした。
若松氏の新説とは、『こころ』の書き手である「私」は、何歳なのだろうかという疑問から出発している。
「先生」が自殺した年は、1912年、35歳。「お嬢さん」こと「先生」の妻・静は28~29歳くらい。「私」は「先生」より十余歳下であると、著者は、全集の編集者であった秋山豊と、『こころ』註解者の重松泰雄の二人に依拠している。
筆者には『こころ』に記された文字そのものが「私」の遺書だったように思われてならない。読者である私たちは、二つの遺書を読んでいたのではないか。その行間からは、「先生」の年齢を超えた「私」の姿が、行間からくっきりと浮かび上がるのである。(p.232)
この結論に至るまでに、キリスト教の苦行=求道を、キーワードに読み解く。井筒俊彦、内村鑑三、河合隼雄など*2を引用しながら、Kの求道者的生き方と、「先生」のKへの共感する部分があり、Kを自殺させた原罪を背負い、自ら「遺書」を「私」に託すことになる。
本書の読みどころは、「庇護者の誤認」にある。
妻はあるとき、「先生」に「男の心と女の心は何(ど)うしてもぴたりと一つになれないものだろうか」という。/「先生」は、「若い時ならなれるだろうと曖昧な返事を」する。それを聞いた妻は「自分の過去を振り返つて眺めてゐるやう」だったが、やがて微かな溜息を洩ら」(百八)す。/男の目から見て頼りなさそうに映る女性も、男が思うほど弱くない。むしろ、男の方が、芯に脆さを抱えている場合が少なくない。/心を一つにしたい、そう語った妻は、自分たちの関係は、助ける助けられる関係ではなく、人生の試練を前にするときも、ふたりで生きていくと決めたのではなかったか、と夫に問い返しているのである。(p.225)
若松氏の新説は、『こころ』という小説がもつ構造的な内容から、女性の視点とキリスト教的に捉える方法であった。
静の「男の心と女の心は何(ど)うしてもぴたりと一つになれないものだろうか」という問いから女性の視点に立つ方法は、管見の限り若松氏の発見と言ってもいい。
たしかに、新鮮な解読方法といえよう。しかしながら、『こころ』の不可思議な作品の全貌を解明するための一視点を提供したと言えるが、<諸問題の解読>を一挙に伏線を回収したことにはならないところが、『こころ』が厄介テクストである所以でもあるのだ。
まあしかし、ここは、若松英輔氏の新解釈が、『こころ』研究史に一点加わった功績を、指摘すれば十分だろう。
なお、『こころ』研究本としては、石原千秋編集の下記のムックがある。
また、漱石作品の読み方についての基本は、次の図書が示唆的である。
「死」をどのように受け入れるかを問う問題作
長いお別れ
『湯を沸かすほどの熱い愛』で、監督・中野量太の名前が強く印象つけられた。
今回は、中島京子原作『長いお別れ』を、画面と印象的な光景や、ことばで、父の認知症を経年的に、周囲の家族の眼で捉えた、傑作に仕上がっている。
元中学校長の山﨑務が70歳の誕生日に、妻・松原智恵子は、娘二人を呼び寄せる。
長女・竹内結子は、結婚してアメリカに居住。夫は研究者(北村有起哉)で子どもは、男子一人(蒲田優惟人、杉田雷麟の二人が出演)。
妻は、二人の娘に、父親が認知症にかかったことを告げる。以後、7年間に渡る緩慢なる父の死に向かう姿を、娘・孫の眼を通して描かれる。
恋愛をするが、うまく結婚にたどり着けない次女・蒼井優の7年間が同時に物語の複線として機能している。傑作である。
衝撃的なシーンがある。父親の友人の葬式に、次女・蒼井優が付き添う。旧友が父親に、元校長の父親に「弔辞」を代表して読んで欲しいと依頼されるが、実は、友人中村の葬儀だということが分かっていなかった。おかしくも哀しい残酷な光景だった。
誰もが死に至ることは自明だが、死はつねに他者の死としてしか捉えられない。死に逝く者の心情を描くことは難しい。父親・山﨑務の記憶は次第に薄れて行き、「帰りたい」という言葉をよく使う。家族は、どこに帰りたいのか、謎解きのように推測する。実家への旅が、「帰る」場所の一つであったことが分かる。山﨑が、妻の松原智恵子を両親に紹介したいと、かってなされたプロポーズの反復は、見る者の心を和らげる。
「帰る場所」はもう一つあった。行方不明になった父親がGPS装置により、遊園地に居ることが分かる。母が思い出す。長女・次女姉妹が子どもの頃、遊園地へ行き雨に降られていると、留守番をしていた父親が傘を持って迎えにきたことがあった。
ここで、映画の冒頭シーンに繋がる。父親が傘を持って迎えにきたことがある遊園地で、メリーゴーランドに乗った記憶。遊園地で見知らぬ子どもたちに頼まれ、父親が子どもたちと一緒に、メリーゴーランドに乗るシーンに繋がる仕掛けになっている。ここも、父親が「帰りたい場所」だったのかも知れない。
父親が認知症を患い死に至るまでを、家族が時間をかけて見送るフィルムは、一種の奇跡のようなドラマを記録した映画になっている。
中野量太作品
ブラックユーモアとは決して言えない映画
ブラック・クランズマン
スパイク・リー監督作品『ブラック・クランズマン』(2018)を観た。
『風と共に去りぬ』でヴィヴィアン・リーが、医者を探してアトランタの町の広場に横たわる南軍兵士の間を歩き廻る俯瞰ショットを、映画の冒頭に引用する。
この『風と共に去りぬ』の提示は、舞台が南部であるということだろうか。映画『ブラック・クランズマン』の時代は1970年代前半であるようだ。
黒人警察官ロン(ジョン・デビッド・ワシントン)が、電話の声で白人になりきりKKKに入会する。但し、送りこむ人物は白人でユダヤ人のアダム・ドライバーが演じるフリップ。この設定が面白いし、警察内ではユーモアが効いているが、KKK内部に潜入したフリップにとっては、冗談では済まされない。KKKは、黒人のみなず、ユダヤ人をも敵としていたことを、スパイク・リーは、映画を通して伝えようとしている。これは、ユダヤ人が黒人に次いで迫害の対象とされていたことを示している。
KKK内部で、グリフィスの『国民の創生』上映があり、KKKが活躍するシーンには拍手喝采「アメリカファースト」と叫ぶ。一方、黒人の集会で老人が、過去に知的障害の黒人少年が、犯人にされ強姦の罪で処刑された事実を述べるシーンが、カットバックで示される。KKKと黒人グループ会合が、交互にカットバックされ、緊張感が増幅される。
そもそも、映画手法のカットバックとは、グリフィスが発明したと言われているから、スパイク・リーは、反=グリフィス映画として撮ったのだろう。
ラストはロンと恋人パトリス(ローラ・ハリアー)は、ノックの音に拳銃を身構えて、廊下に出る。すると、場所は2016年のシャーロッツヴィルに移動しており、ニュース映像が流される。
現在の大統領トランプをニュース映像的に、シャーロッツヴィル事件の映像の後、KKKを支持するかのような発言を取り込んでいる。映画史とアメリカ黒人の差別の歴史が重層的に描かれており、幾重にも黒人差別問題が未解決であり、『国民の創生』上映後にKKK会員が増加したごとく、トランプ出現により、白人至上主義が復権されていることを怒りを持って告発している。
『ブラック・クランズマン』は、単純に『グリーンブック』のような絶賛の判断を下すことが困難な、ある種危険なフィルムではあるが、少なくともKKKへの挑戦であり、トランプ的存在の否定であることに間違いない。
ユリイカ 2019年5月号 特集=スパイク・リー ―『ドゥ・ザ・ライト・シング』『マルコムX』『ブラック・クランズマン』・・・ブラックムービーの新しい目覚め―
- 作者: スパイク・リー,SKY-HI,綾戸智恵,荒このみ,吉岡正晴,ダースレイダー
- 出版社/メーカー: 青土社
- 発売日: 2019/04/27
- メディア: ムック
- この商品を含むブログを見る
スパイク・リーは、現アメリカ大統領の名前を口にしたくないと、存在自体を否定していることは強調しておくべきだろう。
スパイク・リー作品
シャーロット・ランプリングは老いの美しさを露出している
ともしび
シャーロット・ランプリング主演『ともしび』(Hannah,2017)は、老境にさしかかった主婦が、遭遇する一種普遍的な問題を内包している。冒頭、画面の右側にアン(シャーロット・ランプリング)の顔のアップが映り、奇妙な声が続いて発せられる。何かと思うと、演劇グループに参加していることがカメラの移動によって分かることになる。
アンナは地下鉄に乗って帰るが、窓に写された若い女性の着替えや化粧などを一種軽蔑の眼で静かにながめている。
冒頭から、アンナはほとんど自分の声を出すことはなく、行動に比重が置かれ、彼女の内面は推測するしかない。
夫と二人暮らしだが、淡々と夕食をとった翌朝、夫は刑務所に収監される。その罪状は映画の中では明かされない。
アンナは、ある裕福な家の家政婦をアルバイトとして、行っている。そこには、障害を持った子どもがいる。
あるとき、会員制プールで泳ぎ、帰り際に窓口で、会員資格の期限が切れていることが告げられる。
またあるときは、孫の誕生日祝いにケーキを造り、息子の家の前まで行くが、息子に拒否される。
アンドレア・パロオロ監督の意図は、どこにあるのか。きわめて分かりにくいように作られている。すなわち、キャメラは、アンナ(シャーロット・ランプリング)の行動と表情を捉えるのみで、内容を説明するナレーションがないし、言葉を極力排除している。
ラスト近く、アンナは、海に打ち上げられたクジラを見に行く。その意味も明かされない。
地下鉄の階段を延々と降りて行き、エスカレータがあるにもかかわらず、黙々と降りてホ-ムにたどり着く。電車が入ってきて乗車する。ドアが閉まり、走り去る。暗転して映画は終わる。
『ともしび』全体にわたり、キャメラは常に、シャーロット・ランプリングを捉えている。時には全身像のロング・ショットはあるが、接近して彼女の存在を、70歳になる一人の女性として見事なまでに美しく描いている。女優が、その存在を中心に、日常を追っているドキュメンタリーのようにも見えるが、あくまでフィクション=映画にほかならない。
一人の女性の老いの美しさを淡々と捉えた秀逸なフィルムだった。
「トルストイを読み給へ」と小林秀雄は答えた
ずっと敬遠していた作家トルストイの最高傑作とも言える『アンナ・カレーニナ』(望月哲男訳,光文社古典新訳文庫)全4冊、8部を読了した。アンナとヴロンスキーが中心というか、むしろ狂言回し的に書かれていること、リョーヴィンこそがトルストイに他ならないことを了解した。
すなわち、リョーヴィン、キティ、ドリーが19世紀ロシア貴族の生活者の姿なのだ。
シドニー・シュルツによれば、「作品を構成する239の章は、34のセグメントにかれていて、しかもアンナとリョーヴィンのセグメントがそれぞれ17といういわばバランスのとれた構造をなしている」(p588「第3巻 読書ガイド」)と言う。
『アンナ・カレーニナ』のタイトルを担うアンナと、リョーヴィンが同じ比重で書かれていることが解かる。しかも全体の構造からみれば、第7部でアンナの死により、物語の結末が示され、アンナ死後つまり登場人物達のその後第8部が割かれていることになる。
ヴロンスキーは、次の戦争に参加すべく旅立つ。リョーヴィンとキティの田舎生活は、平和に続きそうだ。それにしても、翻訳の技術を除外しても、トルストイの小説構成力は、19世紀において抜群の上手さであることを感じさせる。
イワン・イリイチの死/クロイツェル・ソナタ (光文社古典新訳文庫)
- 作者: トルストイ
- 出版社/メーカー: 光文社
- 発売日: 2013/12/20
- メディア: Kindle版
- この商品を含むブログを見る
『アンナ・カレーニナ』読了後、『クロイツェル・ソナタ』を読み、生・性・恋愛・結婚などについて、妻を殺害した男が倒叙法ににより淡々と自説を述べて行く手法と、あるいはトルストイ自身の考えが反映されていると考えられる。
ナボコフの『ロシア文学講義下』(河出文庫,2013)では、タイトルを『アンア・カレーニン』としている。つまりカレーニン夫人というわけだ。原題は"АннаКаренина"になっており、女性名の「カレーニナ」とするか「ボヴァリー夫人」のように「カレーニン夫人」でもいいだろう。
ナボコフによれば作家の順位は一番トルストイ、二番ゴーゴリ、三番チェーホフ、四番ツルゲーネフとしており、ドストエフスキーについては、
人々にたいするドストエフスキーの自己満足的な憐み―虐げられた人々への憐れみは、純粋に情緒的なものであって、その一種特別毒々しいキリスト信仰は彼がその教義から遥かにかけ離れた生活を送ることを決して妨げはしなかった。一方、レオ・トルストイはその分身のリョーヴィンと同じように、自分の良心が自分の動物的性情と取引することをほとんど生理的に許せずーその動物的性情がより良き自己にたいしてかりそめの勝利を収めるたびに、ひどく苦しんだのである。(p.15『ロシア文学講義下』)
とトルストイとは対照的に評価している。
ドストエフスキー評価は、ナボコフと異なるが、『アンナ・カレーニン』と『イワン・イリイチの死』を解説することで、トルストイへの絶賛的な評価には賛同したいと思う。
以下は関連事項として記述する。小林秀雄はトルストイの家出について正宗白鳥と論争をしている。批評文「思想と実生活」と「文学者の思想と実生活」を読む。
「実生活を離れて思想はない。併し、実生活に犠牲を要求しない様な思想は、動物の頭に宿っているだけである。社会的秩序とは実生活が、思想に払った犠牲に外ならぬ。・・・(中略)・・・思想は実生活の犠牲によって育つのである。」(p.72『小林秀雄全集』第四巻)
いかにも小林秀雄らしいレトリックである。小林秀雄は、ドストエフスキーに多くの評論を残している。『ドストエフスキイ』や『ドストエフスキイの生活』など。「永遠の良人」から始まり「未成年」「罪と罰」「白痴」「地下室の手記」「悪霊」「カラマゾフの兄弟」と主要作品について言及しているが、トルストイに関しては、少ない。
小林秀雄は、ドストエフスキーについて以下のような考えを書いている。
ドストエフスキイの実生活を調べていて、一番驚くのは、その途轍もない乱脈である。彼の金銭上の乱費なぞは、その生活そのものの浪費に比べればいうに足らぬ。・・・(中略)・・・僕は実生活の無秩序に関する、彼の不可思議な無関心を明瞭に説明する言葉を持たぬ。(p.67『小林秀雄全集』第四巻)
以上のようなことが、ドストエフスキーについて多く言葉を綴る根底にあったと思われる。
さてそのような小林秀雄が、「トルストイを読み給へ」(『小林秀雄全集』第十二巻)を執筆しているのは、トルストイ「作品」への評価と言えよう。
「若い人々から、何を読んだらいいかと訊ねられると、僕はいつもトルストイを読み給へと答える。」(p.105『小林秀雄全集』第十一巻)
と回答している。ドストエフスキーではなく・・・
なお、小生のトルストイの読書計画は、『復活上・下』(新潮文庫)で最後にしたい。
映画版『アンナ・カレーニナ』は、トルストイ作品解釈に一石を投じた
アンナ・カレーニナ ヴロンスキーの物語
トルストイ原作『アンナ・カレーニナ』はこれまでに何度も映画化されている。
カレン・シャフナザーロフ監督の『アンナ・カレーニナ ヴロンスキーの物語』(2017)は、日露戦争時代に時間を設定し、アンナ死後30年後、ヴロンスキーの視点から見たアンナの死の謎に迫る作品になっている。
舞台は満州、足を負傷したヴロンスキーは、医師セルゲイ・カレーニンに治療を受け、母について尋ねられる。
この映画も、アンナとヴロンスキーの関係に焦点を当てているのは、映画版『アンナ・カレーニナ』の系列に連なる。
ロシア文学の文豪と言えばトルストイとドストエフスキーの二人に代表される。実際、ドストエフスキーは、『罪と罰』『地下生活者の手記』『悪霊』『白痴』『カラマーゾフの兄弟』を、学生時代に読み、光文社から古典新訳文庫で亀山郁夫訳の『カラマーゾフの兄弟』を再読している。また第一作『貧しい人々』も読む。
その他短編など読み、『未成年』(新潮社文庫)と『死の家の記録 』(光文社古典新訳文庫)が未読であり、文庫本を準備している。
一方、トルストイは中編『イワン・イリイチの死』(光文社古典新訳文庫)を読み、この作家の世界観の広さと深さは了解していたので、望月哲男訳の『アンナ・カレーニナ』』(光文社古典新訳文庫)を、遅ればせながら読み始めた。
第一部では、アンナの兄オヴロンスキーの浮気がばれて妻ドリーの怒りが収まらない様子と、リョーヴィン、キティが中心に貴族の家族の生活などが仔細に記述される引き込まれる。これだけで物話にひきこまれる。
ヴロンスキーは、やや遅れて登場し、アンナと同じ列車でモスクワに到着する。
キティとリョーヴィンが参加する舞踏会にアンナとヴロンスキーも参加しており、伊達男で美男子ヴロンスキーにアンナとキティは魅了される。今でいえばイケメン男性、男前つまり外見に惹かれるわけだ。
トルストイが、美男子ヴロンスキーと対比的に、普通の知的貴族であるリョーヴィンの思考や性格を対比させたのが、良く分かるところだ。
「幸せな家族はどれもみな同じようにみえるが、不幸な家族にはそれぞれの不幸の形がある」これは原作『アンナ・カレーニナ』の冒頭に記述される有名な警句だ。カレーニン家とリョーヴィン家の比較を冒頭に暗示している。
原作の翻訳は、前出の光文社古典新訳文庫で現在、第3部を読書中なので、また映画に戻る。
アンナ没後30年のヴロンスキーは、カレンの息子から母アンナとは実際どんな経緯があったのかを尋ねられたのを契機に、アンナとの出会いから彼女の悲惨な死までを回想してゆく手法をこの映画はとっている。
あくまで、「ヴロンスキーの物語」として描かれている。ヴロンスキーは遠い過去ではなく、あたかも現在進行形であるかのように感慨深く、アンナ夫人との出会いから瞬時に恋に落ちたことから、アンナとの燃えるような恋愛は、アンナの自殺を迎えることに、深い反省とともに自らの陶酔も反復する。
華やかで豪華な舞踏会や、オペラ劇場の19世紀的な歴史的雰囲気を見事に再現している。ヴロンスキーは現在の満州での生き方を清算すべく、ロシア軍の撤退に同行しない。やがて日本軍の攻撃を受けるであろう結末になっている。
原作では、カレーニン家族とリョーヴィン家族の二つがあまり交わることなく、別世界、換言すればカレーニン家の「不幸な家族」とリョーヴィン家の「幸せな家族」との対照的な生活の様子が描写されていた。それはヴロンスキーという異世界の美男子が、カレーニン家のアンナという貴婦人に強烈に惹かれ、また同時にアンナ夫人もまたヴロンスキーこそ愛すべき男と瞬間に察知した。ヴロンスキーの登場が全てを変容させた。とすればヴロンスキーの物語と読むことも可能である。
それは悲劇の始まりであったが、官能的な世界の戯れでもあった。どうしても読者あるいは、映画を見る者にとって最も関心を示す点である。ここから「ヴロンスキーの物語」が映画として試行する可能性を見出した。
以下に、映画版『アンナ・カレーニナ』DVD版を列挙するが、グレタ・ガルボ以来、ヴィヴィアン・リー、ソフィー・マルソー、キーラ・ナイトレイなど数多く映画化がなされている。しかしながら、ヴロンスキーの視点から描いたのは、今回が初めてであり、トルストイを多様な側面から捉える一面となる作品である。
『アンナ・カレーニナ』映画版例