シャーロット・ランプリングは老いの美しさを露出している

ともしび

 

シャーロット・ランプリング主演『ともしび』(Hannah,2017)は、老境にさしかかった主婦が、遭遇する一種普遍的な問題を内包している。冒頭、画面の右側にアン(シャーロット・ランプリング)の顔のアップが映り、奇妙な声が続いて発せられる。何かと思うと、演劇グループに参加していることがカメラの移動によって分かることになる。

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ともしび

 

アンナは地下鉄に乗って帰るが、窓に写された若い女性の着替えや化粧などを一種軽蔑の眼で静かにながめている。


冒頭から、アンナはほとんど自分の声を出すことはなく、行動に比重が置かれ、彼女の内面は推測するしかない。

夫と二人暮らしだが、淡々と夕食をとった翌朝、夫は刑務所に収監される。その罪状は映画の中では明かされない。

アンナは、ある裕福な家の家政婦をアルバイトとして、行っている。そこには、障害を持った子どもがいる。

あるとき、会員制プールで泳ぎ、帰り際に窓口で、会員資格の期限が切れていることが告げられる。

またあるときは、孫の誕生日祝いにケーキを造り、息子の家の前まで行くが、息子に拒否される。

アンドレア・パロオロ監督の意図は、どこにあるのか。きわめて分かりにくいように作られている。すなわち、キャメラは、アンナ(シャーロット・ランプリング)の行動と表情を捉えるのみで、内容を説明するナレーションがないし、言葉を極力排除している。

ラスト近く、アンナは、海に打ち上げられたクジラを見に行く。その意味も明かされない。

地下鉄の階段を延々と降りて行き、エスカレータがあるにもかかわらず、黙々と降りてホ-ムにたどり着く。電車が入ってきて乗車する。ドアが閉まり、走り去る。暗転して映画は終わる。


『ともしび』全体にわたり、キャメラは常に、シャーロット・ランプリングを捉えている。時には全身像のロング・ショットはあるが、接近して彼女の存在を、70歳になる一人の女性として見事なまでに美しく描いている。女優が、その存在を中心に、日常を追っているドキュメンタリーのようにも見えるが、あくまでフィクション=映画にほかならない。

 

一人の女性の老いの美しさを淡々と捉えた秀逸なフィルムだった。

 

シャーロット・ランプリングの作品

 

さざなみ [DVD]

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まぼろし<初回限定パッケージ仕様> [DVD]

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「トルストイを読み給へ」と小林秀雄は答えた

 

アンナ・カレーニナ


ずっと敬遠していた作家トルストイの最高傑作とも言える『アンナ・カレーニナ』(望月哲男訳,光文社古典新訳文庫)全4冊、8部を読了した。アンナとヴロンスキーが中心というか、むしろ狂言回し的に書かれていること、リョーヴィンこそがトルストイに他ならないことを了解した。

 

 

アンナ・カレーニナ〈3〉 (光文社古典新訳文庫)

アンナ・カレーニナ〈3〉 (光文社古典新訳文庫)

 

 


すなわち、リョーヴィン、キティ、ドリーが19世紀ロシア貴族の生活者の姿なのだ。

シドニー・シュルツによれば、「作品を構成する239の章は、34のセグメントにかれていて、しかもアンナとリョーヴィンのセグメントがそれぞれ17といういわばバランスのとれた構造をなしている」(p588「第3巻 読書ガイド」)と言う。

 

 

アンナ・カレーニナ〈4〉 (光文社古典新訳文庫)

アンナ・カレーニナ〈4〉 (光文社古典新訳文庫)

 

 

 

アンナ・カレーニナ』のタイトルを担うアンナと、リョーヴィンが同じ比重で書かれていることが解かる。しかも全体の構造からみれば、第7部でアンナの死により、物語の結末が示され、アンナ死後つまり登場人物達のその後第8部が割かれていることになる。

 

ヴロンスキーは、次の戦争に参加すべく旅立つ。リョーヴィンとキティの田舎生活は、平和に続きそうだ。それにしても、翻訳の技術を除外しても、トルストイの小説構成力は、19世紀において抜群の上手さであることを感じさせる。

 

 

 

アンナ・カレーニナ』読了後、『クロイツェル・ソナタ』を読み、生・性・恋愛・結婚などについて、妻を殺害した男が倒叙法ににより淡々と自説を述べて行く手法と、あるいはトルストイ自身の考えが反映されていると考えられる。

 

 


ナボコフの『ロシア文学講義下』(河出文庫,2013)では、タイトルを『アンア・カレーニン』としている。つまりカレーニン夫人というわけだ。原題は"АннаКаренина"になっており、女性名の「カレーニナ」とするか「ボヴァリー夫人」のように「カレーニン夫人」でもいいだろう。

 

ナボコフによれば作家の順位は一番トルストイ、二番ゴーゴリ、三番チェーホフ、四番ツルゲーネフとしており、ドストエフスキーについては、

人々にたいするドストエフスキーの自己満足的な憐み―虐げられた人々への憐れみは、純粋に情緒的なものであって、その一種特別毒々しいキリスト信仰は彼がその教義から遥かにかけ離れた生活を送ることを決して妨げはしなかった。一方、レオ・トルストイはその分身のリョーヴィンと同じように、自分の良心が自分の動物的性情と取引することをほとんど生理的に許せずーその動物的性情がより良き自己にたいしてかりそめの勝利を収めるたびに、ひどく苦しんだのである。(p.15『ロシア文学講義下』)

トルストイとは対照的に評価している。

 

ドストエフスキー評価は、ナボコフと異なるが、『アンナ・カレーニン』と『イワン・イリイチの死』を解説することで、トルストイへの絶賛的な評価には賛同したいと思う。

 

小林秀雄全集〈第4巻〉作家の顔

小林秀雄全集〈第4巻〉作家の顔

 

 


以下は関連事項として記述する。小林秀雄トルストイの家出について正宗白鳥と論争をしている。批評文「思想と実生活」と「文学者の思想と実生活」を読む。

「実生活を離れて思想はない。併し、実生活に犠牲を要求しない様な思想は、動物の頭に宿っているだけである。社会的秩序とは実生活が、思想に払った犠牲に外ならぬ。・・・(中略)・・・思想は実生活の犠牲によって育つのである。」(p.72『小林秀雄全集』第四巻)

いかにも小林秀雄らしいレトリックである。小林秀雄は、ドストエフスキーに多くの評論を残している。『ドストエフスキイ』や『ドストエフスキイの生活』など。「永遠の良人」から始まり「未成年」「罪と罰」「白痴」「地下室の手記」「悪霊」「カラマゾフの兄弟」と主要作品について言及しているが、トルストイに関しては、少ない。

 

小林秀雄は、ドストエフスキーについて以下のような考えを書いている。

ドストエフスキイの実生活を調べていて、一番驚くのは、その途轍もない乱脈である。彼の金銭上の乱費なぞは、その生活そのものの浪費に比べればいうに足らぬ。・・・(中略)・・・僕は実生活の無秩序に関する、彼の不可思議な無関心を明瞭に説明する言葉を持たぬ。(p.67『小林秀雄全集』第四巻)

以上のようなことが、ドストエフスキーについて多く言葉を綴る根底にあったと思われる。


さてそのような小林秀雄が、「トルストイを読み給へ」(『小林秀雄全集』第十二巻)を執筆しているのは、トルストイ「作品」への評価と言えよう。

 

「若い人々から、何を読んだらいいかと訊ねられると、僕はいつもトルストイを読み給へと答える。」(p.105『小林秀雄全集』第十一巻)


と回答している。ドストエフスキーではなく・・・

なお、小生のトルストイの読書計画は、『復活上・下』(新潮文庫)で最後にしたい。

 

復活(上) (新潮文庫)

復活(上) (新潮文庫)

 

 

 

復活(下) (新潮文庫)

復活(下) (新潮文庫)

 

 

 

映画版『アンナ・カレーニナ』は、トルストイ作品解釈に一石を投じた

アンナ・カレーニナ ヴロンスキーの物語


トルストイ原作『アンナ・カレーニナ』はこれまでに何度も映画化されている。

カレン・シャフナザーロフ監督の『アンナ・カレーニナ ヴロンスキーの物語』(2017)は、日露戦争時代に時間を設定し、アンナ死後30年後、ヴロンスキーの視点から見たアンナの死の謎に迫る作品になっている。

 

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舞台は満州、足を負傷したヴロンスキーは、医師セルゲイ・カレーニンに治療を受け、母について尋ねられる。

この映画も、アンナとヴロンスキーの関係に焦点を当てているのは、映画版『アンナ・カレーニナ』の系列に連なる。

 

ロシア文学の文豪と言えばトルストイドストエフスキーの二人に代表される。実際、ドストエフスキーは、『罪と罰』『地下生活者の手記』『悪霊』『白痴』『カラマーゾフの兄弟』を、学生時代に読み、光文社から古典新訳文庫で亀山郁夫訳の『カラマーゾフの兄弟』を再読している。また第一作『貧しい人々』も読む。
その他短編など読み、『未成年』(新潮社文庫)と『死の家の記録 』(光文社古典新訳文庫)が未読であり、文庫本を準備している。

 

 

アンナ・カレーニナ 1 (光文社古典新訳文庫)
 

 

 

一方、トルストイは中編『イワン・イリイチの死』(光文社古典新訳文庫)を読み、この作家の世界観の広さと深さは了解していたので、望月哲男訳の『アンナ・カレーニナ』』(光文社古典新訳文庫)を、遅ればせながら読み始めた。

 

第一部では、アンナの兄オヴロンスキーの浮気がばれて妻ドリーの怒りが収まらない様子と、リョーヴィン、キティが中心に貴族の家族の生活などが仔細に記述される引き込まれる。これだけで物話にひきこまれる。

 

ヴロンスキーは、やや遅れて登場し、アンナと同じ列車でモスクワに到着する。
キティとリョーヴィンが参加する舞踏会にアンナとヴロンスキーも参加しており、伊達男で美男子ヴロンスキーにアンナとキティは魅了される。今でいえばイケメン男性、男前つまり外見に惹かれるわけだ。

トルストイが、美男子ヴロンスキーと対比的に、普通の知的貴族であるリョーヴィンの思考や性格を対比させたのが、良く分かるところだ。

 

「幸せな家族はどれもみな同じようにみえるが、不幸な家族にはそれぞれの不幸の形がある」これは原作『アンナ・カレーニナ』の冒頭に記述される有名な警句だ。カレーニン家とリョーヴィン家の比較を冒頭に暗示している。

 

 

アンナ・カレーニナ 2 (光文社古典新訳文庫)

アンナ・カレーニナ 2 (光文社古典新訳文庫)

 

 

 

原作の翻訳は、前出の光文社古典新訳文庫で現在、第3部を読書中なので、また映画に戻る。

アンナ没後30年のヴロンスキーは、カレンの息子から母アンナとは実際どんな経緯があったのかを尋ねられたのを契機に、アンナとの出会いから彼女の悲惨な死までを回想してゆく手法をこの映画はとっている。

 

あくまで、「ヴロンスキーの物語」として描かれている。ヴロンスキーは遠い過去ではなく、あたかも現在進行形であるかのように感慨深く、アンナ夫人との出会いから瞬時に恋に落ちたことから、アンナとの燃えるような恋愛は、アンナの自殺を迎えることに、深い反省とともに自らの陶酔も反復する。

 

華やかで豪華な舞踏会や、オペラ劇場の19世紀的な歴史的雰囲気を見事に再現している。ヴロンスキーは現在の満州での生き方を清算すべく、ロシア軍の撤退に同行しない。やがて日本軍の攻撃を受けるであろう結末になっている。

 

原作では、カレーニン家族とリョーヴィン家族の二つがあまり交わることなく、別世界、換言すればカレーニン家の「不幸な家族」とリョーヴィン家の「幸せな家族」との対照的な生活の様子が描写されていた。それはヴロンスキーという異世界の美男子が、カレーニン家のアンナという貴婦人に強烈に惹かれ、また同時にアンナ夫人もまたヴロンスキーこそ愛すべき男と瞬間に察知した。ヴロンスキーの登場が全てを変容させた。とすればヴロンスキーの物語と読むことも可能である。

 

それは悲劇の始まりであったが、官能的な世界の戯れでもあった。どうしても読者あるいは、映画を見る者にとって最も関心を示す点である。ここから「ヴロンスキーの物語」が映画として試行する可能性を見出した。

 

以下に、映画版『アンナ・カレーニナ』DVD版を列挙するが、グレタ・ガルボ以来、ヴィヴィアン・リーソフィー・マルソーキーラ・ナイトレイなど数多く映画化がなされている。しかしながら、ヴロンスキーの視点から描いたのは、今回が初めてであり、トルストイを多様な側面から捉える一面となる作品である。

 

 『アンナ・カレーニナ』映画版例

 

アンナ・カレーニナ [DVD]

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アンナ・カレーニナ [DVD]

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アンナ・カレーニナ [DVD]

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アンナ・カレーニナ [DVD]

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アンナ・カレーニナ [DVD]

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アンナ・カレーニナ [DVD]

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『映画めんたいぴりり』は地方発の貴重なフィルムだ

映画めんたいぴりり


テレビ西日本制作の『めんたいぴりり』が2013年テレビドラマとして放映され、好評につき『めんたいぴりり2』が2015年に放映された。
第30回ATP賞・奨励賞、第51回ギャラクシー賞・奨励賞を受賞し、地方発の連続ドラマとしては異例の大きな評価を得た。

 

 

 この評価を受け、映画版『映画めんたいぴりり』が、この度の公開となった。

 

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映画めんたいぴりり

映画版のキャストは、ほとんどがTV版を引き継ぎ、博多華丸富田靖子が夫婦の役を演じて見応えある映画に仕上がっている。

主人公のモデルとなった川原俊夫は「ふくや」の創業者で、辛子明太子を日本で初めて製造・販売し福岡県を代表する食産品に育て上げた人物であり、NHKの「朝ドラ」のような作品だったと想像される(ドラマ版は未見)。

映画版は、昭和30年代のめんたいこ造りに夢中となる華丸家族とその周辺が描かれるが、戦争体験が通奏低音となっている。息子の同級生である豊嶋花が両親を亡くし親戚の家に引き取られているが、遠足に行くための新しい靴やリュックサックが買えない状況であり、華丸が「あしながおじさん」として「めんたいこ」の味が幸せをもたらすと少女を助ける。

 

めんたいこ愛が、家族や従業員、更には「ふくのや」のめんたいこ味を盗もうとする柄本時生に対しても、めんたいこが普及するならと大量に譲渡し、笑顔でこたえる。華丸演じる主人公は、戦争という修羅場を経験しているからこそ、他者に対する愛、食べ物への愛にこだわる。

 

昭和30年代の博多が舞台である『映画めんたいぴりり』は、地方発の温かいお話である。もはや今の日本に失われた世界を想起させる。その意味では貴重なフィルムとなっている。

ツルゲーネフを19世紀ロシア文学の中で正当に評価しよう

父と子

ツルゲーネフ著、工藤精一郎訳『父と子』を時間がかかりながらも、読了した。
ツルゲーネフの代表作と評価されているのも首肯できる。

 

 

 

父と子 (新潮文庫)

父と子 (新潮文庫)

 

 

アルカージーが、友人でありニヒリストでもあるバザーロフとともに、父ニコライ・ペトローヴィチのもとへ帰郷するシーンから物語は始まる。

 

 

 

『父と子』について、ナボコフは次のように最大の評価を与えている。

 

『父と子』はツルゲーネフの最良の長編であるのみか、十九世紀の最も輝かしい小説の一つである。ツルゲーネフは自分が意図したことを、すなわち男性の主人公、一人のロシア青年を創造するという仕事をうまくやってのけた。・・・(中略)・・・ザハロフは疑いもなく強い人間であって、―もし三十過ぎまでいきていたら、この小説の枠を超えて偉大な社会思想家、あるいは高名な医者、あるいは積極的な革命家になったかもしれない人物である。だがツルゲーネフの資質と芸術には共通した弱さがあった。つまり自分が考えだした主人公の枠内で、男性の主人公に勝利を掴ませることができないという弱さである。・・・(中略)・・・ツルゲーネフはいわば自らに課した類型から登場人物を救いだして正常な偶然性の世界に置く。(p172-173『ナボコフロシア文学講義上』)

ニヒリストであるバザーロフは、ロシア十九世紀の突出した人物造型がなされている。確かに20世紀以降ではやや奇異な人物にみえる。
バザーロフは、アルカージーの伯父パーヴェル・ペトローヴィチと、父の愛人フェニーチカを巡って決斗に至る。パーヴェルの負傷に終わる。

 

アルカージーと、友人バザーロフは、美人の未亡人アンナと妹カーチャの住む家を訪ねるシーンは、『父と子』の中で唯一ロマンティックな読みどころとなっている。

バザーロフは、唯一恋らしきものを感じたアンアに介抱されながらも、パンデミックに侵され死亡する。


アルカージーは、妹カーチャと結ばれる。父ニコライ・ペトローヴィチは、愛人フェニーチカと再婚にこぎつける。

物語の終わりに蛇足が置かれ、その後の登場人物たちの生活が綴られる。読む者は、ほっと一息つく。

しかしながら、『父と子』は早すぎたニヒリストの物語であった。

 

 

はつ恋 (新潮文庫)

はつ恋 (新潮文庫)

 

 

 

初恋 (光文社古典新訳文庫)

初恋 (光文社古典新訳文庫)

 

 

 

猟人日記 (角川文庫)

猟人日記 (角川文庫)

 
 
ツルゲーネフ著『ルージン』 (岩波文庫)が、2019年2月に復刊される。余計者の系譜上、重要な小説である。まず最初に読むべきは、『ルージン』である。その後『初恋』や『猟人日記』に進むのがよろしいかと思う。

 

「鈴木家の嘘」は、予想範囲内の出来だ。

 

野尻克己監督『鈴木家の嘘』(2018)を観る。

 

父・岸部一徳、母・原日出子、長男・加瀬亮、長女・木竜麻生の家族。引き籠りの長男が自殺したことで、ひきおこされる家族の混乱を、一種のユーモアを交えてに描かれる。しかしながら、冗長さは否めない。この主題で133分は長い。つまり余計なシーンや、カットできるシーンが多い。90分あれば十分。監督の主観で引き延ばすのはよろしくない。

 

加瀬亮に対する家族の誰もが罪の意識を持つが、それが徐々に明かされて行く。その過程自体は説得的だが、あらかじめ予測できる範囲を超えていない。

 

監督第一作ということでの力みがあったのではないか。長女役の木竜麻生が印象に残った。

 

鈴木家の嘘 Original Soundtrack

鈴木家の嘘 Original Soundtrack

 

 

 

 

木竜麻生写真集 Mai

木竜麻生写真集 Mai

 

 

 

 
 

 

 

P.G. ウッドハウスを読む

年末から、2005~2007年にかけて発売されていた国書刊行会文藝春秋版の文庫版・P.G. ウッドハウスジーブスものを読む。文庫本は、2011年刊行。

 

気楽に読むことの楽しさ、それ以上でも以下でもない。

 

 

ジーヴズの事件簿―才智縦横の巻 (文春文庫)

ジーヴズの事件簿―才智縦横の巻 (文春文庫)

 

 

 

ジーヴズの事件簿―大胆不敵の巻 (文春文庫)

ジーヴズの事件簿―大胆不敵の巻 (文春文庫)